四百七十 志七郎、観光名所を見物し闇夜に凶弾放つ事
「思ったほど、赤くは無いんだな……」
展望楼から見る夕焼けに染まった武士山は、前世に何度か見た事の有る『赤富士』の絵程真っ赤と言う訳では無く、俺は思わずそう呟いて居た……いや、それでも十分に見応えの有る物だったとは思うが。
「赤武士や紅武士が見たけりゃぁ、ちぃと季節外れじゃぁのぅ。赤は夏の終わり、紅はもちっと寒い時期の名物じゃでのぅ」
どうやら今居る展望楼と言う場所は物見櫓も兼ねているらしく、備え付けられた半鐘の下に座った見張り番らしい老人が、小さく笑いながらそう教えてくれた。
聞けば江戸方面から来る旅人の多くがこの展望楼へと上り武士山を眺めるのだが、この時間に来る者のほぼ全員が同じ様な事を言うのだそうだ。
俺自身は見た事が無いが、此方の世界でも『赤武士山』や『紅武士山』を描いた浮世絵が広く流通しているのだろう。
「連歌や誹諧の心得がありゃぁ赤武士が夏の、紅武士が冬の季語だっつぅ事ぁ知っとるんじゃろが……まぁ近頃の若い者は教養ちゅーもんが足らんわのぅ」
老人は小さく笑い声を上げると、煙草盆から煙管を取り一口咥えると美味そうにぷかりと煙を吐き出した。
「ほれ、そろそろ宿に戻った方がええぞ。日が落ちりゃぁあっちゅーまに暗く成るでなぁ。お父かお母かは知らんが、宿で待っとるんを心配させちゃぁあかんでな」
うん、まぁ普通に考えて十歳の子供が一人旅なんて事は考えられないだろう。
なんせ此処は向こうの世界でもトップクラスに治安の良い日本では無く、人の命が一山幾らと言ってしまえる程に安い世界なのだ。
「お気遣い有難うございます、言う通りそろそろ戻るとします。未だ未だ夜は冷えますが御役目宜しくお願い致します」
心配する者は誰も居ないし、多少暗くとも氣を纏えば宵闇を見通す事も出来るのだが、態々ソレを言い募る必要も無い。
俺は素直にその老人に礼の言葉を投げ掛けて、展望楼を後にするのだった。
……!? 剣戟の音?
展望楼から降り、其処に居たアタリメ売りの棒手振りからゲソを買い、ソレを噛りながら宿へと向かう途中、路地の方からチャンチャンバラバラと打ち合う音が聞こえたのだ。
未だ真っ暗とまでは行かずとも、既に誰彼時は過ぎている。
刃傷沙汰の一つや二つ起こっても、近くに寄らなければ見られはしまい……そんな事を考える不心得者が居るのだろう。
他所の揉め事に積極的に顔を突っ込むのは、賢明な生き方とは言えないとは思う。
此処で気が付かなかった事にして、真っ直ぐ宿へと戻るのが賢い選択の筈だ。
どうせ八九三や与太者が馬鹿な理由で、阿呆の面子を掛けて切り合っているだけだろう。
と、そう思いつつも、ついつい覗き込んでしまう辺り、未だに俺は警察官としての良識が捨て切れないらしい。
そして俺が目にしたのは、刀や槍、鎖鎌等様々な得物を手にした破落戸が、幼い子供を抱いた女性とソレを守る様に刀を振るう老侍を取り囲む姿だった。
普通、揉め事を見て何方に義が有るかを、一目で見抜くと言うのは中々難しい物なのだが……此処まであからさまな多勢に無勢だと、深く考えずとも弱者に味方したく成るのが人情と言う物だろう。
まぁ、詳しく話を聴いてみれば実際には悪く見える方が真っ当な事を言っている、と言う案件も決して少なくは無いのだが……無抵抗な女子供を相手に得物をぶん回している時点でその線は無い筈だ。
それでも当然いきなり斬り掛かる様な真似はしない、先ずは両方の動きを止める手を打とう。
そう判断した俺は懐のホルスターから拳銃を取り出し、空に向けて二度引き金を引いた。
「な! なんだ!?」
「っち! 爺だけじゃねぇのか?」
「っく! 未だ仲間がいやがった?」
火薬の弾ける決して小さいとは言えない音が鳴り響くと、破落戸達は狼狽した様子で武器を引き辺りを見回し俺を探して居る。
対して老侍は何処から撃たれても女性を庇える様にか、注意深く辺りを伺いながらも、落ち着いた様子で刀を構えたままだ。
亀の甲より年の功とは言うが、この場合は積み重ねた歳の分だけ修羅場を潜ってきた証左なのだろう。
うん、あの老侍を引かせるのは難しそうだが、破落戸の方ならば……俺は改めて狙いを定め、もう一度引き金を引いた。
「ぐあ!?」
「糞! 引くぞ!」
「覚えてやがれ!」
金属を叩く甲高い音が鳴り響き、半ばからへし折れた刀の先が宙を舞うと、何処から狙わているか解らぬ恐怖に負けたのか、破落戸達は捨て台詞を残して暗がりの中へと消えていった。
「何処の何方様かは存じ上げぬが御助力感謝致す。善意の恩人をただ黙って帰したと有れば武士の名折れ、是非ともお姿をお見せ頂きたい」
取り敢えずの危機は去ったので、黙ってさっさと帰る事も考えたのだが、そう言われて無視するのも気が引ける……仕方無く俺は建物の陰から彼らの居る路地へと足を踏み入れる。
「なんと……斯様な童子に助けられるとは……いや、恩人にこの物言いは無礼で御座った、御助成誠忝ない」
俺が姿を見せると懐紙で刀を拭う事をせずそのまま鞘に戻し、そう言いながら老侍は深々と頭を下げた。
「拙者は螺延藩先代国家老の旭園騾馬と申す、此方の御方は我が主君門川忍史様の室でお豆の方様に御座る。御方のご尊名もお伺い出来ませぬでしょうか?」
猪山藩と螺延藩とやらの関係が今一つハッキリしない状態では……『名乗る程の者ではない』と言って逃げてしまいたい所だが、ソレをして後から江戸でばったり会う様な事に成ればもっと面倒な事に成るのは容易に想像が付く。
「某は猪山藩主猪河四十郎が七子猪河志七郎に御座る。義を見てせざるは勇無きなりと申します、あの場は明らかに連中が不逞の輩で御方々に義が有ると見た故、横槍を入れさせて貰った次第、恩に着せる積りは有りません」
と、俺が名乗ると、ソレまでの緊張が溶けたのか、お豆の方と呼ばれた女性は子供を抱きしめたまま、へたり落ちた。
「おお! 噂に名高い猪山の鬼斬童子様と斯様な場所で出会いお助け頂けるとは……是非、是非ともこの子をお助け下さいませ」
切羽詰まった形相で此方を見上げそう言う女性に尋常成らざる事態だと感じ、俺は顔に出さない様に注意を払いながら、心の中で深い溜め息を付く。
これは一度関わったからには最後までちゃんと助けないと、後々寝覚めの悪い事に成る奴だ。
「先ずは詳しい話を聞きたい所ですが……、こんな所で立ち話と言うのも何でしょう。お三方の御宿はお決まりで? そちらに伺っても良いですし、そうでないならば俺の泊まる部屋に場所を移しましょう」
「ですな、此処に長居をすれば先程の連中が戻ってくるやも知れませぬし、ソレとは別に此処の代官が先程の銃声の元を探しに来るやも知れませぬ、そうなるとまた色々面倒に成るでしょうからの」
連れ立って表通りを通り宿へと戻る、イカの姿焼きを売る屋台が居り香ばしい匂いを立ており、俺の腹もそろそろ晩飯を寄越せと騒ぎ始める頃合いだった。
「お帰りなさいませ猪山様、おやお連れ様で御座いますか? あの部屋はまぁ四名様でも泊まれる広さは有りますが、追加のお足は頂きますよ? 食事は今なら未だ追加も間に合うでしょうし、今暫くお待ち下さいませ」
うんまぁ……必要経費と割り切ろう。一泊四百文の旅籠は四煌戌でもゆったり眠れる騎獣の厩舎が有ったから此処にしたが、まぁ正解だったかも知れない。
泊まっていたのが一泊八十文の木賃宿では、防犯なんて物は何一つ期待出来ない訳だしな。
取り敢えず部屋へと入り、中居さんが人数分の茶を淹れてから、立ち去るのを待つ。
「家中の恥を晒すは誠業腹では御座いますが、数を頼って攻めて来られてはお二人を守り切るのは少々難しゅう御座った……」
歳は取りたくない……と呟き、玄米茶を一口
「そして連中の襲撃はこれで無くなったとは思えませぬ。恥を偲んでお頼み申す、江戸までとは言いませぬ、何処か信用の置ける御人に会えるまで行動を共にしては貰えませぬか? 主君にお願いしこのお礼は必ず致します故」
そしてそれから額を畳に擦り付ける様額付き、そんな台詞を口にしたのだった。




