四百六十八 志七郎、お預け喰らい歩み緩める事
四煌戌の三つ口それぞれに塊の干し肉を放り込み、それから自分の弁当の包を解く。
握り飯が入っているには少々大きなその中から出て来たのは……
「烏賊? しかも丸々……」
脚の付いていない大ぶりの烏賊が二杯、当然生のままと言う訳では無く、腹に詰め物をした上で姿を崩さずに煮付けた物だった。
うん、俺、コレ前世に食ったこと有るわ。
北海道の函館近く詳しい場所は忘れたが兎に角その辺の郷土料理で、日本一の駅弁とまで言われた物……そう『イカ飯』だ。
睦姉上が何故コレを用意したのか全くもって不明だが、別段嫌いと言う訳ではないし、彼女が作ったのだから不味いと言う事は無いだろう。
ただ問題は前世に食った物よりも一杯がかなり大きいので、そのまま丸かじり……と言うのは少々行儀が悪い様に思える……切るか。
幸い智香子姉上から貰った調合道具の中にはまな板も包丁も入ってるしな。
一旦弁当を置いて、鞍に括り付けた荷物の中から其れ等を取り出し、鍋の底をテーブル代わりにまな板を置いて、一口で食べられる大きさを目安に輪切りにしていく。
みっちりと中身の詰まった烏賊は程よい弾力で包丁を受け止めるが、刃を滑らせると殆ど抵抗無くすっと切れた。
中からは餅米と思しき白米と下足、そして旨味が詰まっているであろう汁が少量だが吹き出す。
これ、絶対美味い奴だ。
思わず喉に溢れる唾を喉を鳴らして飲み込みながら二杯全てを切り終わり、包丁とまな板に付いた汁は取り敢えず手持ちの瓢箪に入った少量の水を掛け懐紙で拭う、あとから何処か井戸の有る場所できっちり洗わないとな。
「さて……今度こそ、頂きます」
と、手を合わせてそう言ったその時だった
「志七郎様、殿が同道を許すとの事で、お側にお呼びで御座る。至急御用意下され」
先程走っていった浅雀の若い藩士が息を切らせながら戻ってきて、俺の手元を見て申し訳無さそうにそう言ったのだ。
うん、君の所為じゃぁ無い、じゃぁ無いんだが……。
仕方がないので一切れだけ口に放り込み、甘辛く煮られた烏賊と餅米の共演を噛み締めながら、俺は改めて荷物を纏めるのだった。
ゆっくり、ゆっくりと街道の中心を進んで行く行列の外側を、驚かせて列を乱したりせぬ様に気を付けて、早足で歩く程度の速さで進んでいく。
しっかし何処まで進めば叔父上の乗った駕籠が居るのだろう……多分、行列の中心に居るんだろうが、本当に何処まで続いてるんだろう?
猪山一万石の行列は家臣中間、それから雇いの奴衆合わせても百人程度の物らしいが、大藩と呼ばれるのは最低十万石以上、単純に考えて少なくとも千人を越える人数が此処に動員されていると言う事だ、そりゃぁ長いわなぁ。
「おう、志七郎、何時も息子等が世話に成っとるの。良い、近う寄れ、騎乗のままで構わん、そのまま駕籠の横まで来るが良い」
昼飯をおあずけ食らった形だったので、いい加減腹が減って来た頃だった。
野火家の家紋である『芒の丸に焔玉』が屋根に描かれた、父上が使う物より倍以上に絢爛豪華な駕籠の窓から顔を覗かせた叔父上がそう言いって俺を手招きしたのだ。
「いえ、此方こそ格別の御配慮誠に忝なく御座る」
通常であれば、他藩の行列を騎獣に乗ったままで行列に近づく様な事をすれば、問答無用で叩き切られても文句は言えないだろうし、普通は友好藩とは言え許される事じゃぁ無い。
「なーに鯱張って居る。ワシとお前は叔父と甥だろうよ。と言うか、本来ならば此方が謝らにゃぁ成らん話だろよ。なんせ予定よりも二日も長く街道を占拠しとるんだからな」
当然、俺が比較的近い親戚だと言う事も有るだろうが、ソレ以上に叔父上の思考回路が基本的に『武士』のソレと言うよりは『商人』寄りだと言う事に有るのではないだろうか?
普通の武士ならば自分達が優先で当たり前、自分達の行列が其処に居るのだから、下々の者は迂回しろ……と考える物だろう。
だが叔父上は『占拠』した事を『謝る』と言う言葉が普通に出てくるのだ、まぁ流石に藩主としての体面も有る故、実際に謝罪の言葉は口にはしないが。
「もうちくと進んで、次の宿場に着けば一旦休憩の予定だ。流石に止まった行列まで追い抜かれるのが恥とは言わぬからの、そうなればそのワン公の足ならば無理をせずとも今日の内に大白虎の関を超えられるだろ。ワシ等はその手前で一泊だがな」
江戸州と外を隔てる白虎の関から更に西へと下った所に有る『大白虎の関』は、幾つかの街道が一つに纏まり江戸へと向かう要所の一つである。
「大白虎までは街道を多少離れても、そうそう鬼妖や野盗の類が出る様なことはない……が、其処を一歩離れれば魑魅魍魎跋扈する穢れた地。街道を外れる時にはよくよく注意せぇよ」
大白虎の関の内側と外側では妖鬼の出現する頻度は比べ物に成らず、強さも一気に跳ね上がるのだと言う。
江戸州内に無数に点在する戦場は、その場所毎に難易度がはっきりしており、本来其処に出現するよりも格上の『大鬼』や『大妖』が出現するのは極めて稀である。
だが江戸州を出たら関所を越える度に戦場とソレ以外の境界は曖昧に成っていき、大白虎の関を越えると最早街道や集落以外の全てが戦場と呼んでも過言ではない状態になるのだそうだ。
……って、一寸待て、今聞き捨て成らない言葉が有ったぞ?
え? 野盗? この鬼や妖怪の跳梁跋扈する火元国で?
普通に考えて、結界の無い場所を塒にするのは不可能じゃないか?
しかも地道な捜査なんかしなくても『手形』を確認すれば、ソイツがどんな罪を犯して来たか一目瞭然で、罪状に依っては裁判すら無しにその場で叩き切られても奇怪しくないんだぞ?
一寸リスクが高すぎないか?
いや……でも江戸州内、と言うか江戸市中にだって『腐れ街』と呼ばれるスラム街とでも言うべき場所が有って、其処を根城にする与太者達が居るのだ、ある程度の実力が有れば絶対不可能と言う訳でもないのか?
「お前はそのワン公と言う足が有るから用は無いやもしれぬが、雲助の類には気を付けるんだぞ。真っ当な者が大半では有るが、中には八九三者としか言い様の無い屑も混ざっておるからな」
雲助と言うのは宿場等に居る『駕籠舁き』や川辺の『渡し守』等の総称で、その言葉の通り真っ当に仕事をする者達の中には、駕籠に乗せた客を山奥に運び殺し身ぐるみを剥いだり、川の途中で値上げを要求し聞き入れないと川に落とす……そんな者も居るらしい。
……前世でも、海外で乗り合いタクシーを装った盗賊団に日本人が被害に合う、なんて話は何度か聞いた事が有る。
要するにソレと類似する犯罪者が此方の世界にも居ると言う事だろう。
比較的治安の良い江戸市中でも、掏摸や巾着切りの類いはよく聞く話だし、商家への押し込み強盗なんて話も俺が此方に生まれてからも何度となく聞いた事が有る。
とは言え、此方にも奉行所や火付盗賊改方等の犯罪捜査を担う幕府の役方有り、彼らも無能揃いと言う訳では無い。
木っ端の盗人は兎も角、『畜生働き』等と呼ばれる殺しや強姦を伴う様な凶悪犯罪を犯した者は捕らえられ、市中引き回しの上磔、獄門……と言うのが当たり前で有る。
「殿、御歓談中失礼致します、そろそろ次の宿場に差し掛かります。予定通り一刻の休憩と昼飯を皆に与えますが、宜しゅう御座いますでしょうか?」
おっと、どうやら目的地に着くらしい、一刻《約二時間》も休憩するなら、食いそこねた弁当を食ってから一足先に出る事は出来そうだな。
「うむ……いや、ワシの飯には志七郎も同席させよう。故になんとかもう一人分調「いや! ソレには及びません、俺は自分の弁当があります。生物なので今日食わないと傷むので! 本当にありがたいんですけれども、申し訳無い」
出先で親戚の叔父さんに会って、飯を奢ってくれると言われて、弁当が有るからソレを断るのは……面子を潰した事には成らないよな?
「ぬぅ……そりゃしょうが無いの。お前さんの弁当って事は、睦殿の作った物であろ。ソレを無駄にするのは勿体無いからな。街道から離れさえしなければ然程危険は無いとは言え、この先はまだまだ長いからの、気をつけて行けよ」
気を悪くした様子も無く、恵比寿の様な笑みを浮かべ手を振る叔父上の姿は、大身の大名のソレというよりは、地元密着系の商売人の物にしか見えなかった。




