四百十五 志七郎、地下を知り茹だる事
この世界では、日々多くの……それこそ数えるのが馬鹿らしく成る程の鬼や妖怪を含めた魔物が被害を出したり討伐されたりしている。
種族として根付いている者達は普通の動物と同様に生活圏を構築し、其処から離れた場所にいきなり出現する様な事は無いのだが、以前戦った鬼亀達の様な『異世界からの侵略者』は、いつ何時何処から攻めて来ても奇怪しくは無い。
もしも市街地や街道なんかに出現すれば大きな被害が出るのは解りきっている事で、それに対して何の手も打たず、ただむざむざと損害を許容する様な事など有り得ないのは、余程の馬鹿で無ければ理解できる事だろう。
故にある程度以上の街道や、集落程度の場所で有っても人とそれに類する種族が暮らす場所には、魔物の出現を抑制する『結界』を張る為の『神器』が設置されているのだ。
だが神々の神通力は基本的に世界樹に由来する物で有り、世界樹の管理外の侵略者達相手では絶対的な物とは言い切れ無い。
また同時に魔物から取れる素材は、食料としても様々な産業でも使われる、この世界の経済活動には最早不可欠な物と成っている為、出来たとしてもその出現を完全に遮断するという事は出来ないので有る。
なので結界は飽く迄も、その範囲内へ直接出現する事が出来ない様にする物なのだ。
では結界に遮られた魔物達は何処へ行くのかと言えば、当然結界の外側と言う事に成る。
そうした弾かれた魔物達が出現し易く、尚且人間達がそれらを討ち倒すのに有利と成る、様整えられた場所が戦場なのだ。
地域に依ってはそもそも魔物が出現し辛い場所と言うのも有り、そう言う場所では戦場を整える必要が無いらしいのだが、此処江戸は元々多くの魔物が現れる土地だったらしい。
その為、市街地の外には数多くの戦場が存在しているのだが、世界でもトップに近い人口を抱える大都市『江戸』は、広すぎて中心部に出現する魔物をそうした外側の戦場まで弾き出す事が出来ないのだそうだ。
「それ故、この江戸の地下には江戸の街を遥かに凌ぐ巨大な迷宮が有り、妖共を其処に放り込む事で、人が住む場所の安全を保っておる……と、言う訳だ」
久し振りに長台詞でそう説明してくれた仁一郎兄上は、言葉を切ってから頭の上の手拭いを湯船に浸すと、それで気持ちよさそうに顔を拭く。
「ほぅほぅ……流石は兄者の兄上、よう知っておるのう! 余が読んだ事の有る書物には其処までの事が書いて居らなんだ、大変勉強に成ったぞ!」
彼には少々熱いであろう湯に肩まで浸かった武光は赤い顔でそう言うと、そろそろ限界らしく湯船から洗い場へと逃げ出した。
「偉そうな事を言うておるが仁一郎、確かお主は地下迷宮に入った事は無いのではなかったか? なんせ彼処は狭くて騎乗のままで戦える様な場所では無いからのぅ。と志七郎や、武光が出たのであればもうちっと湯を熱くしてくれや」
兄上を一瞥し茶化す様な台詞を放ち、それから御祖父様は俺の方に言葉の矛先を変える。
帰って来た俺がする事で何が一番『家』に貢献出来ているかといえば、魔法を使った風呂炊きだろう。
俺が前世の世界へと飛ばされた事で、魔法を覚える前の状態に戻っただけとも言えるのだが、湯を沸かす燃料も決して無料では無い。
しかも我が家は慣例として風呂が湧くと先ず女性陣が湯を使い、その後家長で有る父上が入り、御祖父様や兄上達そして七歳を越えた俺と武光も家臣達と同じ枠でその後だ。
追い焚きなんて便利な物が無い以上、減った分だけ新たに沸かした湯を足す事は有っても、湯船の湯が冷めていく事を止める事は出来ず、どうしても後に入る者ほど湯が温いと言う事に成る。
なので義二郎兄上辺りは自腹を切って、態々市中の銭湯に熱い湯を求めて入りに行っていたのだが、俺が居れば魔法で湯を沸かす事が出来るのでどのタイミングでも熱い湯に入れるのだ。
とは言え……
「解りました。武光、俺も出るから背中擦ってくれ。おーい四煌戌、また頼むよー」
クソ熱い湯を好む江戸っ子爺さんには何時までも付き合っては居られない。
俺は窓から四煌戌を呼びながら、先に逃げた武光を追いかけるのだった。
「さて……風呂上がりにはやっぱりコレだな。武光も飲め」
俺が帰って来た事で、再び可動するように成った木製冷蔵庫に手を伸ばしつつ、褌一丁で涼んでいる武光にも声を掛ける、中から出て来たのは当然瓶に入った牛乳だ。
冷蔵庫を可動させる為に必要な氷は冬場は兎も角、そろそろ桜も咲き始めるこの頃にも成れば、そう簡単には手に入らない高級品で有る。
まぁ江戸にも人と同じ様に暮らす『雪女』や『雪爺』等と呼ばれる妖怪が居ない訳では無く、氷室に保存されている希少な天然氷で無ければ絶対に買えない物と言う訳では無いが、それでも贅沢品に分類される事は間違いない。
「……兄者、乳と言うのは赤子が飲む物で有ろう? 余はもう男女の別を別ける歳だ、そんなお子様の飲み物は要らぬ」
……経済的に決して贅沢品など味わって来なかった筈の武光は、腰に手を当て瓶を傾ける俺を見て、そんな生意気な口を叩きやがった。
「喧しい、牛乳には身体を強くしたり背を伸ばす成分が入ってるんだ、四の五の言わずにお前も飲め」
牛乳アレルギーと言う物も世の中には有るが、恐らく此奴のは只の食わず嫌い成らぬ飲まず嫌いだろう。
前世の世界では学校給食でも出されていた通り、成長過程に有る子供が摂取するべき栄養が色々と含まれているので、身体に障るので無ければ飲ん置くに越した事は無い筈だ。
「乳臭いのは好かんのだが……兄者が其処まで言うなら仕様が無い……」
……とは言え牛乳は牛が飲む物で有って、人間の身体には良く無いと言う説も聞いた事は有るが、それは所謂『諸説有る』と言う奴だろう。
無論、ソレを目を閉じて一気に呷る様に飲む彼に言う様な事はしない。
「およ? 冷たい所為か前に飲んだ時程臭くない! フハハハ! 飲める! コレなら余でも飲めるぞぉぉぉ!」
飲み干してから、そう吠える武光。
「飲めるなら良し……あ、人に依っては牛乳で下痢する人も居るから、明日下す様なら無理はするなよー」
……てか、牛乳飲んでお腹がゴロゴロするってのも、牛乳アレルギーの一種だったっけか?
確か本吉が、そうで給食の牛乳は俺か芝右衛門が飲んでたんだよな、そーいや。
「飲めと言ったり飲むなと言ったり……どっちが本当なのか……」
意を決して飲んだのに不本意だと膨れるが、
「酒だって下戸も居れば上戸も居るだろう? 人に依って身体に合う物、合わない物が有るのは仕様が無い。ただ食わず嫌いってのは何にしたって良くは無い、食える物の範疇が狭いって事はそれだけ食うに困った時に不利に成るんだからな」
と、戦場での心得を利用して諌める言葉を掛ける。
実際、食う物が無けりゃ好き嫌いなんてしている余裕は無い。
旅の途中だったり戦へと出る様な事に成れば、食う物を手に入れる事すら難しい場合も有るだろう。
そんな時に好き嫌いをして、あれも嫌これも嫌などと言っていれば、生き残る事すら儘ならない。
武士である以上、好き嫌い無く何でも食うのは武芸の範疇の筈だ。
「猪山は美味い物が食えるが、色々と厳しい家だと言われておったが……真逆大人連中では無く、未だ子供の義兄までもが此処までとはのぅ」
空き瓶を手に、来る家を間違えたかも知れない……と嘆く武光に俺は十分手加減をした手刀をお見舞いするのだった。




