四百二十四 信三郎、成人を目指し腹括る事
(不味い! このままでは、このままでは死ぬ! 死んでしまうでおじゃる!)
思わずそう叫びたく成るのを、必死の思いで噛み殺す。
間違ってでも声をあげたりすれば、後ろから迫る餓えた獰猛な化物の群れに再び見つかってしまう。
麻呂とて武勇に優れし猪山の子、五匹や十匹の豚鬼程度に尻込みしケツを捲くる様な事は無い。
だがソレが飽く迄も群の一部で有り、ソレらを統率する大鬼が複数居る様な大きな『軍』では流石に分が悪いにも程が有る。
義二郎兄上や一郎の翁、それに御祖父様辺りの頭のネジが一本二本トンでいる連中ならば、恐らくは嬉々として其処に飛び込み首領の首を取りに行くのだろう。
しかし麻呂は彼等の様な死狂い勢とは違う、極めて健全な精神しか持ち合わせて居ないのだ。
此処は引いても恥では無い筈だ、領内に軍団を率いる様な大鬼が居る事を知らせるだけでも、立派な手柄である。
けれども恐らくそうしたならば元服の試練は失敗と言う事に成り、再度試練に挑戦できるのは一年後と言う事に成るだろう。
と成れば、来年父上が江戸へと戻るのには間に合わない以上、麻呂が帰る事が出来るのは三年後と言う事に成る。
いや三年後では江戸へと戻る事無く、京へと婿入りと言う話に成る可能性も少なくないだろう。
唯でさえど田舎中のど田舎で、碌な本屋も無ければ場末の女郎屋一つ無い、そんな所に三年間も閉じ込められるのは正直勘弁して欲しい、元服が認められていない内は基本的に山越えは禁止されているのだ。
とは言え、数えるのも馬鹿らしい程の豚鬼を全て仕留めなければ元服を認められないと言う訳でも無い。
試練突破の条件は、独力で山向こうの何処かの宿場へと辿り着くか、七日間山の中で耐えきるか、大鬼を一体仕留める事の何れか一つを熟せば良い。
つまりはあの群れに態々突っ掛る様な危険な真似はせず、身を潜めてやり過ごしても構わない訳だ。
でも麻呂がソレを選択する事は無い、何故ならば大鬼や大妖に統率された化物の群れは、一部の例外を除いてほぼ間違い無く人里を襲う。
奴らが向かった先が猪山ならば、多少の被害は出るだろうが大きな事には成ら無いだろう、何せ其処らの百姓ですら氣を纏い武を習うそんな土地柄だから。
だがしかしその矛先が隣接他藩へと向かったならば、その先に有るのは阿鼻叫喚の地獄絵図である。
武士にとっては雑魚と言い切って良い豚鬼も、碌に氣も纏えぬ町人階級の鬼切り者にとっては一匹を四、五人の徒党を組んで倒す様な強敵なのだ。
しかも豚鬼は人を喰らうだけで無く、犯し孕ませ仔を増やす。
人類の中では比較的繁殖力の強い種族と言われている人間の、軽く数倍以上の早さで増える上に、生まれてから戦力に成るまでに一年も掛からないと言う。
それでも以前読んだ書には、将軍の名を冠する豚鬼の上位種が率いた軍に依って滅ぼされた国の話が有り、其処には人の腹に宿った豚鬼の仔は十日程度で生まれ、母体が命を落とすまで何度でも出産を繰り返させるのだと記されていた。
幸いというか何というか、大鬼以外の雑魚衆の仔として牝が生まれる事は無いそうで、鼠算よりはマシ程度の計算らしい。
その話が何処まで本当かを確かめる術は無いが、もし事実だとすればあの群れを放置する事で、最悪どれほどの被害が出るか解った物では無い。
この試練は氏神様も見守っていると聞かされているし、こうして麻呂があの大群と鉢合わせに成ったのも、きっと神のお導きなのだろう。
最悪失敗して麻呂がくたばったら、その時は氏神様から親父殿に話が言って、仇は討ってくれる筈だ。
そうと決めたら腹を括る。
無事に勝って江戸へと帰ったならば、貯めてた銭を切り崩して豪遊しよう。
宇佐美姫と祝言を挙げ契を結ぶ前に、遊女を水揚げして初物食いを経験しておくのも悪く無い。
そんな下世話な事を考えながら、麻呂は生きる為に策略の限りを巡らせるのだった。
「にょほほほほ! 真逆、真逆たった一人で妾の軍が壊滅させられるとは……。親父殿の反対を押し切って攻め入った甲斐が有ったわいな!」
時に指揮官を弓で狙撃し、時に陰術で土砂崩れを起こし一つの群れを押し潰し、木を切り倒して丸太落としを仕掛けたり、陽術で崖が見えない様に幻を出して纏めて叩き落としたりもした。
兎に角、接敵されれば嬲り殺しにされるのは目に見えていたのだから、思いつく限り罠や地形を利用し数を削り、首領格に一騎打ちを挑める状況を作ったのだ。
鬼は余程の事が無ければ一騎打ちから逃げる様な事は無いが、そもそも姿が見え声が届く範囲に親玉が居なければ挑みようが無い。
数にして恐らく千近い軍を相手にたった一人で声を上げた所で、連中の鬨の声にかき消され、麻呂の挑戦は届かなかっただろう。
もしそうなれば決して打たれ強い方では無い麻呂の命は今頃既に無かったに違いない。
「妾は高老荘 高王が娘、牡丹姫。この地で妾が手に掛ける最初の男児よ、妾が名乗ったのだ其方も名乗るが良い。忘れるまでは覚えておいてやるわいな」
そうした戦い方を繰り返して来たにせよ、全く無傷と言う訳にも行かず身に纏う狩衣は血と土に塗れ、ぱっと見る限り満身創痍と言う風に映ったのだろう、嘲笑する様な口振りで女鬼がそう言い放つ。
豚鬼系統の鬼を率いているのだから彼女もまた豚鬼なのだろう。
だが巷で言われている通り、女鬼は人の目から見てもむしゃぶりつきたく成る様な美姫揃い、と言う話は嘘では無いらしく彼女もまた醜い豚鬼と同族とは思えぬ、整った顔立ちをしていた。
ただ問題が有るとすればその高慢ちきな口振りとは裏腹に、年の頃は恐らく睦と然程変わらない幼さで、身に纏った革の鎧の上から見る限り身体付きの起伏も乏しく、今の段階で思わず襲い掛かりたく程の色気は無い。
「此方こそ真逆でおじゃるな、散々苦労して削った軍勢の棟梁が女……それもこんな子供たぁのぅ。麻呂は猪山藩主猪河四十郎が三男、猪河信三郎でおじゃる。此処で引くならば痛い目に合わずに済むぞ? 闘ると成れば女でも手加減はせぬ」
幾ら鬼とは言え女のそれも子供を痛めつけるのは少々気が引ける、此処で引くと言うので有れば討ち取った適当な指揮官を持ち帰れば、試練突破には十分だろうし見逃しても構わないだろう。
取り巻きの雑魚は山と残っているが、麻呂が帰ってから家臣や領民を動員して山狩りでもすれば済む話だ。
そこに女鬼が居たと言う話をすれば、嫁に恵まれない田舎の男共は血眼に成って豚鬼共を駆逐する筈である。
「何を馬鹿な事を……散々妾の手下がぶち殺されたと言うのに、一当てもせずに引いては父者の名に傷がつこうと言う物。統率主の大半を討ち取られた以上は妾が直接殺めねば面子が立たぬわ!」
愛らしい少女にしか見えぬ彼女は、そう言い放つとそれまで座っていた石の椅子を……いや椅子では無い!? あれは頭が子供ほどの大きさが有る石の……岩の戦鎚だ!
ソレを……彼女は片手で軽々と持ち上げる。
侮っていたのは麻呂の方だ、腕力だけならば礼子姉上にも勝るぞ!?
あんな物で殴られれば、義二郎兄上でも痛いでは済まない、当然麻呂なら一撃であの世逝き確定だ。
……選択を誤った! 三年禁欲を強いられてでも引くべきだった!
だが流石に今から引くと言うのは無理な相談だ。
「いざ!」
と成れば、勝つ以外に生きる道は無い。
「尋常に!」
改めて腹を括り、腹の底から声を出し、
「「勝負!」」
そう揃えて声を上げると同時に、可能な限りの氣を練り込んだ矢を撃ち放つのだった。




