四百八十五 志七郎、甘味を望み胸糞悪く吐き捨てる事
猪山への分れ道を過ぎ、然程険しくもない峠を一つ越える。
この峠の一番高い所を超えた辺りから、浅雀藩の領地と言う事に成るらしい。
「おう、彼処に見える茶屋で一服しようぜ。彼処の外郎はこの辺じゃぁ一番美味いんだ」
九十九折の下り道を半分ほど過ぎた辺りで、火取が道の下に見える平地に僅かに見える一軒の見世を指差しそう言った。
「外郎かぁ……そう言や食べた事無いなぁ」
前世から洋菓子よりは和菓子が好きで、『豆大福』や『ゆべし』『すあま』なんかは署の近くに有った和菓子屋で買ってよく食べたが、外郎は残念ながら食べる機会が無かった。
と言うか、日本全国津々浦々、時には海外にも出張や研修で出掛ける事の多かった俺だが、何故か名古屋とその近辺だけは行く機会が無かったのだ。
勿論、同僚や部下も含めて行った事が無いと言う訳では無いのだが、不思議と外郎を土産にする者は居なかった……いや、一度だけ誰かが買ってきた事は有るのだが、食い意地の張った馬鹿な部下が俺の分まで食ってしまったんだった。
うん、食った事の無い、しかもソレが食いのがした物だと思うと、ほんの少しだけれども気が急くな……。
「んじゃ、駆け下りるかい? お前さんのそのどデカイワン公なら、態々道に沿ってゆっくり降りてかなくても、崖を駆け下りる位の芸当ぁ出来んだろ?」
出来るか出来ないかで言えば、多分不可能では無い、けれども……
「いやいやいや! んな無茶な真似をする様な状況じゃぁ無いだろ。しかも下を歩いている人を引っ掛けでもしたらどうすんだよ!」
この道を下っているのは俺達だけじゃぁ無い、直接当たる様な事が無かったとしても、崖を駆け下りる最中に石の一つでも蹴り飛ばせば、何処で誰に当たるかも解った物では無い。
「んなもん、当たる奴が間抜けなだけだろーよ。幾ら結界が有るたぁ言え、いつ何時何処から化物が出るか解らねぇ世の中だぜ? ボケっと歩いてりゃくたばんなぁ当たり前ってなもんじゃねぇか」
幾ら命の値段が安い世界だって言っても、そんな論理は通用しないと思うんだが……江戸州を一歩出ればソレは更に軽く成るらしい。
「だからって好き好んで無理無茶無謀を押し通す様な真似をする気は無い、俺はゆっくり安全に下りて行く。ソレが嫌なら一人で先に行けば良い」
郷に入れば郷に従えとは言うし『食う為に殺す』事には流石に慣れた、けれども治安が悪い所に行ったからと言って良識を捨てる様な真似をする必要は無い。
「んだよ、つまんねぇなぁ……猪山の男ならもちっとはっちゃけてるもんなんじゃねぇの? まぁ、お前さんがそ~言うなら自重すっかね」
等と言いながら煙管をペン回しの要領で手遊んで居るのを見るに、此奴は早く外郎が食いたいんじゃ無くて、煙草が吸いたいって事なんだろう。
此方ではある程度の年齢に成れば大概誰でも吸うのが当たり前と言える普及率の煙草だが、残念ながら俺は以前からソレを吸う習慣が無かった。
いや前世でも俺が任官した頃の同期は勿論、先輩方も大半は喫煙者だったし、取引相手連中は勿論吸わない者の方が珍しい。
煙草を吸わず、酒も好まないと言うだけで舐められる様な事も有った程だ。
ソレでも俺が煙草に手を出さなかったのは、何というか……単純に機会が無かったからである。
子供の頃から大学入学まで殆ど一緒に過ごした二人の親友も、片方は二度目の大学で地元を離れてから覚えた様だが、もう一人の方は俺と同じく手を出して無かった筈だ。
若い内に覚えなけりゃ、歳を食ってから手が出し辛く成るのは何でも同じと言う事だろう。
酒も好まず、煙草は手を出さず、女を買うでも無く、博打も打たない、何が楽しくて生きてるんだ……なんて言われる事も有ったが、隙間時間にネット小説を読み漁る事が楽しかったんだから仕様が無い。
まぁ、そんな欲らしい欲も無く生きてたんだから、クタバッた時には貯金通帳の額面が凄い事に成っていた筈だが……その中身は親不孝の対価とでも言うべきか、今となっては無駄遣いなんぞしなくて良かったとすら思う。
「ん……? 街道の茶屋にしては、周りに随分人が多くないか?」
未練がましく煙管を弄ぶ火取から視線を逸らし、再び下界に目をやると、周りには特に大きな建物が見当たらないにも関わらず、妙に人が多い事に気が付いた。
幾らこの辺で一番美味い外郎が有る茶屋と言っても、見世の周りに人混みが出来る程と言うのは少々解せない。
「ああ、有りゃぁ人市に来てる連中だろよ。あの見世からちっと離れた場所に有るんだが、あの辺は結界の範囲外だかんな、落ち着いて飲み食いしたけりゃあの見世か、浅雀の藩都にでも行くしかない訳よ」
人市と言うのは文字通り『人を売る市場』で、火元国中から女衒達が借金の形に連れてきた女子供が主に取引されているのだと言う。
この辺りは火元国のほぼ真ん中に当たり、火元国中で唯一此処だけが公式に認められた人市らしい。
ちなみに上様の治世に成ってから小競り合い程度の戦すら殆ど起らない天下泰平と言って良い此処最近は男の『奴隷』が此処で売られる事は殆ど無いそうだ。
外つ国では今でも戦争が絶えない地域も有り、そう言う場所では女子供よりも労働力にも兵力にも転用できる成人男性が一番高いと言うのが相場である。
次いで成人女性、男の子、女の子……と基本的には即座に使える事が前提で値を付けられる物なのだ……と言うのは以前お花さんに諸外国と火元国の違いと授業で習った話だ。
なおこの国では一番高いのは『良家の後家さん』だと言うのは労働力的な物では無く、色々と仕込みをしなくても直ぐに色々商売させる事が出来る……と言う事なのは火取が下卑た笑みを浮かべつつ言い放った事だったりする。
「まぁ、そ~言う良い値が付きそうな女はこんな所で一々競りなんかせず、馴染みの女郎屋に直接売りに行くんが普通だ。此処で売られんのは二束三文……たぁ言わねぇが、ソレでも大した額も付きそうに無い半端に育った娘なんだがな」
ネット小説なんかだと見目の良い適齢期の娘が普通に売られていたりするが、特に芸事を仕込まれている訳でも無くただ春を鬻ぐ事しか出来ないと娘は、遊女としては格落ちと成るので買い叩かれる物らしい。
つまり此処から江戸でも最上級の遊廓である吉原に出荷される娘は居らず、大体は地方の宿場や温泉地に行く事に成るのだと言う。
「胸糞悪くなる話だな……自分で贅沢する為に借金作ったってんなら、まだ自業自得と割り切れるが、親が馬鹿やった結果で売られる訳だろ? まぁそんな糞みたいな親元に居るよりはマシなのかも知れないが」
そんな話を聞いて、俺は思わず舌打ちをしてそんな言葉を吐き出した。
クレジットカードを使いまくり、ソレを返す為に消費者金融に手を出して、更にソレを返す為に闇金に手を伸ばし、その結果風俗営業に沈められる……なんて話は前世では珍しい話では無かった。
その手の店は多くの場合暴力団と付き合いが有り、用心棒が入ったりして財源に成っていたりしたので、俺自身の仕事柄その手の話に触れる機会は少なくなかったのだ。
中には親の借金を返す為にと言う様な話も無くは無かったし、親が金を得る為に年端も行かない児童に売春をやらせた……と言う様な児童虐待そのものな案件も全く無いではなかったが……ソレが良い事な訳が無い。
「おっとソレを言われちゃぁ……なぁ、もろに流れ弾が此方に飛んでくるじゃねぇか。まぁ博打で身持ちを崩す馬鹿が居なく成らねぇ限りは、その手の不幸な娘さんってのが居なく成る事ぁ無ぇんだろうけどなぁ」
俺の言葉が痛い所を突いたらしく、火取は煙管を取り落としそうに成りながら、苦笑いを浮かべてそう言うのだった。




