四百二十八 志七郎、舌鼓を打ち封印を決める事
「油漬けって只の『綱寒』じゃにゃーか! 期待して損したにゃ! つか、コレ人に見せたら絶対駄目な奴にゃ!」
俺が持ってきたPCを驚く様子も無く目を輝かせて覗き込んだ姉上は、見る間に落胆した表情へと変わり、其処から更に堪え切れぬとばかりに怒声を張り上げた。
聞けば雨水藩主渡辺家に伝わっている物で、現物は兎も角その製法は門外不出に近い扱いを受けているのだと言う。
にも関わらず何故姉上は、ネットに転がっていた手作り用レシピを見ただけで理解で来たのか?
それは渡辺家と猪河家が古い付き合いの家同士で、尚且睦姉上が『食神』の加護を受けた者だからこそ特別に教わる事が出来たのだそうだ。
料理が武士に取って武芸の一角と見做されている以上、ソレを不用意に漏らす様な事が有れば口を封じられても何ら可怪しな話では無い。
睦姉上が習った時も決して外部に漏らす事が無い様に強く口止めされた上で、帳面等に覚書をする事すら許されなかったと言う。
そんな物が世界を越えて今ここに有るのだから、そりゃ吠えたく成るのも当然と言える。
ちなみに表記が『綱寒』なのは、大江山の鬼を討った一行に居た渡辺家の先祖『渡辺綱』と、その製法を開発したと言われいる『渡辺寒』の二人に肖った物なのだそうだ。
そんな訳で缶に入っていないが、『ツナ缶』は此方の世界でもツナカンと言う訳で有る。
製法が秘匿されている為、綱寒の原材料が鮪だという事は世間一般に知られて居ないのだ。
そして綱寒のもう一つの大事な材料と言える『食用油』もこの江戸では比較的安価に手に入る食材だったりする。
人間と友好的な妖怪の一種に『油すまし』と言うのが居るのだが、彼等はその名の通り油の中に有る不純物を食らう性質を持つ為、製油を生業とする場所では良い共存関係を築けているらしい。
なおこの江戸で使われている食用油の大半は北の竜頭島で作られている油菜の種から絞られた菜種油で有る。
油菜自体は火元国中何処でも生産されては居るのだが、竜頭島に領地を持つ唯一の大名、龍前藩草間家が優れた精製技術を持っているらしく、龍前油は他の産地に比べ口当たりが良いのだという。
「まぁ……精製し過ぎて元の素材の香り殆どにゃーから、胡麻油や洋橄欖油にゃんかは、他所の方が有名にゃんだけどにゃー」
香りが無いと言う事は癖が無いと言う事でも有り、天麩羅油にしたり炒め物に使ったりと、前世の感覚で言うならば『サラダ油』に近い立ち位置と言う事だろうか?
「綱寒作るにゃら迷姉酢も作らねーとにゃぁ……うん、綱迷のおにぎり沢山作って断っつん家持ってけば、チビ達のご飯に丁度良いにゃ。その位は手間賃代わりに貰って良いにゃ?」
俺の小遣いで買ってきた物とは言え、こんな物まるっと一本、一人で食いきれる訳が無い。
義理の身内へのお裾分け程度をケチる様な事を考えるまでも無く、俺は素直に頷いたのだった。
「で、今日の夕食はこの見た事の無いお刺身に、煮物に、焼き物……全部鮪な訳ね? まぁ……偶には珍味の積りで頂きましょうか、睦が手を入れたなら酷い事には成ってないでしょうし……」
出された御膳を不気味な物でも見るような目で見つつ、トロの刺し身を箸で突付く母上。
一般的な鮪が猫跨ぎ等と呼ばれるのはその強烈な脂身が傷みやすく、海で捕れた物は陸揚げされる頃には、大トロ部分なんかがズルズルに身崩れし凄まじい臭気を放つからだ。
流石に直接そんな状態の鮪を見た事が有る者はこの場には居ないようだが、話には聞いた事が有るだろう大人達は皆揃って母上と同様の反応である。
此処はやはりこの料理を用意する原因に成った俺が率先して箸を付けるのが筋と言う物だろう、そう考え己の膳へと手を伸ばしたその時だった。
「うぉ!? な……なんじゃこりゃぁ……口に入れた瞬間溶けたぞ!? 余はこんな物喰ろうた事が無い! 美ー味ーいーぞぉぉぉおおお!」
何の躊躇も無くトロを口にした武光が吠え、行儀作法も何も有ったものでは無い勢いでガッツキ始めたのだ。
「拙者の育った里は山奥故、刺し身等食う機会は有りませんでしたが、此程の物とは……魂消るとはこの事……」
家に来た当初は一緒に食事するのには抵抗が有った様子だったお忠も、家臣達や女中、下男達もが食事を共にしている状況に慣れてきた様で、姉上の作った料理を味わう余裕が出て来た様だ。
「こら、美味ぇだなやぁ……火も入れねぇで食うなんて、頭おかしいと思うただが、こりゃぁオラの知ってる魚たぁ別物だぁなぁ」
先に食べ始めた二人の様子を見て負けてられないと思ったのだろう、蕾も恐る恐るといった感じでは有るが、ソレでも大人達より先に口にしていた。
怖いもの知らずと言うか、物知らずと言うか……多分子供達は鮪が『猫跨ぎ』と呼ばれている事すら知らないのではないだろうか?
「煮物も美味い! 焼き物も美味い! てか、兄者! そのでかい頭の焼き物もきっと美味いのだろう? 兄者だけズルいぞ!」
……うん、一匹の鮪から一つしか捕れない頭を丸々窯で焼き上げた『兜焼き』は俺の目の前に置かれているのだが、別に独り占めするつもりなんて無い。
ていうか、普通に一人前の料理に加えて、こんなデカイ物を一人で食い切るのは無理に決まってる。
「いや、別に俺だけの物って訳じゃぁ無い。食いたいなら食えよ、目玉が美味いらしいぞ?」
兜焼きは前世でも食べた事の無い料理では有るが、こういうのは鍋と一緒で皆で突付く物だろう。
と言いつつ、たっぷりのワサビを大トロに乗せ醤油を付けて口へと放り込み、とろける様な脂の甘みが消えぬ内に飯を掻き込む。
美味ぇ……うん、津軽海峡辺りで捕れた新鮮な物と比べればどうかは解らないが、接待なんかで行った料亭で出された刺し身よりは数段上な気がする。
脂の強すぎる大トロより、中トロの方が好みだと思っていたのだが、しつこく後を惹かないこの味は飯のおかずとしてはこれ以上無い。
「あら? イケるじゃない」
「……これは酒が欲しく成るな」
「コレが猫跨ぎなんてトンでもねぇ話でさぁな」
「ちと脂が濃いのぅ、儂は此方の赤身の方が……うん美味い」
年少組が平気で食べているのに怖気づいたままでは沽券に関わる、そう言う気持ちが無かった訳では無いだろう。
だがソレも最初の一口を入れる前までのことで、食べ初めれば箸が止まる事は無かった。
「おお! 目玉も美味いが、目の周りも美ー味ーいーぞぉぉぉおおお!」
どうやら自分の御膳を食い尽くしたらしい武光は、茶碗と箸だけを持って来て兜焼きを穿っている。
一つ年下なのに俺と変わらぬ体格が有る事から、成長の早い方なのだろうとは思っていたが、やはりソレに見合うだけの食い気も持ち合わせているらしい。
と言うか、食欲だけなら義二郎兄上の居ない今、家でも上位に食い込むんじゃないか?
此奴一人で兜焼きを半分近く骨にしちまった。
「なぁ、兄者! コレ戦場で捕れるのだろう? 余はまた食いたい! 自分でとっ捕まえた奴ならもっと美味い筈だ!」
とは言え流石に少々喰い過ぎた様で、狸の様に膨らんだ腹を上にして寝っ転がり、そんな事を曰った。
「いや捕れるけど……今日のコレは買ってきた奴だぞ? お前を連れて行く場所よりももっと奥に出る奴だからな?」
武光の腕前は近接に限って言うならりーちよりは上だと断言できるが、実戦経験の無い今の段階ではぴんふや歌よりも劣るのは間違いなく、今この段階で二層へ連れて行けば、家が有馬家の二の舞を演じるだろう事は想像に難く無い。
「別に今日明日直ぐになんて事は言わぬ、だが何時か余は地力で再びコレを喰ろうて見せる! そして母上や叔父上にもな!」
身体を横たえたまま、そう宣言し武光は目を閉じ寝息を立て始めたのだった。
……腹が膨れたら直ぐ眠るとか、この辺はまぁ歳相応の子供と言う事か。




