四百四 志七郎、色事を思い納得行かぬ事
「あのねぇしーちゃん。うちは孤児院じゃないのよ? ましてや女郎屋でも無けりゃ女衒でも無いの、あまり無節操に女の子を拾ってきちゃ駄目よ。拾った所に捨ててきなさいとは流石に言わないけどね……まぁ多分無理なんでしょうけれど」
頭痛を抑える様に米噛みを揉みながら、最初は諭す様に……そして何かを諦めた様に母上はそんな言葉を口にした。
曰く、俺は若い頃の上様に似ているらしい。
母上自身がその頃の上様を直接見知っていた訳ではないが、それでも嫁いで来た時点で家に居た家臣達はその頃を知ってる者が少なくなかった。
以前、上様を母上が『助平爺』等と切り捨てて居た通り、我が家に居住していた子供の頃から彼は何かと女性に縁が有ったのだそうだ。
廊下を走っては滑って転んで通り掛かった女中を押し倒すのは日常茶飯事で、喉が渇いたからと川で水を飲もうとすれば水浴びをする少女と出逢い、夜遊びで一寸遅い時間に街を歩けば与太者に絡まれた少女と出会う……そんな人だったらしい。
当時は将軍位を次ぐ立場に無く、猪山の一家臣に成り下がる事を良しとしていたらしい彼は、様々な理由を付けてお祖父様と連れ立って殆ど火元国中と言って良いほどに津々浦々を旅をし、そしてやっぱり女性と出会うのだと言う。
とは言え、責任の取れない立場で軽々しく『お摘み』してしまう程、迂闊な上様では無く、一時の逢瀬を交わす事すら無く『二度と会う事は無いだろう』と別れる事もザラだった。
数多の女性に涙を流させた彼が本気で思い合ったのが御台所様で有る。
公家の姫と、将軍様の子弟とは言え小大名の家臣に成る予定の一侍、本当ならば結ばれる筈の無い二人だった。
しかも彼女の家は猪河家とは因縁浅からぬ関係で、思いを遂げるにはロミオとジュリエットの様に来世へと思いを繋ぐしか無い、其程に二人の間に横たわる家と家の問題は深く重かったのだと言う。
そんな二進も三進も行かない状況をひっくり返したのが御祖父様だ。
方々に手を尽くし他の将軍候補を片っ端から排除した。
無論、表立っての事では無い。
多くの場合その者の周辺を嗅ぎ回り醜聞を漁りソレをぶち撒け、そうした物が無ければ甘い罠を張ったり、博打やら酒やらで空気を入れる……、そうして『将軍に相応しく無い』と言う世論を煽ったのだそうだ。
流石に命を奪う様な真似はして居ないとの事だったが、時期を同じくして夭折した者が居ない訳では無い辺り、果たしてソレも何処まで本当なのか。
兎角、そんな真似をしてまで現上様を将軍に押し上げたその手腕を指して『事、悪意に於いて為五郎に勝る者無し』等と言う汚名悪名引っ被る事に成ったのだと言う。
そうして将軍位に付いた上様の大奥に集まったのは、若い頃に出会い思いを向けられた女性達、その大半は別れた後も嫁に行く事無く上様に操を立て続けていたのだそうだ。
そんな女難の相と言うか女福の相と言うか……異性に極めて縁強い上様と、予言を司る女悪魔にすら『約束された大賢者』と言われた俺が似ていると言われても今一つピンと来ないのだが……
家だけでも御祖父様や先代笹葉におミヤ、他所だと浅雀藩江戸家老の浦殿、そして幕府老中増平様……と俺と子供の頃の上様の双方を知る者達の多くが、良く似ていると声を揃えて居ると言うのだから、大間違いと言い切る事は出来ないのかもしれない。
そして何よりも母上はソレを諦めと共に受け入れているらしいというのが……我が事ながら極めて不安に成る事実である。
いや、まぁ俺自身、女性に興味が無い訳では無い……が、身体が出来上がって居ない事も有ってかその手の衝動は――瞳義姉上や千代女義姉上に対して、妙な感情が湧き上がった事も有るが、多分それらは何方も彼女達が持つ異能に依る物だろう――未だ無い。
前世でだって守りたいと思ってソレを守り続けて居た訳で無し、罠だと解っていても誤ちを犯してしまいたいと言う思いが無かったと言い切れば嘘に成る。
向こうとは違って此方では吉原や岡場所の様な見世で『致す』事が違法と言う訳でも無いし、無駄に入れ込まない程度に遊んで見ても良いのでは無かろうか?
「しーちゃん、本当に頼むから痴情の縺れで刃傷沙汰なんて恥ずかしい事には成らない様にね……、余程の大身の家でも無ければ側室なんか取れないですからね? それも複数とも成れば大大名だって難しいんだから、ましてや両手両足の指以上なんて絶対駄目よ!」
……幕府の頂点に君臨する者の大奥だとするならば、その数字は比較的少ないのではなかろうか?
そんな感想を懐きつつも、態々ソレを口に出す愚を冒す事は無く、俺は努めて神妙な表情で深く頷き、同意を示すのだった。
「話は纏まったよ、君の面倒は母上が見てくれる事に成った。同じような立場の子がもう一人居るから、仲良くやってくれ」
『忍者』としての拘りなのか、それとも『買われた者』としての拘りなのか、畳の間へと入ろうとせず板張りの廊下で正座して待っていたお忠にそんな言葉を投げかける。
「拙者は忍故、お気遣いは無用にお願い致します。為すべき忍務をお与え下さい」
……多分前者だとは思いたいが、自身に人の価値は無く忍として役に立つ為だけの存在と思い込む様な、後者の在り方が居付いている可能性も有るだろう。
「……君は今日から我が猪山藩の一員だ。猪山は小藩故、其処に属する者は皆家族。君も例外じゃない。身分やら役職やらで立場が違う事は当然有るが、ソレでも家族を使い捨てたり酷使する様な真似は猪山藩猪河家の流儀じゃ無い」
藩主の子だと言う事を差し引いたとしても、他所ならば俺の様な騒動屋で大人ぶった可愛気の無い子供の為に、家族家臣が一丸に成って骨を折る様な真似はきっとしないだろう。
何処かで勝手に力尽きれば多少の醜聞には成るかも知れないが、何時何処で巻き起こるかも解らない騒動に振り回され続けるより余程簡単だ、と考える者が居るのは決して可笑しな話ではない。
小藩とは言え、猪山の国元に住む約一万もの人々の人生を背負っている以上、負担が軽い方を選択するのは為政者として当然の選択で有る。
だが父上は……いや、俺が会った事の有る家臣を含めた猪山の者達は、誰が藩主だったとしてもソレを選ぶ事は無いだろう。
『武勇に優れし猪山の』は決して『独りでなんでも出来る者達』の集団では無い。
『己の小遣いは己で稼ぐ』と言う家法故に、自主自立を重んずる気風が有る事もまた事実では有るが、己の分を弁え必要であれば皆で合力して当る事も知っている。
派閥や権力争いが全く無いと言う事も無いのだろうが、少なくとも書庫に有った猪山の歴史を綴った書物にも、生き字引で有るおミヤからも、大きな内紛が有ったと言う話は聞いた覚えが無い。
猪山は『小藩故に藩士は皆家族』とは以前父上から直接言われた言葉で『士』と言っている以上は士分の者だけに該当する言葉かも知れないが、身分を云々するならばこの世界に縁も縁も無い蕾だって士分の娘とは言い難いし……多少の拡大解釈は許容範囲だろう。
それでも硬い表情のまま納得する様子の無いお忠に、重ねて何と言うかを思案するが……今一つ良い言葉が思い浮かばない。
「駄目よ、しーちゃん……。この子の為に銭を払ったと言う事実が有る以上、そんな上辺の言葉だけで簡単に心変わりなんて出来る訳無いでしょう? お忠……だったわね? 貴方の面倒は私が見てあげるから、私の言う事をちゃんと聞くのよ? 良いわね?」
……そんな俺の背に、呆れた様子で母上が有無を言わさぬ強い口調でそんな言葉を投げかけた。
「……はい、奥方様。それがご命令で有れば」
流石にソレは無いだろう、そう思った俺の考えに反して、お忠はさも安心した彼の様子でハッキリとそう返事を返したのだった。




