四百二十二 武光、契を口にし怒りに火をつける事
「子供が舐めた事抜かしてんじゃねぇぞ……。それとも何かい? お武家様にゃぁ兄弟の契ってのはそんなに軽々しく結べる物だってぇのか?」
借りてきた猫……とまでは言わずとも、身分の差を弁え俺達子供相手にも、気を使った対応をしていた断狼が、静かな怒りを顕にしたのは武光が提案した言葉を聞いた時だった。
『折角江戸に居る義兄弟が揃ったのだ、苦しゅう無い余と義兄弟の盃を交わす事を許そう』
将軍の血を引く子として、幼少教育を受けた所為も有ってか武光は尊大な物言いをする事が多いのだが、その大半は虚勢を張っているに過ぎず相手を見下す様な悪意は欠片も含まれていない。
大人の目から見ればそんな事は一目で解る程度の物なのだが、この場合相手が悪かった。
十代半ばと言う血気盛んな年頃の少年、しかも様々な巡り合わせの結果だとしても町人階級に居る者が武家の姫で有る睦姉上と恋仲に成ったのだ、其処に階級社会故の劣等感の様な物を抱いて居ても何ら奇怪しな話では無い。
しかし彼が口にした様に武士に取って義兄弟の契が軽い物かと言えば決してその様な事は無く、むしろ町人階級よりも余程重要と言える。
武士が己の命よりも重んずるのは、他の何よりも『家』即ち『一族』だ。
世が戦国の時代ならばその『血脈』を繋ぐ為、時に悪名を背負う事になろうとも忠義すらもかなぐり捨てて『返り忠』すら厭わない、そんな事すら有り得る。
中には己の立身出世や命惜しさにソレを成す様な輩が居ない訳では無いだろうが、飽く迄少数派……大半は一に家、二に忠義、三、四が無くて五に命、と言った優先具合なのだ。
故に多くの武士は前世と比べ圧倒的に命が軽いこの世界で、可能な限り『家族』と『家臣』を大切にする。
たとえ自分が命を落としたとしても、主家が家族を守ってくれると信じる事が出来るからこそ、家臣達はその身を賭して忠義を尽くす。
多くの場合、主家と家臣達は大体数代遡れば血を同じくする『親戚』関係で有り、少し遠くは有るが主家を守る事で、自身に子供や兄弟が居らずとも血を繋ぐ事だけは出来る、とそう考える者も少なくは無い。
まぁ、中には稽古の最中に子供の頭をかち割って殺めて仕舞う様な事が無い訳では無いが、それとて子供が憎くて殺したと言う訳でなく、命が軽い世界に武に依って立つ者達だからこそ強く無ければ生きられない、と言う事だろう。
兎角、武士にとって家族とは其程に『重い』。
その家族が増えるのが、結婚で有り、出産で有り、そして……義兄弟の契なのだ。
有馬家は閉門処分の関係も有って、家格はそれなりに残されているにも関わらず家臣と呼べる者は居らず、そんな中で育った武光は他人との距離感に少々不安は有るが、それでも越えてはいけない一線を簡単に口にする程無思慮者では無い。
おそらくは親戚で有る家臣達にも去られ、家族以外には極少数の下男下女としか触れ合う事の無かった彼は『大家族』と言う物に憧れが有るのでは無いだろうか?
猪河家に預けられた事でソレが叶う筈だったのが、丁度父上が国許へと帰る次期と重なった事で、兄弟も家臣達も少なく肩透かしを食らった様な思いだったのではなかろうか?
それ故に思わず先走った台詞が口を吐いたのだろう。
「武士にとって義兄弟の盃ってのは決して軽い物じゃ無い、一度交わせばそう簡単に水にする事は出来ない。義兄弟に成るってのは其奴の為に命を張るって事だぞ?」
その程度の事は上様の血を引く者として育てられた武光とて、当然ながら理解している筈だ。
事実、俺がそう言ってやると、一瞬驚きにも似た表情で目を見開き、それから苦い物を噛み締めた様な顔に成った。
自分の口にした言葉が、断狼からすれば初陣も済ませていない子供に初対面でいきなり自分の為に命を差し出せ、と言われたにも等しいのだと気がついたのだろう。
「……睦が嫁に行ったとしても、俺達と此奴が必ずしも義兄弟と言う訳では無い。他所へと出た者は最早猪山の者とは言えぬ。先ず第一に考えねば成らぬのはその婚家の事だからな」
歯を食いしばる様に己の言葉を悔やむ武光に、仁一郎兄上が噛んで含める様な優しい口調で言い放つ。
家臣の家に嫁に行ったので有れば、その利害が対立したとしても早々殺し合いにまで発展すると言う事は無い。
だが他所に……それも政敵とでも言うべき家に、政略結婚が行われる様な事が有る。
当然ながらそう言う場合一度は和解した上でと言う事に成るが、対立の原因が取り除かれなければ……取り除かれたとしても感情が許さず再度敵対する様な事が無い訳では無い。
そうなった時、実家の味方をし続ける様な者は、家内に不和を呼ぶ事に成る為、離縁されても仕方が無いと言える。
なので基本的に嫁や婿へと出た者は実家と縁を切った者と扱われるのが通例なのだ。
断狼と睦姉上の場合、家名を持たない町人の家へと嫁ぐのだから、流石に其処まで深刻な事体に成る事は無い筈では有るが、嫁に行けばやはり猪山藩の者とは見做され無く成る。
其処は俺達兄弟がどうこう言った所で、世間一般の認識がそうなのだから、どう仕様も無い事なのだ。
血縁として義兄弟に成るのは間違いなく、そう呼ぶ事自体は何ら可怪しな事では無いのだが……盃を交わしたのと同様の関係に成るかと言えばまた別で有る。
「盃を交わすのは男が男に惚れた時。その男の為に命を賭す覚悟が出来た時……叔父上にもそう言われておったのに……余は、余は愚か者だ! 済まぬ断狼殿! この通りだ! 阿呆な事を抜かした余を許してくれ!」
恥も外聞も無く、いや……此処で謝らぬ方が余程『恥』と判断したのだろう、武光は戸惑う事無く畳に額づき謝罪の言葉を口にした。
「いや! 流石に俺っちも言い過ぎた! 頭を上げてくれ! 幾らお子様だって言ってもお武家様にそう平べったく成られちゃぁ、此方が困るってんだ!」
その姿にむしろ大慌てしたのは、断狼の方で有る。
「ならばせめて師匠と呼ばせて欲しい! 御方の短弓の技を余に伝授してくれ! 師と弟子ならば武士だろうと町人だろうと敬うに何の隔てにも成らぬ!」
頭を上げぬまま、むしろ畳に額を擦り付ける様にしながらあらん限りの声でそう叫ぶ。
「ちょ! 師匠って、それとこれとは話が別だろうよ! さっきも言ったが俺っちの技は我流でお武家様に教える様な上等な物じゃぁねぇぞ! 勘弁してくれよ!」
大人の目から見ればソレは最早謝罪では無く、有る種の恫喝とも言える行為だっただろう。
だが幾ら元服し弟妹の生活を支える稼ぎを得ているとは言え、老獪な大人から見れば十代半ばの小僧に過ぎず、そのやり取りは完全に攻守逆転状態に有るように思えた。
「それでも余には貴殿の教え方が性に合ったのだ! 余は将軍の血を引く一人として武芸百般に秀でるとは言わずとも、不得手は全て無くしておく必要が有る。一芸に注力する訳には行かぬ以上、少しでも優れた技の持ち主に師事したいのだ!」
……生涯を一芸に捧げた者をよく知る俺としては、極めて腹立たしい物言いでは有るが、武光からすれば褒め殺しにも近い最大級の賛辞を贈ったつもりなのだろう。
「し、仕様がねぇなぁ……ただ、俺っちの腕は安かぁねぇぞ!」
実際、武に依って立つ者の総領で有る将軍の血を引く武光から『優れた技の持ち主』と称されて悪い気がする筈も無く、怒りそれから慌てていた断狼の表情が少しだけ緩み、照れ隠しなのか普段よりも荒っぽい声を上げてそう答えた。
其処で終われば、大団円と言えるその状況だったのだが……
「……睦を娶ると言うのだ、身内価格という事で頼む」
そんな空気を読まない台詞を吐いてその場の空気を白けさせたのは、勿論仁一郎兄上で有る。
その言葉を聞き、その場にいた者達は皆力が抜けた様に崩れ落ちるのだった。




