四百三十六『無題』
「親父! もう一杯だ! もう一杯よこせ!」
握り付き盃の中身を呑み干し、荒々しくソレを卓に叩きつける。
双方共に固い木で出来ている為、多少扱いが荒くとも壊れないので、遠慮せずそうする事が出来るので、苛立ちを紛らわせるには丁度よい。
「旦那、流石に呑み過ぎじゃぁありゃせんか? あんまり無茶な呑み方すっと体壊しますぜ? まぁウチは商売ですんで、貰うものさえ貰えるなら否はねぇですがね」
卓の向こう側に佇む亭主は、小さく溜息を付きながらそう言いつつも、次の盃を満たし眼の前へとソレを置く。
「久々に顔を出したと思ったら、随分と荒れてる見てぇですねぇ。前に来た時ゃ確か子供が産まれたって嬉しそうに言ってやしたよね? 最近この辺で子供の不幸が有ったなんて話も聞かねぇですし……女房が間男でも食わえこんでいやしたか?」
そして続けざまに吐いた余りにもトンでも無い台詞に、思わず口に含んだ物を吹き出した。
「ば、馬鹿な事を申すな! そりゃ家のは貞淑を絵に描いたような……とは言えぬ装いを好むが、それとて見栄より武を尊ぶが故に動きやすい格好を好むが故の事。決して色狂いの類等では無いわ!」
「うわ! ばっちぃ! 勘弁してくださいよ旦那。コレ直ぐ洗わないと、拭いた雑巾も糞みたいに臭うんっすよ! まぁ、俺っちの台詞が原因だから掃除料まで取るたぁ言いませんけどね……んで、何が有ったんっすか? 話すだけでも楽になるんじゃないっすか?」
「うむ……そうだな……実はの……」
亭主に促され、自身でも状況を整理する為にゆっくりと何故自身が此程までに荒れて、呑みに逃げる羽目に成っていたのかを語りだす。
事の起こりは二週間程前の事だ。
新たな装備を作るのに必要な素材を持つ希少な化物の情報が、冒険者組合を通して我が下へと齎されたのである。
だが幾ら国元から最高峰に近い実力を持つ使用人が応援に来てくれているとは言え、産まれたばかりの子供達の面倒を女房だけに押し付けて、狩りに行くのは憚られる。
そう考え、一旦は諦める事にしたのだが当の彼女自身から『一刻も早く国元へ子供達を連れ帰り義両親に孫の顔を見せたい』と言われ、渋々出立する事にしたのだ。
道中は然程問題も無く進み、目的地へは簡単に辿り付く事が出来た。
しかし流石は希少種と言う事か、その素材を狙う冒険者は自分達だけではなく、一寸した争奪戦の様な物を展開する羽目に成ったりもしたが、最終的には自分達が獲物を手にする事が出来たのだ。
とは言え今回はその化物丸々一匹全てが必要だった訳では無く、現地で競い合った者達の中でも心根に卑しい物を感じなかった者と分け合う事にした。
なんでも身内の病を治すのに必要な霊薬を作る為に必要だと言うのだから、自身に不要な部位をくれてやるのに否は無い。
いや場合に依っては、命に関わる様な緊急性が無く、代用の素材が手に入る可能性が有るのだから、自分の為の素材でも譲ってやる事も有るだろう。
そうしてくれてやった事で、その中の一人と家臣の一人が懇ろな関係に成った事も瑣末事に過ぎない。
多少稼ぎは少なく成ったが、それで新たな縁が買えたなら安い物だ。
問題は此方へと帰り着いた後の事だった。
久しぶりに顔を見た子供達が、恐れ慄きう泣きわめいて同仕様も無い……と言うならば、まだ諦めも付く。
だが実際は、余りにも燥ぎ過ぎた子供達が、明らかに疲れて居る様子にも関わらず寝ようとしない事に業を煮やした女房に『子供達が寝るまで帰ってくるな』と家から叩き出されたのだ。
「うう常、伊縫、寝子、多縫、華呂、巌丸ぅ……コレが呑まずに居られるか! 親父もう一杯!」
火元国では余り呑む事の無かったコレを、一口含めば芳醇な香りとほのかな甘味が口いっぱいに広がり、なんとも言えない幸福感を与えてくれる。
「あいよ……っても、ウチは酒場なんだから牛乳ばっかりじゃなくて酒を頼んでくれよ……つーか、なんで酒じゃなくて牛乳で酔ってるんだよ」
江戸は生産地から多少距離が離れて居た事も有ってか、どうしても雑味と言うか臭みが強く、好ましい味だとは思わなかったのだ。
「いや……だって、それがし下戸なもんで……」
酔ってないよ? つか、酒が一滴でも入ってりゃ即座に吐くよ?
どうも兄者と違って酒は身体に合わないのだ、前に何度か飲まされた事は有るが、その度に腹の中の物を全部ぶちまけて来たのだ。
子供でも呑める甘酒ですら一口でぶっ倒れ、翌日は頭痛で酷い事に成るのだから、筋金入りなのだろう。
「まぁ、旦那は摘む物もちゃんと注文してくれっから、安酒だけで長っ尻決め込む連中よか儲かるから良いんだけどサ……」
言いながら亭主は、厨房から運ばれてきた大皿の料理を卓上に乗せる。
何種類もの腸詰めに、骨付きの豚足を煮込んでから焼き上げた物、白い竜髭菜と芋を塩茹でにした物……と北方大陸では広く食われている物ばかりなのだが、他所で食うより一段も二段も味が良いのは最後に手を入れる料理人の腕なのだろう。
「相変わらず此処の飯は良いの。何故これだけの料理がこんな場末の酒場で出せるのか……」
失礼な事とは解っているが、此処がこの街でも下から数えた方が早い安酒場なのは間違いない。
「そりゃ、ウチにゃぁ馬の小便みたいなやっすい麦酒しか無いからだろさ、どうしても良い酒は伝手の有る酒場じゃなけりゃ仕入れも出来やしねぇからな。此処の連中は皆『パンより酒』だかんな」
そんな場所にも関わらず、自身も含めて客足が途絶えないのは、その酒も含めて他の酒場に比べ割安感が有るからだろう。
そしてその事をよく知っているであろう常連客の一組、窓際の卓に座る老夫婦は態々持ち込み料を払ってまで上等な葡萄酒を呑みながら、此処の摘みに舌鼓を打っている。
また小汚い装いの……此方も常連客で有る宿無しの老人は、酸っぱい玉菜を口いっぱいに頬張り、馬の小便を美味そうに呷っていた。
けれども常連客しか居ない入り辛い場所と言う訳では無く、入り口近くの卓には見た顔では無い若い冒険者と思しき一団も居る。
「なんだぁ、あんなデカイ形してミルクとか、酒が呑めねぇなら酒場に来んなっての!」
その連中が、俺と亭主の会話を聞いてか、周りを憚らぬ馬鹿でかい笑い声を上げながらそんな台詞を吐く。
「そーそー、お家帰ってママのおっぱいでも吸ってろってんだ」
安酒とは言え変な混ぜ物がされていない事は、以前連れてきた家臣の一人が太鼓判を押していた。
「なぁドデカイ坊や……ミルク美味しいでちゅかー」
と言う事は、奴等が悪酔いしているのは酒の質では無く、呑み過ぎたのかそれともそう言う性根の腐った連中なのか……
何方にせよ、言われっ放しでは猪y……豹堂の名に傷が付く。
弱い者虐めは決して好きでは無いが、向こうから喧嘩を売ってくれたのだ、溜まりに溜まった鬱憤張らしには丁度良い。
死なない程度にぼてくりまわして、二丁目の路地裏にでも放り出して置けば良いだろう。
呑み逃げにでも成ってしまえば此処に迷惑が掛かるし、折角苛立ちをぶつける相手に成ってくれるのだ、酒代はそれがしが払ってやっても良いだろう。
「貴様等が何処の馬の骨で、どの程度の手合かは知らぬが、酒の席とは言え少々言葉が過ぎたの。表に出ろや糞たわけ共、誰に喧嘩を売ったか纏めて教えてやろうて。万が一でもそれがしを倒す事が出来れば大儲けだぞ」
そう言って腰に括り付けた財布から連中に見える様に数枚の銀貨を取り出し卓に置く。
「亭主、釣りは要らん。取っておけ」
降って湧いたタダ酒の可能性に目に色を変える馬鹿共の姿を見て、それがしは牙を剥く様に嗤うのだった。




