四十 志七郎 義兄を得る……かも知れない事
思い立ったが吉日、とばかりに立ち上がり駆け出す兄上を追い掛ける。
向かう先は父上がいつも執務を執り行っている部屋だ。
そこは父上専用の執務室、と言う訳ではなく藩士それぞれが書類仕事などを出来るよう机が沢山並べられた大部屋だ。
皆が皆、言葉ひとつ発すること無く、算盤を弾き墨を擦る音以外は聞こえない。
『武勇に優れし雄藩の』という謳い文句の通り、兄上以外も脳筋ばかりかと思っていたのだが、この部屋の様子を見る限りに置いては書類仕事に関しても手抜かりは無いようだ。
いつも朝稽古で雄々しい叫びを上げている男達が、背を丸めて事務仕事に精を出す様は前世の職場と変わらぬ様子で、思わず吹き出しそうに成るのを精一杯咬み殺す。
そんな場所にドカドカと足音を響かせてやって来れば、当然皆の視線が此方に集まるのだが、それらは兄上の巨体に阻まれ俺に届くことはない。
「義二郎、お主が此処へ来るとは珍しいな。今は猫の手も借りたい、ほれそこの空き席を使え」
上座に座り検算を担当しているのだろうか、父上は筆を持たず算盤だけを手に顎でそう指し示した。
だが兄上はそれを無視して、今度は足音を立てぬようすり足で父上へと歩み寄る。
「な、なんじゃ? 義二郎……お、お主も、もしや……」
突如現れ、無言で進む兄上の態度に気圧されたのか、父上は腰を浮かせ身構えた。
その態度に、弾かれたよう父上の側に座る藩士達が押っ取り刀で立ち上がる。
よくよく見れば、座り仕事の邪魔に成る故か、皆刀を佩居ておらず席にはそれぞれ刀掛けが据え付けられていた。
「止まれ! 義二郎様、如何なる故あっての所業か、それ以上寄らば我が身を賭しても貴殿を斬らねばならぬ!」
そう言って父上を庇う様、兄上の前へと立ち塞がったのは鈴木清吾だ、どうやら武芸指南役と言うのは、父上の護衛を兼ねるらしく唯一刀を腰に刺していた彼は、鯉口を切りいつでも居合を放てる体制でそう鋭く言い放つ。
「ぬ? おぉ、これは失礼仕った。それがし、父上に火急の要があり申して罷り越した次第、親子家族の事故余人を交えず……と、思い直接父上に申し上げようかと思ったのですが」
そんな周囲の反応に対し、戯ける様に仰け反りそう切り返した。
兄上の言葉に藩士一同から誰ともなくため息が漏れ、その場に走った緊張が溶けたのが端から見ていた俺にも手に取るように解った。
その中には父上も含まれていたのだが、一人だけ緊張を解かず身構えたままの男が居た、そう鈴木である。
油断する様子を微塵も見せぬまま、ほんの半歩だけ身体を横ずらし、二人の間に視線が通る様にする。
「なんじゃ? 火急の用とは? 我が藩は小藩、故に藩士は皆家族。家族の事と言うならば余人など居らぬ。そのまま話せ」
兄上の行動が含む物が有っての事、と言う訳ではない。そう判断したのだろう、父上は座り直しながらそう問いかけた。
「しからば……、先日より話に上がっておった礼子の婚約者でござるが、それがしはここに居る鈴木清吾を推挙したいと存じ上げまする。この期に及んでも父上を護ろうと一欠片の油断も見せぬこの対応、我が義兄相応しいかと……」
その言葉の意味が、その場に居た全ての者に伝わるまで概ね3秒……、
「ええ!」 「なんですとぉ!?」 「ちょ、ちょ?」 「その手があったか!?」
皆が皆、思い思いの叫びを上げ、静かだった執務場は怒号に包まれた。
どうやら、父上の言った藩士は皆家族、との言葉に偽りは無いようで、今回の一件に付いては皆が皆それぞれ色々と考えて居たらしい。
至る所から「年回りも調度良い」とか「清吾ならば適任だ」「儂は認めぬ、姫様が家臣に嫁入り等!」と無責任とも、取れる発言が飛び交っている。
「へ……? え? 拙者が姫様を……? えぇ!」
一番反応が遅かったのは、一人臨戦態勢だった鈴木本人である。
「いやいやいやいや! 姫様は藩の為、御家の為に他家と縁付く大事な御身、拙者では家格が……そう、家格が足りませぬ!」
流石に驚いた様子で、刀から手を離し必死の形相でそう否定するのだが、
「何を言うか。先祖代々優れた武勇で猪山藩を支える鈴木家、それも当代一の英傑一郎の息子、我が藩にお前以上の適任は居らぬ」
「然り然り」
「お前の母は大身風間藩の姫ではござらぬか。血筋としても十分でござろう」
「然り然り」
と、彼の逃げ道を塞ぐような声がやはり至る所から飛んでくる。
「……清吾なら、安心して妹を任せれる」
止めを刺したのは、この騒ぎでも一人静かに算盤を弾いていた仁一郎兄上の、小さなだがよく通るそんな一言だった。
何かを諦めた様な表情を浮かべ、鈴木は崩れ落ちた。
「で……正味の話、清吾は義二郎に勝てるのか? この騒ぎの所為で尋常な勝負無しでは外野が煩うてたまらぬぞ」
半ば魂の抜けた様な鈴木を義二郎兄上と共に座らせ、父上がそう疑問を口にした。
「それがしの記憶が確かであれば、義兄上は格自体然程高い訳では無かったはずでござる。以前打ち合った折にはかなり低い数値であったのに、ほぼほぼ互角の勝負で有った事、まっこと驚愕申した」
たしか義二郎兄上は一週間前から上がってなければ格六十だったはずだ。
格は純粋に実力を数値化した物ではないので、それを比べた所で強さは解らないと言うが、一つの指標ではある。
「拙者は未だ義二郎様の義兄ではございませぬ!」
「清吾、お主の格は今幾つだ?」
慌てて言い募る鈴木を無視し、父上が口を開く。
「はっ、拙者の格は二十にございます」
諦めた様な口ぶりでそう返すと、思ったよりも随分と低い数字にどよめきが走った。
逆に言えば四十も差がある相手と互角に戦えると言う事は、同様に格を上げればそれ以上の強さを持つと考えられる、しかも鈴木は十分に若いと言える年齢である事を考えれば武人としての才は兄上以上ではないだろうか。
「なんじゃと!? なれば、暫く鬼斬りに専念すれば義二郎を打ち倒す事は十分に可能であろう。よし清吾、其方明日より鬼斬りに専念せよ。わしが国元に戻る年末まで全ての役目から外す。義二郎、お主の提案が発端じゃその役目を肩代わりせよ」
「お、お待ち下さい! せ、拙者は志七郎様への武芸伝授を始めたばかり、それも義二郎様は師には向かぬ性分故の事、此処で御役目を外されるのは鈴木の名に傷が付きます。到底承服できる事ではございません!」
慌ててそう言う鈴木、その表情は悪く青ざめてさえ見える。
「ふむ……ならば其方の父、一郎を国元より呼び寄せ指南に当たらせるとしよう。其方と義二郎の勝負であればあ奴以外に立会を務める事も出来まい」
腕を組みさも名案ととばかりに頷きながらそういう父上とは対照的に、鈴木の表情は絶望的な状況だと言わんばかりに、みるみる悪く成って行く。
「……清吾は、礼子を妻に迎えるのは嫌か?」
ぼそりと仁一郎兄上が呟くと、
「いえ主家の姫君に対して恐れ多いと言うだけでござる。姫様が承服なさり我が父も承諾するとなれば、拙者に否はございませぬ」
「本当か、余所に懸想する女子が居ったりするのであれば、また別の相手を考えるぞ、正直に申せ」
「拙者とて男子、岡場所へ赴いた事が無いとは申しませぬ、が別段懇ろと成った娘が居たわけではございませぬ。殿が望んで姫様を娶るのに否は有りません。そして、一人の武人として義二郎様と立ち会う事も望む所にございます」
姿勢を正し両の拳を床に付け、深々と頭を下げながら、鈴木は間違いなくそう宣言した。




