四百八十一 志七郎、殺生を厭い沙汰下る事
正眼から頭上に振り上げた刀を脳天目掛けて真っ直ぐに振り下された。
対する此方は八相の構えから横薙ぎの一振りでその一撃を弾き飛ばす。
緩みきった身体の割に、決して武士として恥ずかしいとは言い難い良い太刀筋だ。
だが手応えがあまりにも軽かった。
振り下ろしに体重が乗っておらず、刀への氣の練り込みも十分では無い。
練度が全く足りていないのか、それとも決定的なまでに武の才能に恵まれなかったのか、或いはその両方か……
得物も素材を自分で集め作るのが武士の倣いと成っている事も有り、奴の刀は拵こそ立派だが刀身は俺の『刃牙逸刀』より二段も三段も落ちる物だと言うのも、互いの力の差を浮き彫りにさせている大きな要素の一つだろう。
正直な所、全力で打ち込めば向こうの刀を叩き折った上で、そのまま無駄に太い太鼓腹を一刀両断するのは然程難しい話では無い。
にも関わらず、何故二合撃、三合撃と刀を合わせているのか……。
それは俺が谷梅を斬りたく無いと思って手加減しているからである。
今更殺生は嫌だとか、根っからの悪人では無いからとか、そう言う様な理由で斬りたく無い訳では無い。
俺が此奴を斬る事で後々起こる面倒事が容易に想像が付いてしまうからだ。
前世の日本でも一昔前には『ある程度年齢行ったならば結婚して一人前、ソレすら出来ぬ者に仕事を任せる事は出来ない』と言う様な因習が有ったが、此方の世界でも御家が一番大事な武家でもソレは当たり前の考えとされている。
つまり代官と言う要職に付いている以上、谷梅には妻子が居て当然なのだ。
そして如何なる理由であろうとも尊属が他家の者に討たれたので有れば、遺族は仇討ちを為さねば成らないのが武家の定めである。
武士に取って仇討ちは溜飲を下げる為の権利であると同時に、武に拠って立つ者としての義務なのだ。
万が一にでも当主が討たれた成らば、一族郎党上げてその仇を討たなければ、跡継ぎとされている者も家を継ぐ事は許されない。
もしも跡継ぎと成る子が居ないと言う状況だとしても武士階級の家臣が居れば、やはり仇討ちが成らねば他所に仕官する事は何か特別な事情でも無ければ出来ないだろう。
仇討ちが成らぬ、もしくは失敗すると言うのは、拠って立つべき武が無いのだと看做され、最早誰も武士として扱ってはくれなく成る。
一応、仇討ちを仕掛けた者が返り討ちに遭ったならば、更にその仇を討つのは禁止……だとか無限ループを避ける為の取り決めは有るが、少なくとも今此処で奴を斬れば息子、娘、或いは弟なんかが、俺の命を付け狙うのは確定と言う事に成る訳だ。
私利私欲で無かったとしても、女子供を狙いソレを護ろうとした者を何人も殺める様な策謀を巡らせた、此奴自身を斬る事に何ら良心の呵責を感じる事は無いが……だからと言ってその後に続いて来る者を殺さなければ成らないと言うのは流石に勘弁して欲しい。
まぁ俺が此処で斬らなくても、母子が無事保護された暁には、この一件で命を落とした螺延藩士の親族が仇討ちに来るだろうし、そうなればこの程度の剣腕しか持たない以上、然程長生き出来るとは思えないが……。
普段の稽古よりも圧倒的に遅い剣戟の狭間で、俺はそんな事をつらつらと考える余裕すら有るのだ、終わらせようと思えば何時でも終わらせれる。
果たし合いと成った以上は、何時までも引き延ばし続けると言うのも違うだろう……次の一合撃で決着をつけよう。
そう決心し刀に込める氣を一気に高め、刃と刃を直角に交わる様に刀を振る。
圧倒的な力の差が有った故に……奴の刀は音も無く断ち切られ、俺はその眼前に切っ先を突き付けた。
「何故、斬らぬ……情けを掛けたつもりか……。果たし合いならば一思いに斬り捨てるのが武士の情けぞ……!」
得物を打ち壊され、観念した表情でその生命が終わるのを待っていた谷梅は、何時まで経ってもソレが為されぬ事に、苛立ちとも怒りとも付かぬ様子でそう吠える。
「……女子供に的を掛ける様な外道に何故情けを掛けにゃぁ成らん。このまま俺がお前を斬れば果たし合いの結果、武士として恥ずべき所の無い名誉有る死に成っちまうだろよ。罪人として裁かれる前に武士として死にたいなら、手前ぇで勝手に腹でも切れや」
俺がこの男を自身の手で斬りたく無かったもう一つの理由である。
確かに仇討ちを巡る面倒は避けたいが、それ以上に腹立たしいのは此奴が負け逃げを目論んでいる事だ。
どんな理由が有るにせよ、他藩の御家騒動を裏から糸を引いて巻き起こした以上、それが失敗に終われば一族郎党巻き込んだ連座で死罪か、それ以上の刑罰が科される可能性は決して低くは無い。
武家の功罪は基本的に個人に付する物では無く、飽く迄も家に齎されるのだ。
だがそんな最悪の状況をひっくり返し、被害を最小限に留めうる裏技が存在する、それは犯行に関与した武士が皆、武士として恥ずかしく無い最期を遂げる事である。
勿論ソレで全てが許される訳では無いが、少なくともその者が犯した罪はその生命で贖ったとされる為、実際に罪を為した訳では無い妻子が責め苦を負わされる事だけは避けられるのだ。
故に武士は何らかの失態を演じる様な事が有れば、上から沙汰が下る前に自裁する事で、
一族郎党にまで累が及ぶのを避けるのである。
まぁソレでも恩赦が出る様な、何らかの慶事でも無ければ閉門は免れないだろうが……。
対して果たし合いの末に果てた……と成れば、その扱いは自裁よりも更に罪が軽く成ったと扱われる。
必ずしもそうでは無い筈なのだが『被害者』が『加害者』を討ち取ったと扱われ、それ以上の裁きを下す必要が無い……と言う論理なのだ。
実際の細かな量刑は裁きを下す者に拠って差が出る事も有るだろうが、其れ等慣例を完全に無視する事は出来はしない。
例え事が公に成らなかったとしても人の口に戸は建てられない、何処かかしらから噂程度には話が漏れる事も有るだろう。
そうなった時に慣例を無視した重罪を下して居れば、裁きを下した者の家名を貶す事にも成りかねないのである。
腕が立つとは言い難いこの男が、手下達に横槍を入れさせる様な事も無く、大立ち回りを演じようとしたのは、つまりそう言う事だろう。
戦う前に言っていた、刺し違えてでも俺を殺めたい……と言うのも決して嘘では無いのだろうが、この程度の腕前では掠り傷一つも貰う事は無い。
はっきり言って相手が俺ではなく武満が……いや、剣術は得手とは言えないりーちが相手でも、勝負自体が動く事は無いだろう。
そのぐらいにはこの男の動きは遅く、斬撃は軽かった。
「この大戯け者が! 如何なる思惑で此度の横様に思い至ったかは知らぬが、悪の栄えた例無し! 例え如何に優れた策謀家で在ろうとも不正な手段を用いては、なんにも成らぬのだ! その程度の事を何故お前程の知恵者が理解出来なかったのだ!」
完全に勝負が付いた事をその場に居る誰もが理解した頃、俺がぶち破った門からそんな叫び声と共に、烏賊頭巾で顔を隠した二人の侍が姿を表した。
俺が叔父上が来るまで護ると言う方針を捨てこうして攻め入ったのは、あの二人が旅籠へと姿を表した事が切っ掛けである。
当初は二人が責任を持って事を収めるとも言ってくれたのだが、万が一火取の様な凄腕を他にも抱えて居た場合の事を考え、俺が先陣を務め彼らには後詰として後から来るように提案し、ソレを飲んで貰ったのだ。
二人は周りの与太者達には一目もくれず、只々谷梅を険しい瞳で睨めつけながら屋敷の玄関まで歩み寄り、それからやっと辺りを見回して……頭巾を取る。
「殿!? それに門川!? 何故、何故此処に! お二人共に参勤で江戸に居るはずでは!」
その正体を目にした谷梅は、突き付けられた刀の事など忘れた彼の様に、そう驚愕の声を上げた。
しかし武士見藩主、田地阿龍騎氏はソレに答える事無く肩を落として小さく頭を振ってから、隣に立つ螺延藩主、門川忍史氏に視線を向ける
「鬼斬童子殿の言う通り、今この場で腹を切るならば、此度の一件、貴様の命一つで収めてやらぬでもない。女房子供に手を出された事も、ソレを護る為に敢え無く散った者達の事も、業腹では有るが……これ以上の死人を出さぬ為に飲み込んでやろうぞ」
その結論に至るまでどれほど葛藤が有ったのか、残念ながら未だこの世界の法や倫理観に完全に馴染んだとは言い難い俺には推し量る事は出来なかった。
それでもその憤懣遣る方無いと言わんばかりの表情と、此処まで聞こえそうな程の歯ぎしりを見れば、苦渋の決断である事は良く分かる。
「せめてもの情けだ、主君として手ずから介錯してやろう。武士として恥ずかしく無い最期を果たせ」
主君にそう云われ、流石に此処へ至り谷梅も観念したらしく、半ばから斬れ落ちた刀の柄を取り落とし崩れ落ちるのだった。




