四百八十九 志七郎、禍歌を聞き覚悟決める事
それは俺の目からは余りにも異様な光景に見えた。
汚れ擦り切れ破れた着物を身に纏った一人の侍が、金色の輝きが異様に目を引きつける横笛を吹き鳴らし、ソレを取り囲み虚ろな瞳で音に合わせて身体を左右に揺らしながら火元国の言葉では無い謎の言葉で歌う少女達の姿。
拍子を知らせる打楽器の音も無く、指揮者すら居ないと言うのに、一拍のズレも無く綺麗に揃った歌声は、永らく練習を続けた合唱団を思わせる。
その音源は確かに目の前に居る彼らだと言うのに、木々に反響しての事なのか、前後左右と常に場所を変えながら脳に直接響いて居る様にすら感じられた。
いや実際響いているのだろう、俺自身も気を抜くと視界が揺らぐ様な嫌な感覚に襲われる。
ぱっと見る限り生贄の様な血生臭い何かこそ無い物の、其処で行われているのは間違い無く邪教の儀式か何かなのだろう。
「つか、ありゃぁ……天弓武庵じゃねぇか? なんで彼奴がこんな所に?」
どうやらあの笛の音も歌も火取には何ら影響を与えていない様で、俺の隣で木陰に身を隠したまま冷静にそんな事を口にする。
ちなみに二人とも騎獣は少し離れた所に置いてきた。
四煌戌は勿論、火取の風太も余程の事が無ければ勝手に逃げる様な事は無く、万が一逃げても呼べば来ると信頼しているので、繋いだりはして居ない。
「……知ってるのか?」
気付かれない様声を潜めそう問いかける。
氣を高め視力を強化してなんとか見える程度……と距離はまだ大分有るし、ソレ以上に連中の奏でる笛の音と歌声が邪魔で多少の物音は届かないだろうが、ソレでも気を付けるに越した事は無い。
「ああ、何年か前にこの辺で派手な活躍した鬼切り者でな。俺の記憶が確かならその腕を買われてどっかの武家に仕官した筈なんだがな……真逆こんな馬鹿な真似を真っ当な武家が命じる筈もねぇし……どうなってやがんだ?」
ほんの数日でしか無い火取との付き合いだが、武芸者としての腕前も、その見識も信用に足る物だと思うには十分な物を見たと思っている。
その彼が言うのだから、彼処であの怪しげな笛を吹き鳴らしているのは天弓武庵と言う男なのは間違い無いのだろう。
そして奴が一度は仕えるべき相手を見つけたと言うのも事実の筈だ。
だがそれはきっと過去の話、碌な鎧兜も身に纏わず、ボロボロに擦り切れた着物を見れば、浪人者ですら身に纏うべき武士の体面を取り繕う余裕すら無い生活をして来たのは明らかである。
にも関わらず、売れば決して二束三文と言う事は無いだろうあの笛を持ち続けているのは何故だろう……。
俺には音を聴いて楽器の良し悪しが判断出来る程の音楽的才能は無い……と言うか、楽器の演奏が当たり前の教養の一つである此方の世界で、学ぶ事を選んだのが和太鼓だと言う時点で色々と察して欲しい。
それでもアレが尋常の品では無い事は、氣を抜けば勝手に視線が引き寄せられる異常なまでの存在感が教えてくれる。
……俺にはその奇妙な存在に既視感を覚える物が有った、義二郎兄上の腕を奪った『妖刀』だ。
大鬼や大妖が自身の一部を封じ作りあげる妖刀は、斬り殺された者の魂を食らい担い手に巨大な力を与える。
だがソレは飽く迄も一時的な物で、妖刀に宿った化物の欠片は最終的に担い手すらも食らい尽くし本体の分身とでも言うべき物が孵化する……そんな物だ。
アレはその姿こそ刀では無いが、恐らくは類似する何か……敢えて名付けるとすれば『魔笛』とでも言うべき物なのだろう。
その担い手で有る天弓と言う男が未だ正気を保っているのか、それとも魔笛に操られているのかは解らないが、歌わされている少女達が何時までも無事と言う事はあるまい。
兎角先手を打って、少しでも早く蹴りを付けるのが良いだろう。
そう判断した俺は懐から拳銃を取り出すと、あの笛に照準を定める。
状況的に奴が打ち倒されねば成らない敵なのは間違いないとは思うのだが、問答無用で頭を撃ち抜くと言うのはどうしても抵抗が有ったのだ。
「おい、坊主……お前ぇ真逆たぁ思うが、人を殺めた事が無ぇってんじゃぁ有るめぇな? 殺れる時に殺っとかねぇと、絶対ぇ後悔すんぞ。温い事考えてねぇでヤるならきっちり仕留める積りでやれよ?」
けれどもそんな内心を見透かしてか、それとも単純に銃口の向く先を読んでの事か、火取は囁く様な声量ながらも鋭く厳しい事を口にする。
日々の鬼切りで命を奪う事には慣れてしまった感も有るが、ソレでも俺はまだ直接人を殺めた事は無い。
俗に人の命を奪った事が有るかどうかを『童貞』と表現する事が、前世の俺は両方の意味で純潔を守り通していた訳だ。
だが命と言う物が余りにも軽い此方の世界で、ソレを守り続ける事に意味は有るのだろうか?
いや積極的に人を殺めたいと言う訳では無い、そんな事を考える様では其奴はまともな精神状態とは言えない。
けれども武士と言う統治側に立つ者として時には、自分の手を汚す覚悟が必要なのも事実。
思い返して見れば俺自身が逮捕した犯罪者が、裁判の結果として極刑に処された事は無いし、俺が命令を下した結果部下が殉職してしまった事も無い。
とは言え、結果的に相手を殺してしまう可能性が有る状況で銃を撃ったり、ソレを命じた事が無いと言う訳でも無い。
同僚や知り合いと言った程度の者が殉職した経験が皆無では無い、何人もの人が犠牲に成った広域重要指定事件を解決する為に、日本中から優れた刑事を集めた合同捜査本部に招集された時ですら、見知った顔が欠ける事は無かった。
結果的にだとしても人を殺してしまった事も無ければ、身内の死すら縁遠かった俺は、その職業の割には極めて幸運だったと言えるのだろう。
今までだって一つ釦を掛け違えば、人の命を奪う事に成ったで有ろう事は、一切なかった訳じゃぁ無い。
……俺自身が直接手に掛けた訳では無いが、お忠の父親や妖刀使いの時など、最終的には命を奪ったと言っても間違い無い事件は有ったのだ。
今更ながら敢えて『殺す』と意識した途端、手が震えそうに成るが、氣を高める事で無理矢理にでも腕の振れを抑え込む。
幸いと言うかなんと言うか、相手は両目を瞑り演奏に集中している様で、此方に気が付いた様子は無いし、周りに居る少女達よりも頭二つ分は長身なので射線に入る事で誤射してしまう心配も無い。
一度大きく息を吐き、それから深く肺に空気を入れ、そのまま呼吸を止める。
氣は呼吸と共に生み出される物なので、止めてしまえばそれ以上に氣を高める様な事は出来ないが、手振れを減らし覚悟を決める短い間ならば問題は無い筈だ。
一射で仕留めるなんて贅沢は言わない、弾倉に入ってる六発全てをあの頭に叩き込めば良い。
より正確な射撃を求めるので有れば、左手では無く右手で銃を持つべきなのだろうが、最悪の状況を想定し、刀を扱う為に利き手は空けておく。
照門を覗き込み、照星と奴の頭が一直線に並ぶ様、しっかりと狙いを付け、撃鉄を引き起こす。
丁度その時、笛の音が一際大きく鳴り響き、それに合わせる様に少女達の歌声は一段階、熱を帯びた物へと変わっていった。
これ以上時間を掛けては拙い、そう思って急いで引き金を絞ろうとした、その瞬間……それまで閉じられていた天弓の両目が見開かれ、丸で夜の闇を塗り込めた様な、真っ黒な穴が開いたか彼のような眼球が露出し、その視線が俺を射抜いたのだ。
気付かれた!? でも遅い!
呪いが篭っているとしか思えぬ禍々しい笛と歌を切り裂き、続け様に六回、火薬の弾ける乾いた銃声が辺りに響き渡るのだった。




