四百十九 志七郎、生活環境を知り力不足を嘆く事
江戸の市街地で住居と言えば極めて一部の例外を除けば、武家の屋敷に、商家の通りに面した店舗兼住宅、そして裏町に軒を連ねる長屋の何れかと言う事に成る。
猪山藩邸で俺や家臣達が住んでいるのは、世間一般の九尺二間と呼ばれる土間一畳半と四畳半の座敷――家賃次第で板間も有れば畳間も有る――に比べて、倍の広さで一口に長屋と言っても大きな差が有ると言えるだろう。
二つ名を持つとは言え、町人階級の鬼切り者である断狼の住処は当然ながら、一般的な九尺二間の長屋で、前世の時代劇や落語なんかで表現されていた所謂『庶民の長屋』を想像すれば、多分大きくは離れて居ない筈だ。
「お疲れさんなのにゃー。もちっとでご飯出来るから、チビ達に手を洗わせて欲しいのにゃ……ってなんでししちろー達が此処に居るにゃ!?」
と、そんな所に居たのは何故か……と言うか当然というか睦姉上である。
割烹着を纏っているのは変わらないのだが、その下に着ているのは恐らく礼子姉上のお下がりだと思わしい着古した野良着姿で、知った顔でなければ大名の娘には全く見えない装いだった。
しかもその背中には、ようやっと首が据わったばかりに見える赤ん坊が括り付けられて居る……普通に考えればお姉ちゃんが子守をしている微笑ましい姿の筈なのだが、彼女が醸し出す下町の若い――と言うか幼い――おっかさんと言った雰囲気が『もしや』と思わせる。
流石に姉上と断狼の子などと言う事は無いだろうが、それでもこの姿を義二郎兄上や父上が目にすれば、血の雨が降るであろう事は想像に難くない。
「おう、何時も悪ぃなお睦ちゃん。頼まれてた地下鯰はキッチリ仕留めて来たぜ、その帰りにどじ踏んでた此奴等を拾ってよ。ソレを助けたらお礼がしたいってんで、取り敢えず連れて来たんだわ」
土間の壁に取り付けられた弓掛けと刀掛けに得物を置きながら、驚く様子も見せずにそう言う断狼。
察するに彼女が此処に居るのは最早日常の風景と言えるのだろう。
「んー、にゃーの所の弟たぁ言えお客さんが居るにゃら、放って置く訳にゃぁいかにゃーわにゃ……んじゃにゃーが行くから、摘み食いはダメにゃ?」
ちらりと俺達を見やってから、そう言って睦姉上は木の突っ掛けを履いて外へと出ていった。
「ま、上がってくれや。ちっと喧しいだろうが、チビ共の飯は隣で食わせりゃ邪魔にゃぁ成らねぇだろ。番茶で良けりゃ淹れっからよ」
決して広いとは言えない部屋では有るが、其処に有るのはちゃぶ台と畳まれた布団、そして唯一金が掛かっている様に見える重そうな鎧櫃だけで、俺達全員が上がり込むだけの広さは有るが十人を超えるらしい家族が寝起きするには流石に狭すぎるだろう。
見る限りこの部屋に有る布団は一組だけで、恐らくは鬼切り者として大きな稼ぎを持つ断狼だけが自腹で個室を確保しているのでは無いだろうか。
それにしても、此方に生まれて始めて所謂『庶民』の住処へと足を踏み入れたが、何と言うかこう……俺が知っているソレとは色々と違う気がする。
草履を脱ぎながら部屋を見回し考え、思い至ったのは兎に角『物』が無いと言う事だ。
押入れも無いこの部屋で収納と呼べるのは鎧櫃だけで、彼が身に纏う装備を仕舞えば、ソレ以外に収まるだけの大きさは無い。
「……本当に町民が住んでる長屋にゃぁ何にも無ぇんだな。話には聞いてたが、ぱっと見る限り空き部屋と勘違いしても可怪しくねぇなぁこりゃ」
俺も同じ事を感じては居たが、流石に失礼だと思い口を噤んでいたのに、ぴんふがあっさりと言い放つ。
「そりゃ、お武家様やら商家やらたぁ違って当然さね。なんせ薄っぺらい障子紙の戸にゃぁ鍵なんて便利な物は無ぇし、有ったとしても簡単にぶっ壊せんだ。余計な物なんざ置いておいても泥棒を呼ぶだけだわな」
気にした素振り無く笑いながらそう答える断狼。
十両以上の盗みは理由如何に関わらず一律死罪とされているにも関わらんず、泥棒の被害は決して少ない物では無いと言う。
故にと言う訳では無いが江戸の長屋に住む者は、必要な物が有るならばその時近場の損料屋で借りてくるのだと言う。
損料屋ではソレこそ鍋釜から褌まで借りれない物は無く、初陣の得物や防具すらレンタルで済ませるのが一般的なのだそうだ。
見栄も面子も有る武士や商人では一寸考え辛い生活スタイルだが、無い物を盗る事は出来ないと言う意味では、ある意味完全な防犯と言えるかも知れない。
「という事は、その鎧櫃はそう簡単に盗まれる様な安い作りの物では無いと言う事ですね。見るに恐らくは熊庄辺りの作でしょうか?」
流石に生業の為の道具を借りて済ませるなんて事は無い、大工なら大工道具を、鬼切り者ならば武具を用意するのは当然の話で、それらまで借り物で済ませるのは三流の証とまで言われているそうだ。
勿論、二つ名を冠するほどの鬼切り者で有る断狼が身に纏うのは、自前で用意した素材で拵えた物で、総額で換算すれば最低でも数百両は下らないだろう。
「よく解ったな。開かず持ち上がらず盗まれず……の鎧櫃だ。鬼二郎の兄貴が担いで来たんだから絶対に持ち上がらないって訳じゃぁ無ぇけれど、それでもこそ泥風情が持っていくなぁ無理だろうさ」
りーちが口にした熊庄と言うのは、此方では比較的有名な車箪笥――前世で言う所の金庫――を作っている雑貨藩の有名な職人集団だそうだ。
大商人や上級武士の家に置かれる様な車箪笥を作る彼等の品は、当然ながら誰でも簡単に買えると言う訳も無く、武具同様に注文生産の一点物で有る。
幾ら腕前優れているとは言っても町人階級出身の年若い鬼切り者では、幾ら銭を積んだ所で門前払いがオチだろう。
ソレをひっくり返したのは、義二郎兄上と夜鷹蕎麦屋を営む彼の兄の友好関係だった。
義二郎兄上の事だ何かの拍子に意気投合すれば、最低限の面子さえ立てば身分の差など気にする事など無いだろう。
そして友人の弟が難儀していると聞けば、骨折りを惜しむ様な事も考え辛い。
断狼が初陣で大きな戦果を上げた事を兄貴経由で知った兄上が先々必要に成るだろうと、悟能屋の職人を紹介すると共にその鎧櫃を贈ったのだそうだ。
「てか、コレが動かせ無ぇから俺ぁ此処から引っ越す事が出来ねぇんだけどな!」
歌さんが言っていた『鴻鵠落とし』の一件で大分稼げた時、一度郊外の一軒家への引っ越しを考えたのだが、数人がかりでも鎧櫃が動かせなかったので、諦めたのだと笑った。
氣を纏えばなんでも出来るそんな風にも思えるが、氣は飽く迄も素の能力を増幅する物で有り、並の氣功使いが義二郎兄上と同等の腕力を発揮しようとすれば、数瞬も保たずに氣が枯渇する事だろう。
身体が出来上がった後成らば解らないが、少なくとも今の俺では絶対に無理だと試さなくても理解出来る、氣功を用いても大人数人分の力とまでは行かないのだ。
俺の伝手が有る範囲で、義二郎兄上と同等の力仕事が出来そうなのは、豚面と酒で暴走した仁一郎兄上、多分一郎翁も可能だろう、後は礼子姉上にも出来そうだ。
だがその面子は皆、江戸を遠く離れており、今すぐお願い出来そうな心当たりは無い。
いや……待てよ?
火元国でも一番の氣功の達人で、武芸も知略でも上から数えた方が早い怪物級の人材が今我が家に居るな。
「……今すぐ引っ越したいと言うので有れば、心当たりが無い訳じゃぁ無いな。俺から頼むと角が立つかも知れないが、睦姉上からのお願いなら多分断らないぞ?」
うん、多分俺が言えば『鍛え方が足りない』と武光と一緒に無茶苦茶修行をさせられる未来しか見えないが、女の子の睦姉上が頼めば否は無いだろう。
「……いや、辞めておく。手前ぇの力が足り無ぇ事に、女の身内を頼るってのは男らしくねぇやな。何時かきっちり鍛えて手前ぇの力で何とかすらぁな」
未だ幼さを残した顔立ちの断狼だがそう言って笑う表情は、一丁前の誇りを持つ漢の物だった。




