四百七十九 志七郎、勝負を思い悪を憎めぬ事
「……で、何処まで付いてくるおつもりで?」
蜘蛛の子を散らすように逃げていった与太者達を追う事無く、旅籠を目指す俺の後ろを付いてくる火取に振り返る事無く俺はそう声を掛けた。
「如何なる理由が有るとしても、武人として名乗りを上げた勝負を投げ出したなぁ俺の方だ。しかもあんたの命を狙っての話。ソレが何の咎めも無くってな訳にゃぁいかねぇだろうさ。後から弟子連中含めて一族郎党皆殺し……ってなぁ事ぁ勘弁して欲しいしな」
その言葉を信じるならば、跡をつけ隙を狙って仕留めに掛かる……と言う様な事をするつもりは無いらしい。
そもそも彼がそう言う性根の腐った様な真似が出来る性質の男だったならば、俺はとっくに息をして居ないだろう。
寸鉄を握り込み十分な氣が練り込まれたその拳で、不意を打たれて後頭部でも殴りつけられて居たならば、宿場の中だからと鎧兜を置いてきた生身の状態では、頭蓋を叩き割られ柘榴の様な姿を晒していた筈だ。
今こうして居られるのも、彼が最低限度の矜持すら金銭で売り渡す様な男では無かったが故の事。
何処まで信用が置けるかを判断するには未だ早すぎるが、それでも話を聴く位の事はしても良いだろう。
「連中に逆らえば、娘さんが危ないんじゃぁ無いのか? そもそもそう簡単に裏切れる様な状況でなんで殺しなんか引き受けたんだよ?」
取り敢えず話し合いの態勢に入った事を示す為、俺は刀には手を掛けずそう言いながら彼を振り返る。
「いや何、ちょいと連中の賭場で遊んだ時の借金をチャラに出来る良い仕事が有って、ソレが名のある者との果たし合いだと聞かされてな……」
そんな言葉から始まった彼の話を纏めると、武に拠って立つ武士や鬼切り者同士で有れば正々堂々の果たし合いの結果、人を殺しても法的に罰せられる事は無く、道場の名声を高める為、そう言う戦いをする事は決して珍しい事では無いらしい。
今回の場合、地廻りの連中が持ってきた、地元に仇なす者を始末する仕事……と言う話で、人殺しと言う行為その物は決して誇れた話では無いが、世間に知られても大きな批難を受ける様な事は無い……筈だった。
だが実際に現場に行って見れば、的は二つ名持ちとは言え年端も行かぬ小僧で有り、一合撃交わして見れば、歳の頃よりは間違い無く出来ると言える物の、弱い者虐めの範疇を出ぬ程度の相手。
こりゃ話が違うじゃねぇかと思っていた状況で、せめて後ろ指をさされぬ様、正々堂々の戦いをと思い刀を拾えと言ったのだが、ソレに文句を言われて堪忍袋の緒が切れた……と言う事らしい。
「家の娘だって道場主の娘、師範代が務まる程度にゃぁ仕込んで有るからな。腕に覚えの有る連中集めて数で来られりゃどうなるかは解らんが、その辺の破落戸が束で掛ってもどうなるもんでもねぇさ」
からからと笑うその態度に不安は微塵も見受けられず、彼の娘と言うのが江戸州辺りならば女鬼切りとして武者絵の一枚も描かれているであろう強者なのは容易に想像が付いた。
んー、俺こういうからっとした男は嫌いに成れないんだよなぁ……
命を狙われた事自体に思う所が無い訳じゃぁ無いんだが、人を殺した云々だと義二郎兄上や一朗翁とかソレこそ数えるのが馬鹿らしい程らしいし、結果として生きているとは言え兄上と伏虎の立会だってお花さんの魔法が無けりゃ普通に死んでたんだよなぁ……。
俺自身、あまり強く自覚してない部分が有ったけれども……練武館での木刀試合だって、打ちどころが悪けりゃ普通に死ぬ訳で……。
それに仮にも武士の子で有る以上、武に拠って立つ者の範疇に居るのは間違い無いし、相手が人間では無かったと言うだけで、鬼切りの中で生き物は散々殺しているんだ。
今更、自分だけは死ぬ筈が無い、殺される訳が無い……ってのは筋が通らないな。
とは言え、流石に死にたい訳でも無けりゃ、命を狙われる事に文句が無い訳でも無い。
うん、結果として生きているんだから、まぁ無かった事にする……と言うのは言い過ぎでも、これから此方の味方に付くので有れば水に流すのが良いのではなかろうか?
「それに大藩の浅雀や鬼や妖怪よりも化物揃いの猪山に喧嘩を売る方が、所詮は小藩に過ぎねぇ御殿様に逆らうよりよっぽど怖い話さね。未だに届いたとは思えぬ師匠の師匠が若い頃に手も足も出なかったって言う『あの一朗』に勝てるとは思えねぇしな」
……精進しよう、俺自身の名で喧嘩を売る事を躊躇われる漢になろう。
今は未だ猪山藩と其処に生きた多くの英傑達の名に守られている事に、少々の悔しさを感じながらそう思うのだった。
「なるほど……地元の武芸者、それも道場を持つ事が許される程の腕前の御方が味方に付くとは有り難い。撲振無刀流と言えば火元国のみならず世界中に流れを汲む者が居る有名流派ですからの、これ以上心強い助っ人も居らぬでしょう」
旅籠に戻り事の顛末を旭達に話すと、敵方からの寝返り者だとは意に介した様子もなく、そんな言葉が帰ってきた。
どうも道場主と言うのは基本的には武士階級なのだが、正式に地元の藩主に召し抱えられているかどうかは別問題らしい。
猪山藩の鈴木家の様に武芸指南役の御役目を得ている家は当然主君に仕える家臣の枠だが、火取家は武士見藩田地阿家に仕官していると言う訳ではなく、立場としては浪人者に区分される家なのだそうだ。
そう言う立場の者は幕府転覆を目論む様な事さえしなければ、特に忠誠心云々が取り沙汰される事無く、その時その時で都合の良い所に味方するのは当たり前の事なのだと言う。
「明日明後日にゃぁ浅雀の行列が来て、そっちで保護して貰える話に成ってんだろ? んなら山は今夜だろうよ。あの代官、頭は回るが基本的にビビりだかんな、少しでも余裕が有る内に動くだろうさ」
片手で収まらない代数地元に根付き続けてきた道場の主である火取は、代官がこの地に赴任してくる以前からその為人を知る機会は有ったらしく、小馬鹿にした様子でそう言った。
若い頃から武人と言うよりは文人肌だったらしい谷梅は、氣こそ纏える物の武芸の腕は立たず個人の鬼切りで大きな手柄を上げた事は無いらしい。
だが主君と共に江戸に上がった際の、節分狩りなどの大規模な戦いでは、指揮官として其れ相応に重宝されてきた人物では有るのだそうだ。
「つまり個人の武勇では無く、将としてはそれなりに有能だと……うん、そう言う人の命を預かる立場の者なら臆病なのは決して汚点とは言い切れない。結局、勇敢と無謀、慎重と臆病は紙一重に過ぎないしな」
まぁ只欲望に忠実なだけの無能が初老を回るまで何の処分も受けず、東街道沿いの要所とも言える宿場を預かる代官なんて言う重責を任される訳が無い。
今回の様に他所の大名行列が通る時に不祥事なんか起こされれば良くて減封、悪くすれば一発改易も有り得るのだから、そんな場所に馬鹿を配置するのは余りにも危険すぎるだろう。
と考えれば、谷梅も只の典型的な悪代官などではなく、少なくとも無難に宿場を治める事が出来るだけの能力は有る人物の筈だ。
しかし、そう言う者こそ追い詰められた時に何をするのか解らない、普段おとなしい者がキレると手が付けられないなんてのはよく有る話である。
さて……となればどうするか、ソレを相談しようとしたその時だった。
「お取り込み中申し訳有りません、御客様方を訪ねていらした方々が下でお待ちなのですがそれもお二組、何方様もお忍び頭巾で顔を隠しておいででして……いかが致しましょう?」
中居さんが襖の向こうからそんな声を掛けて来たのだ。
浅雀の道中奉行やその使いの者が訪ねて来たので有ればそう言う筈だ、誰と言う事を隠す理由が無い。
旭も火取も心当たりは無いらしく、俺達は皆それぞれを訝しんで顔を見合わせるしか無いのだった。




