四十七 志七郎の大江戸観光記 その二
俺の内心を知ってか知らずか兄上はゆったりとした足取りで、江戸城のある方向へと進んでゆく。
大路に面した建物はその殆どが平屋で稀に2階建てがある程度である、景観条例でも有るのだろうか?
だが、その御蔭もあって曲がりくねり先の見えない道であるというのに、その先に有る江戸城がはっきりと見えた。
ちょうど今いる場所は江戸城を遠目に見るには良い場所の様で、俺達の他にもいかにもお上りさんですと言わんばかりの男たちが足を止め城を眺めている。
「兄上、あの男……」
そういう場所であれば気も漫ろとなった観光客を狙った、スリや置き引きの類は何処の世界でも付きものなのだろう。
三課の経験は無いのだが気がついてしまったのだからしょうがない。
俺の囁きに兄上も次第を察した様で静かに位置を変える。
犯行は大胆な物で明らかに観光客と解る者達の袂を次々と刃物で切り、そこに入っている物を奪うという形で行われていた。
恐らく1回の犯行では俺は気付けなかっただろう、だが犯人は調子に乗っているのか次々と得物を食らっていく。
「阿呆でござるな。いい加減で止めておけばとっ捕まる事も無かったに……」
ぼそり、とそうつぶやき兄上はその男の足を払った。
「誰かその辺の番所に知らせてくれ。巾着切りでござる!」
倒れこむスリを踏みつけつつそう言うと、よく有る事なのか慌てふためくのは被害者ばかりで、この辺りで商売をしている者達は動じる様子も無かった。
そんな中誰かが呼びに行くまでも無く兄上の声を聞きつけたらしい役人らしい男が姿を見せた。
黒く短い羽織を身に纏い、昼間だというのに御用提灯と十手を持ったその男はどこからどう見ても、同心もしくは岡っ引と言われる下級役人だろう。
腰に大小を下げていない所を見ると、武士階級ではない岡っ引の方だろうか。
「これはこれは鬼二郎様、いつもお世話様です」
群衆の中にいても頭ひとつは大きな兄上の事、やって来た岡っ引は兄上の顔を見る間もなくそう言って頭を下げた。
「うむ。些末事故、普段ならば気にも止めぬが、目の前でああも大胆にやられては見逃しては置けぬ。して其方は何処の何様でござったかのう」
兄上らしからぬ上から見下ろした様な物言いに、少し引っ掛かるものを感じながら、そのやり取りを見守る。
「へぇ、七目様より十手を預かります五分郎と申しやす」
「七目……西奉行所の七目惣右衛門様の配下で相違ござらぬな」
睨みつけるような鋭い視線で五分郎と名乗った男を見下ろす兄上、どういう意図による物かは解らないが、それでも彼を信用して居ないと言う事は端からでもハッキリと解った。
「へい、間違いございやせん」
そんな兄上に対し卑屈そうな笑みを浮かべ、それでも引くこと無くそう言い切った。
「天下の往来を女子供でも歩めるのは其方らの尽力に拠るものよ。それがしは目障りな蝿を叩いただけの事でござる」
踏みつけられたまま動くことも出来ない犯人を、一瞥しそう言うと兄上は相手の反応を待つこと無くその場を後にするのだった。
「なぜ直ぐに引き渡さなかったのですか?」
流石にその場で疑問の声を上げるのは、あまりにも空気が読めていない行動だろう、そう判断しある程度離れた場所でそう問いかけた。
「あれは御用聞きと言って正式な役人ではござらん」
兄上曰く、所謂岡っ引――正式には御用聞き――は同心と言われる下級役人の更に下に居る者達で、彼らは元々犯罪者なのだがその中でも罪状が軽微だったり、重罪でも腕が立つなどの理由で司法取引の様な扱いを受けている者なのだという。
中には犯罪者であった頃の人脈がそのまま生きている者も居り、引き渡してももみ消しや、悪くすれば上前を跳ねるための『グル』と言う事も有るのだそうだ。
そこで兄上は相手に自分の上役の名前を出させる事で牽制したと言う事らしい。
前世の警察も決して綺麗な組織ではなく色々と有ったが、さすがに犯罪者とグルでと言う事は無かったはずだ。
そう考えると江戸の治安組織と言う物が、前世とは比べ物に成らない程信用成らない様に思える。
「そう言えば其方の過去世は捕り方の様な生業だという話でござったな。弱いだけの者は食われる……これも大江戸の姿でござる」
兄上にも何か思う所は有るのだろう、朗らかないつもの表情とは違う、引き締まった顔でそう呟いた……。
ゆったりとした歩みながらも、日が頂点へと達するより早く、俺達は江戸城の城門前へとやって来た。
そこは大きな広場となっており、広場に面した場所には多くの見世が軒を連ね賑わっていた。
城の前という事で警戒も露わな武士たちが厳しい面で見張っているのかと思えば、そんな事は一切なくその賑わいぶりは観光の中心地と言った風情である。
「ここが江戸のほぼ中心、正門前広場でござる。江戸市中で道に迷うたならば取り敢えずここを目指すと良い」
ここからならば東西へと伸びる大路へ行くのも、南北を走る川を行き交う船に乗るのにも
簡単なのだそうだ。
此処へ来るまで大路経由で家路を辿る際の目印をいくつも教えられたので、確かにここまで来ることができれば自力で帰ることもできそうだ。
しかし江戸の中枢である城の真ん前だというのに、この警戒心のなさはどうだろう、城門には門番らしき姿すら無い。
そうして俺が周りを見回しているのを他所に、目的地はここではないと言わんばかりの淀みない足取りで兄上は進んでゆく、その先は勿論城門である。
「ちょ、兄上。さすがに勝手に入ってはマズイんじゃないですか!?」
「ん、なに問題ない」
誰に咎められる事無く堀に架かった橋を渡り城門を潜ると、そこは綺麗に整えられた公園の様になっていた。
「あれ……? えーと」
至る所に見える売店とそこら中で寛ぐ人々の姿は、俺のイメージしていた厳格で厳重な物ではなく完全に観光地のそれだった。
クククッと喉を鳴らす様に笑う兄上曰く、江戸城には東西南北それぞれに門があり、他の三門はその内側に直臣達の生活の場があり、南門はすべての民に開かれた場所となっているのだという。
イメージとのギャップにあっけに取られているうちに、兄上はどんどんと歩を進めていく。
途中、この道の先には道場が有る、とかこっちの先には学問所、と言った風に道を示されるのだが、それらの道にも軍事施設という雰囲気は全く無い。
どんどん進んでいくがどこまで行っても、厳しい顔をしたいかにも武士でございと言う顔は無く、偶に見かけるのも武器を携えてはいる物のその表情は穏やかな物だ。
「よし、志七郎。ここからは建物の中でござるから自分の足で歩くのだ」
そう言って降ろされたのは、何やら受付と言うかテーマパークの入り口の様な奇妙な入り口である。
入り口には若い侍が座っており、兄上は袂から銭を取り出すと彼にそれを渡す。
え? 袖の下……? 一瞬、兄上が犯罪に手を染めたのかと思ったが、よくよく見るとちゃんと『大人:百文 小人:五十文 五歳以下無料』と明記されている。
「えー、ここは何なのでしょう?」
そんな俺の問いにも兄上はニヤニヤとした笑みを浮かべるだけで、答えることはなくただ先に進むよう促される。
さすがに訝しむ気持ちも有るのだが、今更兄上が俺を騙してどうこう、と言うのも考えづらく、素直に先に進んでいった。
建物に入ってからただ単に道なりに進んでいたのだが、その廊下には多くの鎧や刀剣、書画等が飾られており、ここは博物館やその類なのだと思えた。
そう考えると、飾られているのが国宝級のそれだと考えれば、城壁の中に有るのも頷ける。
だが、そんな考えは最奥と思われる場所へたどり着いた瞬間に霧散した。
「ここからならば、江戸州すべてを見渡すことが出来るぞ」
誇らしげに胸を貼ってそういう兄上を見上げ、俺は気が遠くなる思いがした。
何故ならば、ここは江戸城の天守閣だったのだから……。




