四十五 志七郎、激痛に苛まれ、修練を断念する事
異変は朝稽古の場で起こった。
今日も一日、鈴木の指導で氣の運用を学ぶはずだったのだが、稽古場へと出て来て氣を溜め始めると……、
「ぎががががぁぁぁぁぁ!」
全身を激しい痛みに襲われて、思わずそんな声を上げてしまった。
前世でもそれなりにハードな訓練を受け、痛みにはある程度慣れていたと思っていたが、この痛みは今までに経験したことのない凄まじい物だった。
その痛みをあえて形容するならば、両腕両脚がボキッと折れ肋骨にヒビが入り、ちょっと苦しくてうずくまった所に力士がドスンと乗っかって来た感じ、と言えば伝わるだろうか?
しかしその痛みも長い事ではなく、激痛に呼吸が乱れ氣が抜けると共に、嘘のように痛みは引いていく。
当然、多くの者達が稽古をしている場所でそんな声を上げれば、此方に注目が集まるのだが、俺は直ぐに痛みが引いたこともあり何でもない風で手を振ってごまかした。
「志七郎様? 何か問題がありましたか?」
当然、俺の傍らに立ち様子を見ている鈴木も俺の様子を訝しんだ様で、そう声を掛けてくる。
「何でもない、大丈夫だ」
だが、然程時間を置かず完全に痛みが消えたのでそう言って、改めて氣を溜める為に呼吸を切り替える……が、
「あぎゃ!」
と、再び走る激痛に悲鳴を噛み殺す事も出来ず、今度は崩れ落ちるように蹲ってしまう。
「し、志七郎様? どうなさったのですか!?」
「なんじゃ、なんじゃ、何があった」
そんな俺の様子に流石に尋常では無いと感じたらしく、鈴木だけでなく多くの家臣達が集まってくる。
「そ、それが、志七郎様が氣を練り始めたかと思えば、こう叫びを上げ蹲ってしまったのです」
今度は氣が散っても中々痛みが引かず、俺は呻きながらその声を聞くことしか出来ない。
「……清吾、昨日は志七郎様にどれ程氣を使わせた?」
そう鈴木に問いかけたのは、この場にいる最年長者で江戸家老である笹葉の声だった。
「朝の稽古の後、昼飯までに氣翔撃の連射を行い、氣が枯渇したので湧氣水を飲んでいただきその後は夕食まで瞬歩の稽古をしました。ああ、そう言えば昼食を取るのを忘れていましたね」
「この糞たわけ!! 五つに成ったばかりの幼子にそんな荒行を課せば氣脈痛を起こすのも当然だ!!」
ビリビリと空気を震わせる怒声が笹葉の口から上がるが、鈴木はきょとんとした顔で、
「氣脈痛……ですか?」
と、口にした。
「指南役ともあろう者が、氣脈痛も知らぬとは……」
笹葉の弁を纏めると、霊薬等を使って強引に氣を使い過ぎると、経絡や氣脈などと呼ばれる氣の通り道がボロボロになり、激しい痛みを起こすのだという。
そもそも、氣が枯渇するという事自体が身体のリミッターであり、それを超える氣を無理やり使うと言うのは、合戦や鬼斬りの現場等でどうしてもやらねばその場で命を落とす、そんな状況以外ではやっては行けない禁忌らしい。
「そ、そんな……。せ、拙者はそんな風に成ったことは有りませぬ。な、何かの間違いでは……」
痛みが大分治まってきたので、未だ蹲ったまま鈴木の顔を見上げると、顔面蒼白と言った様子でそう言った。
「一朗程ではないが、尋常な者から見ればお主も十分に怪物の範疇よ。志七郎様も加護持ちとは言えその加護神は術神と言われる死神、義二郎様の様な武神の加護持ちと比べれば身体能力は二段も三段も落ちよう。ソレと張り合えるお主と一緒にするでないわ」
それに対し笹葉はため息混じりながらも、そう諭す様な口調で鈴木に語りかけた。
「このままでは父上が江戸に着くまでには間に合いませぬ! なんとか、何とかする方法はございませぬか」
掴みかからんばかりの勢いで笹葉に問う鈴木、だがそれに対する返答は無情なものだった。
「氣脈痛はそれこそ死人を蘇らせるという世界樹の実でも無ければ、即座に快癒する事など出来ぬ症状、完全に治るまでは志七郎様には氣を使わせては成らぬ。志七郎様もご自身の身体の事ですからご理解下さいませ」
その言葉に鈴木はさも絶望したと言う表情で崩れ落ちた。
「氣脈痛とはのう。確かに余程の無茶をせねば成らぬ症状故、若い者が知らぬ事があっても不思議は無いが、流石に指南役が知らぬと言うのは少々問題ではあるの」
朝食の席で今朝の一件を聞いた父上がそう言うが、その口ぶりは決して咎める様な物ではなく、言葉の通り問題提起に近いものだった。
「それがしも聞いたことすら有りませぬが、それほど稀有な物でござるか?」
父上の言葉に最初に反応したのはやはり義二郎兄上だ。
「麻呂が読んだ書物では時折見かける症例でおじゃる、大概は話に有ったように合戦や不意の大鬼との遭遇等で、後先構わず霊薬を使わざるを得ない状況で……と言った具合でおじゃった」
やはり信三郎兄上の博識ぶりは目を見張る物で、若い家臣たちが知らぬ事だというのに、未だ幼いながらよく知っている。
「なるほど……それ故に師匠も『万が一の備えであり乱用すべき物ではない』と戒めてござったか」
義二郎兄上は氣を回復する霊薬を常に携帯している物のそれを使った事は無いらしい、何度か必要だと思える状況に陥った事はあっても、そう戒められていた為に使わずどうにかしてきた、と言うのだから本末転倒な気もするが……。
「記録に拠れば氣脈痛が治まるまでは概ね三日から五日、長くとも一週間と言った所で、その間は氣を使わない事は勿論、精の付く物を食べ養生するのが肝要との事でおじゃる」
安静にとまでは言わない物の、鈍らせない程度の軽い稽古以外は大人しくしているのが良さそうだ。
信三郎兄上の言葉を、俺がそう理解したように義二郎兄上や若い家臣たちもが思案顔で自らの腰に下げた印籠に手を伸ばしていた。
父上はそんな様子を見定めたのだろう、ゆっくりと広間を見回しそれから改めて口を開いた。
「清吾よ……この度は『急いては事を仕損じる』と言う見本よな。取り返しの付かぬ失態と言う訳で無し。だが、一朗が江戸に着けば其方は鬼斬りに邁進せねば成らぬ」
一度、言葉を切りそっと茶を啜る。
「この度の事を教訓とせよ。命を張らねば成らぬ状況で仕損じれば、次は其方の命を落とすことになるであろう。『急がば回れ』じゃ肝に銘じよ」
そう続けられた言葉に、鈴木は姿勢を正し平伏しただ一言、
「ははっ!」
と応えるだけだ。
皆が朝食を食べ終え席を立つ中、俺と義二郎兄上そして鈴木が父上に呼び止められた。
「志七郎がこの様な状況と成っては稽古を続けるわけにも行かぬ、となれば義二郎と清吾の役目を入れ替えておくのも一朗が付いてからで良かろう」
と、切り出す父上、つまりは今日の予定に付いての話と言う事の様だ。
「然らばそれがしは志七郎を連れて、そこらを散歩にでも行くかの。江戸に住んでいるのに此奴は未だ、何処に何があるのかも満足に知らぬでござろう」
兄上の言う通り、屋敷の外へは数えるほどしか出たことが無く、地理に明るいとは決して言う事が出来ない。
それどころかよく似た建物しか見えぬ武家屋敷街である、一人で外へ出れば自力で帰ってくる事すら覚束ないだろう。
「うむ、志七郎に否が無ければそれでよかろう。で、清吾、お主には不本意な結果かも知れぬが後の祭りだ、一朗が来るまでしっかりとその役目を果たしてくれ」
当然、俺にはその提案を拒否する理由など無く、兄上に連れられての江戸見物を楽しむ事にする。
そんな俺の様子を見てか、鈴木はそれまで同様悲壮な表情のまま無言で一つ頷き、続けて
「この身に代えまして、如何なる事からも殿をお守り申す!」
と、思い詰めた顔でそう強く口にした。




