四百七十三 志七郎、策謀を感じ取り惨状より逃げ戻る事
宿場を出て武士山の東側を目指し街道を北上する、ずっと行けば螺延藩の本領にも至る道だ。
どうやら下手人は近隣の田畑を越えた辺りに見える森に身を隠したりはせず、一目散に逃げる事を選んだ様である。
迷いなく走り抜ける四煌戌の様子を見る限り、複数の者達がばらばらに散る様な形では無く、単独犯か若しくは一塊のまま同じ方向に向かっている様だ。
「コレは何処かに拠点が有るな……」
土地鑑の無い者が迷う事無く逃げると言うのは、極めて難易度の高い行為である。
追跡者を振り切ろうと思えばどうしても焦りが出るし、道を一本入り間違えればその先は抜ける事も出来ない袋小路……なんて事もあり得る話。
そんな状況で戸惑う事無く逃走を図る事が出来ると言う事は、最低限一人は土地鑑を持つ者が居ると言う事である。
そしてソレはただ地図を眺めれば身に付くと言う物では無い、長くその地に根ざして初めて身に成る物なのだ。
今の所、地元の者で無ければ知らない様な小道や裏道を使う様な事はしてないが、幾つか有った分かれ道でも迷った様子が無いのだから、恐らくは間違いない。
だがこういう時にこそ、警察k……じゃない猟犬の本領発揮と言うものだ。
完全に臭いを捉えている様で、四煌戌達も一切迷う事無く追跡を続けてくれている。
暫く走り空の色が白から青へと変わりかけた頃、四煌戌は不意に街道から外れ、殆ど獣道と変わらない様な雑草を踏み分けただけの場所へと入り込んだ。
うん、コレは普通に追いかけた成らば見逃しているだろう、人の身では解らぬ臭いと言う痕跡を追いかける事が出来るからこその成果だ。
草叢を少し進むと、そこは崖と言う程急では無いが、知らずに踏み込めば転げ落ちる可能性は十分に有るそんな下り坂で、その下には僅かな窪地に隠れる様に建てられた小屋が有った。
恐らくはアレが下手人達が逃げ込んだ拠点なのだろう。
街道に張られた結界のギリギリ内側、田畑を作るには少々足りない小さな窪地、微かに水音が聞こえる辺り水場も有るらしい。
地形的に近隣の農村に取り込む事が難しかったのだろうが、何者かが隠れ家を作るにはこれ以上無い適地と言える場所だ。
こんな容易に悪用出来るであろう地形の場所を土地の領主や代官が把握して居ないのであれば、職務怠慢としか言いようが無い訳で。
下手をすれば其れ等の協力者が居ると言う可能性も有るのでは無いだろうか?
コレは下手に踏み込んで撫で斬りにすれば、取り敢えず当面の問題は解決する……なんて簡単な事では無くなって来たかも知れない……。
下手人達の元締めだと言われていた七浪正雪とは別に居るであろう協力者、むしろそっちが真の黒幕で七浪と言うのは其奴に空気を入れられた……謂わば調略の結果と言う事もあり得る話だ。
……考えてみれば、旭達を囲み斬ろうとしてた連中と、火付けを企んだ者が同一だと言う確証は何も無い。
指で四煌戌に『待て』と指示を出し、俺は此方の世界に戻る旅の途中で雪の上を歩いた時の様に、氣のかんじきを履き足音を殺す事を意識しながら、建物へとそっと近づいた。
安普請の木造建築、前世ならば『掘っ建て小屋』と言われる様な建物は、中を覗く壁の隙間に不自由はしない。
ただ下手に触ればそれだけで壁板を軋ませ、中の者達に気づかれるかも知れないので、殊更に音を立てない様氣を使いながら覗き込み……
「嘘だろ……おい……」
思わずそう呟いた。
俺が見たのは、反吐を撒き散らし喉を抑え倒れ、息をする事も出来ぬ様に成った、推定下手人達の……死体だったのだ。
生き残りの誰も居ない室内に改めて足を踏み入れる、手近な者の身体に触れてみれば、未だ体温の名残を感じられる事から、死後然程も経っていない事が解る。
転がっている死体は四つ、その誰もが一様に口から反吐を零し、喉を押さえたまま事切れている上に、パッと見る限り出血を伴う外傷の様な物は見受けられない、恐らくは何らかの毒を盛られたのだろう。
床板一枚無い、土間造りの部屋の中には焚き火の後の様な物は有るが、其処に手を翳しても熱は感じられず、此処で調理した何かを全員が口にして……と言う事ではなさそうだ。
死体と焚き火の跡以外には目を引くものは無い。
一体どうやって全員に毒を盛ったんだろうか?
ソレが見当たらない辺り、此奴等を殺めた者が持ち去った可能性も有る。
何らかの理由で彼らに火付けをさせ、此処まで無事逃げ込ませた上で、余計な事を吹聴されぬ様に口封じをした……と言う事だろうか?
念の為それぞれの懐を探って見るが、身に付けた物に身元を示す様な物は何も無く、腰に佩いたり、壁に立てかけられたりしている得物も、一目で数打ちの安物で有る事が見て取れた。
……奇怪しい、着物も決して上等な物では無いし、数の有利が有ったにせよ、侍を相手取る事が出来る様な、名のある鬼切り者の装いでは無い。
!? しまった、図られたかも知れない。
コレはお豆の方達から俺を引き離す為の策略だったんじゃぁ無いか?
個人情報保護法なんて物の無いこの世界、一寸調べれば俺達があの旅籠に泊まった事を知る事は難しくは無いだろう。
そしてソレが解れば、厩に四煌戌――即ち犬が居る事も解る筈だ。
火付けを本気で成功させる必要は無く、俺が四煌戌の鼻を頼りに、こうしてのこのこと追跡に出てしまったのだから、何者かの思う壺と言う所だろう。
だが待てよ? 俺を釣り出すのが目的だったのであれば、此奴等を態々殺して置くのは筋が通らなくないか?
生かしておけば叩きのめして、それから話を聞き出すと言う手間を掛けざるを得ず、ソレだけでも十分に足止めには成った筈だ。
いや……考えるだけでも時間は浪費される、先ずは急いで戻るべきだろう。
「四煌! 全力で戻るぞ!」
「「「あおーん!」」」
外へと飛び出すと同時にそう叫びを上げると、ソレを聞いた四煌戌が了解と言わんばかりの咆哮を上げつつ俺の元へと即座に走り込んで来た。
停まるのを待たず地を蹴り飛び上がり、鞍の上に一旦足で乗ってから改めて座り直す。
氣を用いた意識加速と空中での身体操作を組み合わせれば、直接跨る事も出来なくは無いが、練習した時に何回か大切な部分をぶつけた事から、こうするようにしているのだ。
「古の契約に基きて、我猪河志七郎が命ず……自由なる翠の力……我らの往く道を阻む事無く後方より吹き……押せ風の行進!」
坂を駆け上がり草叢を抜けた四煌戌が四足ドリフトを決め街道へと飛び出すと、俺は追い風を吹かせる事で移動速度を上げる呪文を唱えた。
風で臭いを散らしてしまうので来る時には使えなかったが、目的地がハッキリしているのだから、少しでも早く戻る為に使える手は使うべきだろう。
とは言え、この魔法は余り多用するべき物では無い。
大きな街道でも普通に四煌戌が走れば、他の旅人に迷惑を掛ける可能性が有るのに、ソレに加えて風を纏う様な事をすれば、すれ違うだけでも吹き飛ばしてしまう事もあり得るのだ。
全力の更に向こう側の速度で走らせる事が出来るのは、今が此方の世界でも未だ早朝と言って良い時間で、他の旅人がほぼ居ないと言い切れるからなのである。
……この魔法は対象の大きさと数が増えれば増える程に負荷が重くなる、戦闘中に俺自身を加速させるだけ成らば、発動後に翡翠が単独で負担を引き受けてくれる事も出来ただろう。
だが並の馬より大きく重い上に頭が三つも有る四煌戌をハッキリと解る程の風を吹かせると成れば、俺自身の意識の大半を魔法の維持に割かざるを得ない。
身体を動かす様な余裕も無い中、転落すれば間違い無く命を落とすであろう速度にまで達するのを感じながら、行く先を紅牙と御鏡に任せ、俺はただその背にしがみ付くのだった。




