四十四 志七郎、国元「猪山」を知る事
「ちょっと気になったのですが……」
ふと疑問に思うことが有ったので夕食の席で俺はそう口にした。
午前の稽古を始める前、国元から江戸へは概ね片道十日かかると鈴木が言っていたが、電話一本で世界中殆どタイムラグなく連絡が取れた前世ならば兎も角、手紙を送るにせよ使者を出すにせよ、向こうへ連絡を取る時間が必要なはずだと思う。
この間使った遠駆要石の様な物がある世界だし短い時間で行く方法があってもおかしくはない、だがそんな物が使えるならばそもそも鈴木一郎が江戸まで時間を掛けてくるというのも不自然だ。
それならば、鈴木が口にしたタイムリミット5日と言うのは間違いでは無いだろうか?
猪山藩というのが何処にあり片道十日と言うのがどれ位の距離なのかがイメージ出来ない。
そんなことが気になり、それらを素直に問いかけてみたのだ。
「片道十日とは……地図の上では場所を知った気になっておじゃったが、江戸から京までが十二から十五日、とすればもっと短い日数で行き来が出来るものと思うてたでおじゃる」
と、その言葉に食いついたのは信三郎兄上だった。
様々な書物を読んで居るという信三郎兄上は流石に博識で、江戸と京との日数に言及している。
その口ぶりから察するに京ほどまでは遠いわけではなく、距離的には片道十日と言うのは掛かり過ぎと言えるようだ。
「そりゃぁ、江戸と京の間は街道が整備され女子供の足でも容易に旅が出来る様な道でござるからな。猪山はその名の通り、何処で猪と出くわしても可笑しくないような山道を延々と登った先にある小さな窪地でござる」
そう返したのは義二郎兄上。
大名の妻と子供は江戸に留め置かれ、それは幕府に対する人質としての側面もあったはずだ、とすれば義二郎兄上が行った事のあるような物言いで語るのは少々違和感がある。
「……街道は兎も角、あの山は騎乗では通れない」
珍しく口を開いた仁一郎兄上も同様に行った事があるような口ぶりだ。
「殿方は気楽に江戸から出る事が出来るんだもの羨ましいわぁ」
ため息混じりにそう言う礼子姉上の反応からすると、『入鉄砲出女』という前世で聞いたことのある言葉は通用するっぽい、鉄砲があるのかどうかは解らないが。
「おいおい礼子、その物言いではそれがしだけで無く兄者もが極楽トンボの様ではないか。嫡男である兄者は何処へ行くにも幕府の許可が居る、それはお主ら女と変わらぬわ。まぁそれがしは世継でござらぬから好き放題だがな」
だが、だからと言って嫡男がホイホイ出かけて行っても良いのだろうか? そんな疑問も直ぐに義二郎兄上に否定された、どうやら嫡男である仁一郎兄上さえ江戸に居れば後の兄弟は自由らしい。
となれば、仁一郎兄上が国元の山を知っているのは何故だろう。
そう思い仁一郎兄上に話の水を向けてみる。
「……私は別に行きたくて行ったのではない」
一瞬、面倒臭そうな表情を見せたものの、俺以外にもその話を聞きたそうにしている弟妹が居ることに気づいたらしく、小さくため息を付いてからそう口を開いた
寡黙な質である仁一郎兄上の事、その口ぶりは決して朗々とした物ではなく、淡々とした様子で語り始める。
その内容を纏めると、大名の正妻と子は基本的に江戸に住むのだが、国元で元服の義が執り行われていない者は、例え唯一の男子だとしても藩主跡取りと家臣も民もが認めないらしい。
家によっては国元に側室とその子供が居ることもあるが、江戸で生まれ育った者でなければ今度は幕府が跡取りとして認めない。
だからと言って嫡男だけがその要件を満たすのでは、何か有って早世した場合お家断絶必至と成ってしまうため、男子は皆元服の折には国元へと顔をだすのが習わしとなったのだそうだ。
当然これは幕府の認めた公式行事扱いなので、嫡男でもさしたる詮議も無く江戸を出る許可が下りるらしい。
という事は数年後には信三郎兄上が、更にその数年後には俺も国元へと行くことに成るのだろう。
「って、国元がそんな場所なら、余計に連絡が届くのには時間がかかるんじゃないですか?」
「他所ならばそうだが、うちには兄者が居るからな」
要石は維持するのにも相応のコストがかかるらしく、江戸や京の周辺や大身の藩でなければ用意すら出来ない物で、当然一万石少々の小藩であるうちではそんな物は無い。
だが、それを仁一郎兄上の存在が覆すというのだ、曰く兄上の飼っている伝書鳩であれば山道など物ともせず、ひとっ飛びで国元まで文を届けられるらしい。
伝書鳩というだけならば何処の藩にでも居り、然程珍しいものでは無いそうだが、鷲や鷹の様な猛禽類は言うに及ばず、空を飛ぶ妖怪等に襲われ届かない事も多いとの事。
しかし仁一郎兄上の飼っている鳩達は尋常な物ではなく、地図で示されただけで初めての場所へも迷わず辿り着き、一度会ったことのある人間ならば何処に居ようとも文を届けることができるそうだ。
それどころか猛禽や妖怪に襲われようと返り討ちにし、それを持ち帰ったことすらあるというのだから、最早それは鳩では無く別の何かではないかと思う、だが生き物としての分類上は間違いなく鳩なのだという。
「……何度か他所の藩に請われて子を譲ったが、どうも私以外が育てても普通の鳩にしか成らぬと言う、なればこれも獣神様のご加護故の事なのだろう」
食後の茶を啜りながら仁一郎兄上がそう話を締める。
兄上に加護を与えているのは獣神と言う神様らしい、馬を駆り鳥を操り、犬猫に囲まれ生活している彼にはピッタリかもしれない。
「その話を聞く限りでは、既に国元へは文が届いていると考えるべきでしょうね」
「うむ。だが、鈴木の申す五日と言うのも随分甘く見た数字であるとそれがしは思うでござる。師匠の事だ、今頃は既に国元を立ち昼夜問わず駆け抜け、明後日の夜には着くのではござらぬかな」
「……十分に有り得る。あの方が本気で走れば馬でも追い着けぬ」
「義二郎兄上でも十分に怪物の範疇だと思うのでおじゃるが、それを遥かに超越するお方が来るのでおじゃるか……」
昼間鈴木から聞いた話だとかなり迷惑な質の人物だと言うし、色々と不安がこみ上げてくる。
十日の道を半分の五日でも十分驚異的だというのに、それを実質二日でやって来ると言う兄上二人の見立ては、流石に無理が有るのではないだろうか。
「清吾、あれはお主が思って居るほど無茶苦茶な人間では無いぞ。お主に課された数々は己の子であるが故の期待の表れであろう。事実、仁一郎も義二郎も壊される様な事無くこうして無事育っているからな」
それまで俺達の話をただ黙って聞いていただけだった父上が、唐突にそんなことを言い出した。
名指しされた鈴木を見れば、恐らくは兄上達の見立てを聞いて居たのだろう、絶望という二文字を貼り付けた様な表情で此方を見つめていた。
「お主に役目を代わってからは、国元で道場を開き幼子達にも武芸や手習いを教えている。若い頃は確かに歩く迷惑、理不尽の権化と言った様子で有ったことも事実じゃが、あ奴とてワシと同じくええ年じゃ早々問題など起こさぬよ」
言われてみれば祖父の代には既に家臣であり、その祖父が父上への引き継ぎを躊躇わず引退した事を考えれば、鈴木一郎と言うのは父上と同年代かそれ以上、若い頃はヤンチャだったとしても、落ち着いて居るのが普通の年齢だ。
主君である父上の言葉に思う所はあるようだが、ホンの少しだけでは有るが鈴木の表情もマシに成ったような気がした。




