四百七十五 志七郎、狸と貉を眺め笑いと欠伸噛み殺す事
「これはこれは御代官様、御自らお出ましとは……お勤めご苦労様に御座います」
戸口の暖簾を潜り入ってきた恰幅の良い侍に、旅籠の亭主が少々驚いた様子で、米搗き飛蝗の様に頭を動かしながらそう言葉を掛けた。
「なぁに……儂はこの宿場を田地阿様より預かる身……何よりも展望楼から見る武士山を誰よりも愛しておると自負しておるからの。ソレを荒らさんとする悪党を成敗する為ならば如何なる労とて惜しまぬさ……して、件の輩共は何処に居る?」
福々しく弛んだ頬を震わせながら、当初は笑顔すら見せていた代官だと言う侍は、徐々に表情を消し、その場に居る者達を睨め回しつつ、そう応える。
「そうは仰いましても……昨夜この旅籠に火を掛けようとした狼藉者が居たと、うちの用心棒として雇っている者が言っては居りましたが、お客様の騎獣に吠えられ未遂に終わったとの事。此処に逗留しているお客様が……と言う事では御座いません」
多少困惑した表情で亭主が答えを返す、当然放火未遂等という大犯罪が行われたのを知った以上、役人に届け出ている筈である。
その中には下手人が逃げソレを俺が追いかけた、と言う事も含まれているだろう事は想像に難く無い。
にも関わらず、あからさまに此処に悪党が居ると決め打ちする台詞を口にしたこの代官は、少なくとも俺以上に捜査官失格と言えるのではなかろうか?
「ソレを決めるのは、貴様の様な商人風情では無い。儂が直々に吟味すると申して居るのだ、グダグダ抜かす成らば先ずは貴様を引っ立ててやろうか? 嗚呼ん!」
何だろう、絵に描いたような悪代官と言うか、頭が足りなくて上役に取り立てられなかった年老いたチンピラと言うか……。
此処まであからさまだと逆に笑えてくるが、流石に此処で吹き出せば即座に刃傷沙汰に発展しかねない。
「御免、御貴殿、先程狼藉者がこの旅籠に逗留していると知らせが有ったと仰せなれど、ソレは信用出来る筋からの話で御座ろうか?」
身分差を笠に着られては何の反論も許されないのがこの火元国、と成れば他藩の隠居とは言え武士の身分を持つ旭が割って入るのは仕方が無い事だろう。
「ぬぅ? 怪しい爺ぃめ、装いを見るからには武士の様では有るが……何処の木っ端侍の隠居かは知らぬが、横から嘴を挟むで無いわ。儂はこの地の代官、儂の言葉は藩主田地阿様の言葉と同じ、邪魔立てすると有らば只では置かぬぞ?」
……此奴狙って言ってんのか? 何だよこの悪代官テンプレートみたいな台詞は!
「拙者、螺延藩家中旭園騾馬と申す。儂も国家老を務めた事が御座る故、統治のいろはには一家言あり申す故、御方の御役目が大事なのは理解致しますが、そう頭ごなしに逗留客が皆、悪党と決めつける態度は関心出来ませぬのぅ」
熱り立つ代官に対して落ち着き払った態度でそう言い返す旭の態度は、正に亀の甲より年の功と言わんばかりだ。
互いに主家の名を出した以上、碌な証拠も無い内に捕縛を強行する様な事をし、それが世間に知られた成らば批難は免れず、下手を打てばソレが原因で二藩の間で抗争と言う事にも成りかねない。
だからと言って、治安を担う者がそう簡単に引いては、今度は領民や他の悪党に舐められ後の統治に禍根を残す事に成るだろう。
はっきり言ってこの代官の初動は完全に悪手なのだ、先ずは町人階級の十手持ち辺りを送り込み、その上で抵抗されるなりなんなりの動きが有ってから踏み込むのが正解……と言うか本来の手順だろう。
「名乗られて名乗り返さぬは礼を失して居りますな……拙者は武士見藩田地阿家家中谷梅扁秀、この宿場の代官を務めておりまする。此処に火付け心中を図った者が居ると若い衆を纏める者から話が有りましてのぅ」
その事に谷梅と名乗った代官も思い至ったらしく、多少物腰を和らげつつ、情報源を口にした。
その話に依れば、どうやらこの宿場に常駐している武士は、彼以外には幕府の宿役人が一人居るだけで、基本的に彼の命令で動くのはこの地の若い衆を纏める者――詰まりは博徒の親分とその手の者達だけらしい。
どうやら余程大きな宿場で無ければ代官すら置かれず、その類の者達が名主を兼ねてその宿場を取り仕切ると言うのは、決して珍しい話では無い様だ。
前世の世界でも、戦後もかなり過ぎるまでは暴力団が治安維持に協力していたのは事実で、俺が死んだ時点でも地方に行けばその名残は有り、地元の組長が名士扱いを受けているなんて事は普通だった。
比較的解り易いケースとしては、混浴温泉で露骨に女性の裸を見ようとする鰐と呼ばれる様な者を、地元の若いお兄さんが御話に連れ出す……なんて事だろう。
厳密に法律や条例に従うならば原則として混浴は認められていない、それ故この手の案件に警察は介入する事が難しいのだ。
けれども温泉の経営者側としては、余りにも露骨なマナー違反をする者に対しては何らかの措置を取りたい所だろう。
かと言って、職員が直接注意する様なことをすると角が立つし、下手をすればモンスタークレーマーが大暴れする原因にも成りかねない。
そこでそんな時に彼らが活躍する訳だ。
勿論、暴対法的に考えて、ソレは完全に違法行為なのだが、地元との関係的に警察も見て見ぬ振り……どころか、誰でも知っている癒着構造なんて事も有ったりする。
と言うか、俺が居た千薔薇木県警と地元の白浜組は諸にそう言う関係だった……まぁ彼処は任侠道に酔った連中が集まった、一般人には極めて無害だと言う特殊な非指定暴力団だったが。
兎角、ヤクザ者と言うのは、治安を乱す要因にも成り得るが、それと同じくらい治安に貢献する者にも成り得る訳だ。
そして此処でもその構造からは外れて居らず、一寸した事ならば若い衆が、彼らの手に余ると親分が判断した案件は、代官に持ち込まれると言う流れなのである。
とは言え、谷梅も常に持ち込まれた話を丸っと信用し、言われた通りに動く様な考え無しでは代官の重責は務まらないだろう。
「流石に火付けとも成れば下の者に任せきりと言う訳にも行かぬとこうして罷り越したが、どうやら何処かで話が変わって居る様ですな、いやはや全く儂の早合点だった……と言う事ならばよいのですがねぇ」
口では納得した風に言っているが、その表情を見れば、お前等が下手人じゃァ無いにせよ、狙われる覚えは有るんだろう? と思っているのは明らかで、言外に『これ以上面倒が起きる前に出て行け』と言っている訳だ。
ああ、そうか彼が一人で来たのは悪手でも何でも無い、最初から旭達を此処から追い出す事が目的で、一発で決着を付けるつもりは無かったのか。
火付けで俺を誘い出し、投げ文と代官のコンボで宿場の外へと釣りだそうと試みる……うん、中々手の混んだ仕込みだ。
其処らの下っ端が仕掛けれる様な手管手練では無いだろう、多少は頭を使える者が糸を引いているらしい。
「御安心召されい、一日二日もせぬ内に浅雀の行列がこの宿場を通る筈。大大名の行列が近くに居る状況で乱暴狼藉を働く馬鹿は居りませぬでしょう。我が螺延や武士見の様な小藩に喧嘩を売るだけならば兎も角、浅雀の様な大藩を巻き込めば戦は免れ得ませぬからな」
だが、旭は含みの有る笑顔でそう切り返す。
「ほうほう浅雀の行列が……御方々、浅雀のご当主様に何か伝手でもお有りで? 真逆、行列に人目が行っている間に紛れて出て行く……等と不確かな手立てでは御座いますまいな?」
苦り切った表情を浮かべ、そう聞き返す谷梅……うん、間違いない、この代官もグルだ。
最初から協力者だったのか、それとも賂でも貰って力を貸しているのか……何方にせよ碌でも無い男だと見立てて間違いは無いな。
不幸中の幸いはあからさまに弛んだ腹を見れば、武勇の方面では然程の驚異には成らなそうだという事か。
「此方に御座すは猪山藩は猪河家の御子息でしてな、浅雀藩主野火役満様とは叔父甥の関係との事で、繋ぎを取って頂ける事に成って居るのですよ。浅雀のみ成らず猪山にも喧嘩を売る事に成ると知れば、狼藉者共とてそう易々と手は出しますまい」
いや文武双方に置いて旭の勝ちだが……うん、多分叔父上と合流する前にもう一波乱、それもかなり直接的な奴が有るぞ……その前に一眠り出来るかなぁ?
うん、手代さんに銭握らせて本陣(大名用の宿)に使いを出して貰おう、多分もう先触れ位は来てる……と良いなぁ。
そう思いながら、真っ赤な顔で震える谷梅を見上げながら、欠伸を噛み殺すのだった。




