四百二十 断狼、身の上を語る事
『何時も済まないねぇお睦ちゃん……本当ならあたしが確りやらなきゃ行けない事なのに、お武家様のお嬢さんに御三どんなんかさせて……』
淹れてもらった茶を啜り持参したお礼の菓子の一部を口にして、皆が沈黙した瞬間、隣の部屋から子供たちの喧騒に混ざりそんな女性の声が聞こえてきた。
薄い安普請の木壁にはパッと見ただけでも節穴が有るのが解る程で、遮音性は前世の世界で壁が薄い事で有名だった『家具付き賃貸住宅』よりも更に低い事は間違い無く、殆ど素通しと言って良いだろう。
『義姉ちゃん、それは言いっこ無しって約束だにゃ? それに肥立ちが悪いのは義姉ちゃんの所為じゃねぇのにゃ。むしろお産の時ににゃーが不手際だったから、身体に負担を掛けちまったのが悪ぃのにゃ』
睦姉上が義姉と呼んだのは断狼の兄嫁の事で、姉上がおんぶしていたあの赤ん坊の母親だと言う。
昨年末、俺が此方へと戻る少し前、彼女が急に産気づき、産婆さんを呼んで来るよりも早くお産が始まってしまったのだそうだ。
その時丁度此方へと遊びに来ていた姉上は『妖術猫伝話』越しにおミヤから指示を受け、お産の立ち会いを勤めたらしい。
幾ら未だ子供の範疇に有る睦姉上と言えども、火元国だけで無く世界を見回しても間違い無く最上級の経験と知識を兼ね備えた産婆で有るおミヤの指示で動いていたのだから、世間一般の産婆が立ち会うより余程良い結果だったと言える筈なのだが……
普段からおミヤや、その弟子の猫又達と行動を共にしている姉上本人としては、一々指示を受けてしか動けなかったこと自体が失態だと感じている様で、義姉が産後の肥立ちが悪い事も自身の手際がもっと良ければ防げた事だと思っているのだ。
『家みたいな貧乏長屋にゃぁ高い銭を取る様な腕の良い産婆なんざぁ来てくれねぇ。銭を積んで呼んでも適当やって、お産に事故は付き物だとか平気で抜かすんだ。それに比べりゃお睦ちゃんは本当に良くしてくれたんだ、そう気にすんねぇ』
と、慰める様な言葉を掛けたのは、何時ぞやの夜鷹蕎麦屋の主――即ち母親の夫だろう。
聞こえてきた声は欠伸混じりの物で、夜通しの商売をしている関係で、昼夜逆転の生活をしている事が想像できた。
『お陰で真っ当なお医者様にも掛かれてたし、一寸時間は掛かるけれど元気に成るってんだから、こんな貧乏長屋に暮らす身分じゃぁ有り得ねぇ幸運さね。しかも食神様のご加護の娘が滋養の有る物を食わせてくれてるってんだから、文句を言ったらば罰当たらぁな』
身分の差と言う奴は極めて厄介な物で、実際に鬼切りで大枚を稼いで居たとしても、町人階級――それも貧乏長屋等と呼ばれる場所に住んでいると言うだけで、その住処に相応しい程度の身分と見做されてしまう。
逆に実際の稼ぎはかつかつで、ツケやら借財やらに塗れた生活をしていても、一寸良い所に住んでいれば相応の『信用』が有ると看做される辺り、武家で無くとも『見栄』や『面子』を捨て置く事は出来ないと言う事なのだ。
そんな訳で、こうした場所に住む者達は怪我や病気を患っても名医に掛かる事は難しく、高い銭を叩いて来てもらったのが自称医者なんてのも珍しい話では無い。
流石に人の生き死にが懸かっている状況では見栄を張り続ける様な馬鹿をする様な事は無く、猪河家の紹介で最高の名医とまでは言わずとも、確りと信用の置ける医者が此処まで往診に来てくれているのだそうだ。
「俺達みてぇな場末の鬼切り者如きの後ろ盾に成ってくれた猪山のお殿様にゃぁ足向けて寝られやしねぇって物だ。んだから、お前等を俺が助けた事もそんな大層な恩に着る必要は無ぇぜ。恩には恩、義理にゃぁ義理で返すのが男ってもんだ」
睦姉上と恋仲だと言うだけで無く、そうした猪山藩への義理立ても有って、俺達を助ける事を戸惑い無く行えたのだと断狼はそう言って、
『んー、睦五郎ちゃん今日も沢山飲んだのにゃ。んでもそろそろ離乳食の事も考える頃かにゃ? 智香姉ちゃんに作って貰う『ウバノミルク』も安くはにゃーから、早くご飯が食べれる様にゃった方が良いからにゃー』
壁の向こうから聞こえてきたそんな声に、苦笑いを浮かべながら
「機会が有る時に少しでも返して置かねぇと、現在進行系で山積みに成っちまうからなぁ」
とため息を付くのだった。
「ししちろー、にゃー達も帰ってご飯にするにゃー。あ、今日はコレが居るから断つんが面倒にゃら、送ら無くても大丈夫にゃ?」
俺達の会話も一段落したのを壁越しに確認したのだろう、子供達に食事を与え終わった睦姉上がそう言いながら玄関の障子を開く。
「いやお前ぇさんと一緒に居んのを面倒だなんて口が裂けても言わねぇよ、冗談でもんな事口にしたら奥方様に叩っ切られらぁな」
対してそう返す断狼、その口振りは惚気混じりの冗談地味た物で、母上を本気で恐れていると言う風では無い。
「そう言えば……兄貴夫婦が一緒に住んでるのは解るとして、親御さんは何処に居るんで? 聞いた感じだと苦労するべきはお前さんじゃ無くて、親父さんの役目だと思うんだが……」
草鞋を履き直し、外へと出た所で聞きにくい事をズバリ聞いたのはぴんふだった。
「そう踏み込んだ事を聞くのは失礼では?」
即座に否定の言葉を口にする歌であったが、その表情には興味津々とハッキリ書かれている。
「浅雀藩野火家は確か猪河家と親戚なんだろ? んなら睦ちゃんを貰う以上俺っちとも親戚に成るって事だわな、気になるのは仕様が有んめぇ。そっちのお姫さんも髭丸の兄貴の妹なんだろ? なら他人じゃねぇや。勿論、身分の違いは弁えてらぁ」
それに対して『構わない』と言った風に手をひらひらと振りながら断狼がそんな台詞を口にした。
言葉の通り、睦姉上を娶ると言うので有れば当然俺とは義兄弟と言う事に成るし、野火の兄弟とは義理の従兄弟と言う事に成る。
彼の兄は義二郎兄上と比較的濃い友人関係だったと言う話だし、そうであれば当然桂殿とも交友が有っても不思議では無いだろう。
そう言う意味では同行しているのは全員『身内』と言って良いかも知れない。
「お袋は一番下の弟が生まれた時に産後の肥立ちが悪くてな……親父はそんなお袋に滋養の有る物を食わせようと兄貴と一緒に鬼切りに出て、偶々出くわした大鬼と刺し違えたんだわ」
何とも軽い口振りで言い放たれたのは、中々に重い話であった。
彼等の父親は町人階級としては珍しい『氣功使い』で、鬼切り者としてはそれ相応の実力を有して居たのだと言う。
だが基本、怠け者で小心者だった彼は積極的に鬼斬へと出る事は無く、銭が足りなく成れば日雇い仕事で糊口をしのぐ生活をしていたのだという。
氣功使いは常人数人分の力仕事を余裕でこなす事が出来るので、この広い江戸ならば何処かかしらで必ず仕事は有るので『宵越しの銭は持たねぇ』を地で行く様な銭使いでも問題無く女房子供を養えたのだそうだ。
しかしソレも女房が九人目の子供を産んだ時に瓦解する、それまでの八人では然程の時を置かず日々の生活に戻れたのが、とうとう高齢出産に耐えられ無かったのか、伏せったままでとうとう回復する事は無かったのだと言う。
その頃は未だ睦姉上と断狼の付き合い等影も形も無く、前記の通り真っ当な医者に掛かる事も出来ず、それでも頼れるのは民間療法としか言いようの無い『滋養のある食べ物』と出処の怪しい『薬』の類い……。
それらを賄う為に父と兄は戦場へと向かい、断狼は弟妹の面倒を見ていたのだと言う。
「結果待っていたのは親父の死と兄貴の大怪我……鬼斬で生計を立ててる奴等なら何処にでも転がってる有り触れた話さね。んでくたばりかけた兄貴を連れ帰ってくれたのが鬼二郎の兄貴と髭丸の兄貴って訳だ」
不幸中の幸いと言うかなんというか、もし通りかかったのがその二人では無く、もっと手柄や銭に餓えた輩であれば、大鬼の素材やら何やらは横取りされていただろう。
「兄貴達が尽力してくれたお陰で大鬼の討伐報酬も、素材も家の兄貴の物って事に成ってな。んでその銭で『死んで無けりゃ大体治る』ってな霊薬も売って貰ったんだが……お袋は自分より兄貴に使えって言ってそのまま……な」
武士にとって……いや、俺にとって『鬼斬』は只の小遣い稼ぎ程度の簡単な仕事だと思っていた。
いや命懸けの仕事だと言う事を忘れていた訳では無いが、武家の子として生まれた事で手にした『才能』と『氣功』と言う超常の力に、何処か驕っていたのかも知れない。
彼の身の上はこの江戸で暮らす者達、特に町民階級の鬼切り者達の日常なのだ。
多分、親父さんとやらも俺と……俺達と同じく氣功と言う才能に溺れ、研鑽を怠っていたが故に偶発的な大鬼との遭遇で命を落としたのかも知れない。
ぴんふもりーちも歌も……事前に知っていただろう睦姉上ですら、そんな思いを表情に見せ、ただ押し黙り家路を辿るのだった。




