四百三 志七郎、忍を知り手を差し伸べる事
この江戸には奴隷と言う身分の者は居ない。
武士や公家と言った諸外国では所謂『貴族』と言われるだろう『士』
年貢こそ領主に収める物の、自身の財産として農地を持ち、その作付け等を自由にする事が出来る『農』
特定の技術に秀で、江戸どころか何処の藩に流れていっても一定の仕事が見込める『工』
それ以外の……日雇いなんかの口入れ仕事も含め極めて大枠な意味で『商売』で生計を立てる者達が『商』
と、一部の例外を除いて『士農工商』の何れかの身分に有るとされている。
そしてその例外とされる者達は人の世で生きる事が許されない様な『科人』だけだ。
人が人を所有する権利なんてものは、この火元国全てを見回しても認められて居ない。
だがそれは人権なんて先進的な思想に依るものでは無く、古い時代の『帝』が出した数少ない『勅令』に明記されている事柄で有るが故に、ソレを動かす事は例え上様にも出来ない事柄で有る。
とは言え経済的に困窮した事が原因で、身売りの様な真似をする者が居ない訳では無い……吉原や岡場所の遊女達の大半は、そう言った理由で親に売られた女性達だ。
その他にも、やはり借財の形に取られる様な形で、極めて劣悪な環境で働かされる、鉱夫や丁稚が居ない訳でも無い。
しかしそれらは飽く迄先払いされた給与分稼ぎ切るまで拘束されると言う建前が有り、生殺与奪の権利まで握られると訳では無く、身分が奪われる訳でも無い。
俺の感覚では少々違和感を覚えなくも無いが南方大陸では未だに残っていると言う『奴隷』の身分では無いのだそうだ。
……そんな江戸における身分制度を今、態々言及するのには当然理由が有る。
「御方々が拙者を買い取って下すった御主人様で御座いますな? 聞けば五十両もの御足を払ったとか……損をした、下手な買い物をした等とは言わせませぬ。必ずや良い買い物をしたとご満足させて見せます故、末永く宜しくお願い申し上げます」
桂殿に案内された鬼斬奉行所の一室で、平伏した子供がそんな言葉を俺達に投げ付けたからだ。
……十歳にも成れば商家へと丁稚奉公に出るなんて事は珍しい話では無い。
彼等は『買い取られた』とは違うが、給与が無く衣食住の保証のみで働かされる辺り、前世の感覚が残っている俺にとっては奴隷と何処が違うのか? と疑問が残る所なのだが、最悪辞めて実家へと戻る事が出来ない訳では無いので、やはり奴隷では無いのだろう。
「幕府御用忍で有る御庭番衆とその母体『厳十一忍』は禿河家の家臣で有り武士ですが、それ以外の数多有る忍衆は、陰陽寮の管理下に有れど組下と言う訳では有りやせん。その立場は農工商の何れかに成ります、通常は……」
そんな彼女の言葉に何と答えを返して良いものか、返答に困り黙り込んだ俺に、溜息を一つ付いた後笹葉がそう言い放つ。
忍術は戦闘よりも諜報の為に用いられる事が多い『術』で、幾ら術者とは言え完全に陰陽寮の指示命令系統の中に組み込む事には、方々から反対意見が続出するのだそうだ。
武家だろうと公家だろうと、隠したい……明るみに出れば其の家名を落とし威信に関わるだろう醜聞の一つや二つが全く無い訳が無い。
それ故に火元国中に点在する忍衆全てが陰陽寮の組下と成れば陰陽寮が力を持ちすぎる……集めた情報を盾に幕府の力を削ぐ様な事に成り兼ねない、そんな風に考える者が居るのも当然の帰結と言えるのではなかろうか。
直接顔を見合わせた事が有るからこそ、陰陽司の安倍様がそんな真似をする筈が無いと言い切れるが、彼の下に居る公家の全てが我欲に溺れ無いとまでは言い切れない、だからこそ忍術使い――忍者達は飽く迄も管理下で有って組下では無いのだ。
忍衆は名簿を陰陽寮に提出し構成員の所在を明らかにし、蜂起や一揆と勘違いされぬ様、冠婚葬祭等の催しに付いても必ず届け出るのだと言う。
そして武家との関わりに於いても地元忍衆を丸っと抱え込む様な事をすれば、やはり幕府や他家に睨まれる原因と成り兼ねず、個別の案件に付いて依頼したり、気に入った個人を召し抱える事は有れども、それ以上の親密は付き合いは有り得ないのだそうだ。
名字を持つ以上、彼女の父は恐らく個人的に何処かの公家か武家に仕えて居るか、若しくは幾つかの忍軍を取り纏める特別な地位に有ったのだろう。
本来で有れば彼女自身が次期頭領か、若しくはその妻として……何方にせよ胡女忍軍の跡目を次ぐ立場だった事は想像に難くない。
しかしその父は既に亡く、忍軍頭領の座にも別の誰かが既に座っている。
その死から二年程度しか経って居ないにも関わらず、解術の費用すら支払いを拒否した所を見れば、恐らく根津見家の財産と呼べる様な物も残っていないのだろう。
五十両と言う金額は組織の財政と言う視点で見れば端銭と言える範疇かも知れないが、個人……それも子供の目線で考えるならば人生を売り渡すには十分な額面と言えるかも知れ無い。
何せ火元国中で最も格式高い遊郭吉原に出入する女衒ですら、上玉と言って良い様な娘を買うのに二十両も出さないのだ。
しかもソレは落ちぶれたとは言え武家の娘の話で、地方の農家の娘を買ってきたなんて事になればその身代は精々三~五両程度だと言う。
ソレを考えれば、幾ら『術者』と言う特別な技能を持つとは言え、五十両と言う額面は破格の高値と言って良いかも知れない。
更に言えば彼女の実家と呼べる場所は既に無く、猪山藩でどんな扱いを受けようと逃げる場所は無い。
……忍術の性質上、逃げて逃げれないと言う事は無いのだろうが、借財の踏み倒しは立派な罪、逃げた所で真っ当な人の住む土地には二度と近づく事すら許されない立場と成る。
幾ら幼い子供とは言え、人の世の陰を見る『忍』としての修行は始めて居たのだろう、年齢に比して世の中を見る力を持っていた彼女は、自分が置かれた現実と言う物が理解出来た……出来てしまった。
それ故の台詞なのだろうが、子供が口にするには余りにも乾燥した……痛々しい物に聞こえたのだ。
「……顔を上げて、目をよく見せて」
置かれた厳しい立場を突き付ける様な笹葉の言葉にも全く反応を示さず、下座ったままぴくりとも動かぬ彼女に歩み寄りそんな言葉を投げかける。
この場に似つかわしくない子供の俺だが、大人で有る笹葉が丁寧な応対している事から主従関係がどう有るのかは伝わったのだろう、彼女は素直に顔を上げ真っ直ぐに此方を見みた。
その目には絶望や慟哭、諦めの様な物は見て取れず、怒りや復讐心らしき物も無く、ただ真っ直ぐに『生きる意志』のみが宿っている様に思える。
一番懸念していた物がその目に映って居ない事に安堵しつつ、改めてその容貌へと目をやった。
短く切り揃えられたその髪の毛は、火元人らしい緑成す黒髪では有るが、長い髪は女の命とまで言われる価値観が根強く残るこの国では、この髪型は極めて珍しいだろう。
その瞳は歳相応の愛らしさよりも力強さを秘め、何処か野生の獣を思わせる意志の強さを感じさせる。
整った顔立ちでは有るので、このまま長じれば美人に成るのは間違い無いだろうが……余程の事が無ければ男好きのする感じでは無く、一寸キツめの美女と言う言う風に成長するのではないだろうか?
とは言え、殆どボロ布に近い着物を纏い、全く化粧をしておらずともそう見えるのだから、正しく着飾れば今の段階でも本吉の同類ならば血迷う可能性は捨てきれない。
「うん……良い目をしてる……猪山藩猪河家の名に掛けて、無体な扱いはしないし、させない。今日から君は猪山の子だ。さぁ……帰ろう」
言いながら手を差し伸べる。
その目が曇る事無く正しくお日様に向かって真っ直ぐ伸びていく事を祈りながら。
……まぁ結局の所、蕾と一緒に母上に丸投げするしか無いんだけどね!




