四百六十五 『無題』
「しかし父上、本当に宜しかったのですか、護衛の一人も付けずに……。幾ら過去世持ちとは言え、身体は未だ十に成ったばかりの童子。あの大犬が居るにせよ、猪河家に意趣返しでも企む輩には良い的にされかねぬ故……」
駆け出した三首犬の背に乗った末弟の姿が除々に小さく成るのを眺めながら、父の思惑を測り切れ無かったが故にそう問いかける。
幾ら国許の隣国が危ういと言っても、直接此方に戦を仕掛ける前触れが有った訳では無く、旅慣れた……とまでは言わずとも、江戸に何度か上がった事がある程度の者を一人二人付ける事は不可能では無い筈なのだ。
それに帝からの勅とは言え、頭越しに命じられた物では無く、正式に幕府を通した物で有る以上、友好関係に有る他家から護衛を出して貰う事は決して大きな恥とまでは言い切れない。
また此処最近志七郎が為した功績は決して軽い物では無いし、自称とは言え次期将軍の可能性が絶対に無い訳では無い男が義兄と慕い、下手をすれば上様と武光の二代続けて猪山が幕府に強い影響を持つなんて事もあり得るのだ。
家安公が幕府を開く以前から、一万石を少し超える程度の小大名としては、破格の扱いを受け続けている我が藩が、同格から少し上程度の藩から受ける妬み嫉みは半端な物では無い。
守るに易く攻めるに難い立地と、大大名と争ってもソレを跳ね除ける事が出来るだけの武勇が有ればこそ、表立って諍いを仕掛けてくる様な者は殆ど居ないが、厭ったらしい策謀の類に嵌めようとする者は後を絶たないのだ。
そんな状況に有って、中身こそ良い大人と言えるだけの経験を積んでいようと、その身体は未だ幼い小僧の志七郎を一人で京に向かわせるなど『事故』を起こしてくれと言っている様な物である。
「あれが其処らの雑魚に討ち取られる様な事は無いとは思いますが、万が一が有ればお家の恥なんて生温い話では収まりはしないですし……なにより、今度こそ熊に食い殺される者が出やるかも知れませぬぞ」
しかし俺の言葉に返ってきたのは、
「仁一郎……御主、普段は寡黙な癖に不安が募ると急に饒舌に成る癖を何とかせよ。そう簡単に心の動きを他人に悟らせる様では藩主として他藩との外交を担うには問題が有るぞ」
深い溜息と共に吐き出された、そんな答えにも成らぬ応えだった。
「父上! せめて今からでも伏虎に……いや俺が追います。未だ間に合う筈です。ご許可を……って痛!」
藩主の子である俺は、公式な催しでも無い限り江戸州から出る事は許されていない、だがソレは飽く迄も尋常な方法で関所を超える場合だけである。
関所の無い鬼や妖怪が跋扈する山越えで有れば、ソレを越えても咎められる事は無い、大概の場合は無事に抜ける事が出来ないからだ。
「落ち着けこの戯け者、御主は先ず無事女房を迎えに行く事が出来る様、馬追いの腕を伸ばす事を考えよ。儂が……いや親父がその辺を考えて居らぬ訳が無かろう。未だに義二郎の腕の事後悔しとるんじゃろが、それとコレは別の話だろうよ」
手にした扇子で額を強かに打ち据えつつ、言い放たれた父上の言葉……。
うん……そうか、俺は弟がその腕を犠牲にして自分を守った事を何処かで気に病んでいたのか……。
確かに冷静に成って考えれば、悪辣を絵に描いたようなお祖父様が、何の策も打っていないと言う事の方があり得ない……な。
「まぁ、ついでじゃ紹介しておこう。巌十一忍が一派、掏留布忍軍の者を……未だ居るのじゃろう?」
痛くは無いが二度、三度と扇子で俺の月代を叩きながら、父上はそう言って此方から視線を動かす……と、
「掏留布忍軍上忍『谷渡り』の次郎、谷次郎……此処に」
「同じく中忍『北枕』の八五郎、北八……御用命により参上致しやした」
何処に姿を隠していたのか、何の隠れ場所も無い所から旅装束を身に纏った二人の男が姿を表した。
忍者それも二つ名持ちが二人……忍者はその名の通り人目を忍ぶのが本道、ソレに二つ名が付く事等そうそう有る事では無い、故に『谷渡り』も『北枕』も俺はその名を知っている。
尋常の道を通れば十日は掛かる道のりを、踏み込む事も憚られる様な渓谷を超える事で二日で伝令を果たしたと伝え聞く捷さの忍び、谷渡りの次郎。
いつ何時どうやって盛った物かは杳として知れないが、彼に狙われた者は誰一人例外無く心の臓を止める毒に依って命を落としている……と噂される毒殺王、北枕の八五郎。
何方も幕府御用忍――御庭番衆に選出されこそして居ない物の、其処らの侍では太刀打ち出来ぬ手練で有る事は間違いないだろう。
しかしそんな者達を雇ったと成れば、家臣を一人護衛に付けるよりも余程銭が掛かる筈だ。
「首尾は?」
「上々に御座る」
「既に道中には手の者達を配置してやす、後は阿呆共が網に掛かるのを待つだけ」
……しかも彼ら二人だけで無く、その配下の者達まで動員していると成ると、その依頼料は並大抵では済まないだろう。
「真逆とは思いますが、志七郎を餌にして政敵を釣り出す……そんな見下げ果てた手管では有りますまいな」
身内の弱い者を贄に捧げる様な真似は武士道に悖るだろう、藩政を担う立場とも成れば時に非道に手を染める必要が有るのもまた事実では有るが……ソレを是とする男には成りたく無い。
「流石にソレは穿ち過ぎじゃ。ちょいと沙蘭殿から面白い企みの話を聞いての、親父と一緒に新しい稼ぎのネタを仕込んだのよ。なんでも異界では子供を一人旅立たせ、ソレを遠くから見守った記録が娯楽として広く親しまれておるらしい……」
時に子供は大人には想像も付かぬ突拍子も無い騒動を起こす事が有るのだそうで『事実は小説より奇なり』の言葉通り、下手な戯作者が描く物語よりも好評を博す事が有るのだと言う。
その為に、手の者を至る所に忍ばせ、子供本人に気取られぬ様にしながらも、危険は排除しつつ、それでいて濫りに手助けをせぬ、と言う難しい舵取りが必要となる仕事を無数に熟さねば成らぬのだそうだ。
「旅の日記はきっちり付ける様に言っておいたが、ソレとは別の視点で集めた記録を戯作者に渡して文と絵を付けさせれば、此方の世界でもそれなりに売れる書が出来るじゃろ。旅行記として売れるか、滑稽本として売れるかは彼奴の振る舞い次第じゃがの」
志七郎に旅慣れさせると言うのも今回の件では大事な目的の一つだが、それと平行して頼りに成る護衛を陰ながら配置し、掛かる費用を少しでも回収する名案なのだ……と父上は熱く語る。
もしもソレが言う通りの結果と成るならば一石二鳥どころか三鳥取りの大手柄、更に俺が懸念した通り政敵と言える様な所が手を出して来たのを、陰ながら排除出来る様な事に成れば一石を投じて四鳥を落とす……そんな策謀だ。
「では猪山守様、若様、我らはそろそろ御子弟様を追います故、眼前失礼致します」
「あっし等は同じく東街道を行く旅人に扮して、近場で見ぶ……護衛の任に付きますんで」
そう言い放ち、どろんっと煙を上げながら姿を消した二人の忍。
「うむ、東街道中戌鞍記……コレが上手く行けば、志七郎の勇名が更に伸びるか、それとも滑稽噺として武名を落とすとしても、必要以上の妬み嫉みは緩和されるじゃろ。まっこと沙蘭殿は良い知恵を授けてくれた、後で良い鰹節でも差し入れて置かねばの」
余程その策が気に入ったのか、聞き慣れない調子の鼻歌を歌いながら、その場を去る父上。
謀と言えばお祖父様の名が大きすぎるが、父上も不得手と言う程では無いんだよな……うん、俺も精進せねばなるまいな。




