四百二十一 義兄弟縁を結び、次女縁遠い事
「んだから! そぅじゃねぇって何度も言ってるだ! もっとこう、グッと構えてンガと狙ってシュバッと撃たねぇと当たらねぇだよ!」
「だから、グッとシュバッとか擬音で説明されても解らんと言っとるだろ! 余は感覚派では無く型から入る方なのだ、もっと具体的に説明されねば理解出来ぬわ!」
歌や野火兄弟とは途中で別れ、俺達が猪山屋敷の門を潜った時、そんな怒鳴り声が射撃場の方から聞こえてきた。
「あの二人、未だやってるのにゃ……」
姉上がそう呟いたのも無理は無い、言い合っているのは蕾と武光で朝と全く変わらない内容だったからだ。
……と言うかの武光は昼の間、御祖父様に徹底的に扱かれて居た筈なのだが、其処から更に短弓の練習をする体力が有る事が驚きで有る。
「そう言えば、断狼義兄上も短弓の名手だったな……世話掛けついでと言っては何だが、一寸見てやってくれないか?」
二つ名持ちの鬼切り者とは言え、町民階級で有る以上は敬称を付けるべきではないのだが、家臣でも無い年上を名前で呼び捨てるのも気が咎める、その結果一寸気が早いが義兄と呼ぶ事にしたのだ。
「つっても、俺っちのは我流だぜ? 天下に名高い猪山なら正規の流派で学んだお人も居るだろうさ?」
武芸指南役の鈴木や一郎翁、その他にも家臣達を探せば短弓の使い手の一人や二人は多分居るだろうが、父上が国許へと帰っている今、江戸に残っているのは若手を中心にした十人の中には残念ながら存在しない。
弓自体は皆、基本武芸の一つとして学んでは居るのだがソレは長弓で、仁一郎兄上も流鏑馬の技術は持っているがソレで使うのもやはり長弓だ。
俺自身も拳銃が有るので弓は練習していないが、武士の嗜みとして学んで置く必要が有るとは言われている、取り敢えず一郎が戻ってから覚えれば良いとも思うので焦っては居ないが。
「今は丁度使い手が皆国許に居て習う事が出来ないんだよ。実戦経験豊富な鬼切り者の目から見れば何が悪いのかも解るだろうし頼めないか?」
義兄上と言う敬称こそ付けては居る物の、やはり町人と言う事で俺が敬語を使うのは対外的に宜しく無いし、彼自身『ケツが痒く成る』と言う事で出来るだけ粗雑な口調を心がけていたりする。
個人的には、この辺の身分関係の決まり事は面倒臭いとしか思えないのだが、そのへんを御座なりにすれば何方にとっても良い事は無いのは解りきっているので仕様が無いと割り切るしか無いのだ。
「そーにゃ! だったら、夕餉は家で食べていけば良いのにゃ! 今夜は断っつんが獲ってきてくれた地下鯰を天ぷらにする予定だったし、一人分増えた所でどうって事無ーのにゃ」
俺の頼みを受け入れるかどうか、迷っている様子だった断狼も、恋人にそう言われては弱いのか、
「しゃーねぇなぁ……んじゃまぁ、俺っち見たいな野良兵法がどれだけお侍様の役に立つかは解りゃしねぇが……出来るだけの事はさせてもらわぁな」
少々困った様な顔を見せた後、色々と諦めた様なため息と共にそんな言葉を口にしたのだった。
「いやー流石は二つ名を持って語られる鬼切り者だのぅ、真逆ほんの一言二言で此処まで劇的に変わるとは! 猪山の姫を娶る予定の者と言う事は余に取っても義理の兄も同然! 苦しゅう無い、余の事は武光と呼び捨てても構わぬ!」
あれから一刻程が経ち、夕餉の席で武光はそれはそれは嬉しそうにそう吠えた。
聞けば御祖父様が所用で出掛けた為、氣功の稽古はせず今日は一日中蕾に短弓の扱いを習っていたのだが……全くと言って良い程成果は上がっていなかったらしい。
と言うか、武芸を学ぶのに一日二日で結果が出てたまるか! 武芸舐めんな! と言いたい所だが、断狼が一寸悪い所を指摘しただけで的に向かって矢が飛ぶように成ったのだから、武光の身体に宿る才能は前世の常識では測れない程なのだろう。
「いや……最初に教えてた娘の型が完璧で、ソレを綺麗に模倣出来てたからだろうさ。命中精度だけなら俺っちより上だぞあの娘……筋力が違うから威力まで含めりゃ流石に負けねぇけどな」
それに対して、呆れと驚きと称賛と恐れ……色々な感情が綯い交ぜに成ったなんとも言えない表情で言葉を返す断狼。
ちなみに『恐れ』の原因は、蕾や武光の才能に恐れを成した故……と言う訳では無い、折角の美味い晩飯を口にしているにも関わらず、射殺す様な視線を彼に向けている兄上と笹葉の所為だ。
正直、仁一郎兄上が妹を盗られた兄の表情を見せるとは思っていなかったが、色々と残念な所の有る上の二人に比べ、家庭的な末の妹は格別可愛いのだろう。
……多分、相手が智香子姉上ならば兄上も父上もあんな殺気すら感じられる様な視線を向ける事は無く、むしろ好意と歓迎を持って迎えていた事は想像に難く無い。
「……今日は武光に弓の扱いを教えてくれただけで無く、愚弟と従弟達の命も救ってくれたと聞く、他所の者に助けられたと有らば武家の子として此の上無い恥とも成ろうが、お前ならば身内の手助けと言い張れなくも無い。認めざるを得ない様だな」
だが兄上の方はそんな厳しい表情を長く続けるのに疲れたのか、小さくため息を吐くとそう言って彼を受け入れる様な台詞を口にする。
「うーむ……まぁ……こうして又将軍候補を我が家で預かる様な事に成った以上、下手に政略結婚を増やす訳にも行かぬのも事実だが……それでもこう……町人に降嫁させると言うのもなぁ……当家の家臣に成るならば話が早い物を……」
対して笹葉の方は家老として色々と思う所が有るらしく、未だ厳しい顔を崩さない。
どうやら武勇に秀でた町人階級の鬼切り物を召し抱えるにも、色々と決まり事が有るらしく、ソレを無視して主君の娘婿だからというだけで優遇する訳には行かないと言う事の様だ。
「睦は元々自分で小料理屋を遣りたいと前々から言っている訳だし、その為には町人に降嫁するのが一番でしょうよ。武家の名を背負ったままで見世を出すと言う訳には行かないんだし……」
御御御付を啜りながら、そう言い放ったのは当然母上で有る。
武士階級のまま料理人として見世をやっている『石銀さん』と言う例も有るが、アレは小料理屋なんて物では無く、下屋敷の皮を被った『料亭』だ。
しかも商売の相手は武士の中でも特に上流階級ばかりで有り、姉上が望んでいるのとは多分方向性が違うのだろう。
「それに情人は町人と言っても一等の稼ぎを持つ鬼切り者、武士に嫁ぐのと然程変わりゃしないわよ。むしろ其処らの木っ端侍に嫁入りするよりは良い選択だと思うわ。そんな事よりも智香子の方を本当になんとかしないと……」
冷たい視線を笹葉に一度向け、それから苦悩に満ちた深い深い溜め息を吐く。
「本当にのぅ……お清殿に頼まれ、儂も心当たりを訪ねて見たと言うのに、全滅じゃからのぅ……真逆後妻探しの助平爺にすら御免被る、むしろ勘弁して下さいと泣いて土下座されるとは……あやつの悪名は一体どこまで広がっているやら……」
御祖父様の所用と言うのは、智香子姉上の縁談探しだったらしいが、状況は全く以て芳しく無い様だ。
「で、当の本人は夕餉にも出てこず、今日も何やら難しい調合に掛り切り……と、ねぇ笹葉? おトラが正室で良いから、いっその事貴方あの娘を側室にしてくれない? いつまでも片付かないよりは何歩かマシだから……」
当代笹葉は我が家で召し抱えていた、猫耳女中の一人を嫁にしているのだが、女中が正室で主君の娘が側室というのは一寸普通では考え辛い、それだけ母上も含めて色々と切羽詰まっていると言う事だろう。
「誠に申し訳無い事ながら……勘弁して下さい!」
母上の言葉に笹葉は背筋を伸ばし正座を崩す事なく縁側まで後退り、それはそれは見事な土下座を披露すると、そう言い放つのだった。
笹葉の結婚状況について誤りがあった為、本文を修正致しました。
混乱を招き誠に申し訳御座いません。




