三百九十九 志七郎、安堵し危惧に巻き込まれる事
「よくもまぁ、此処まで厄介な術式を組んだもんじゃ。コレを解術すると成ると一体どれほどの手間と時間が掛かる物か……」
呼ばれてやって来た聖歌の担い手だと言う巫女服を纏った老婆は子供の状態を備に見聞すると、眉間に皺を寄せ開口一番そう言い放つ。
この子に掛けられていた術は桂殿の見立て通り『遅延封印』だったのだが、通常のソレは術者の力量で多少効果時間が伸びる事は有るにせよ、ソレでも三分を超える事は無く、戦闘終了後にまでその効果が残る事は無い。
だが今回のはこの子供に対して掛かっている『術』を対象として『術』を重ねる事で、効果時間が流れる事自体を遅延させ、その結果として殆ど永続と言っても良い様な長時間術を発動させ続けているのだそうだ。
この手の『状態異常』の治癒は聖歌使いの得意とする所では有るが、此処まで念入りに重ね掛けされた術を解くには、掛かっている術を一つ一つ順番に切り崩していくしか方法が無いのだと言う。
外側から見える分だけでも二十もの呪符が貼られ、ソレらを縛り付けている注連縄も普通の物では無く『忌縄』と呼ばれる邪悪な手段でしか作る事の出来ない禁じられた呪具まで使われているのだそうだ。
「この婆が見立てた限りコレを完全に崩すにゃぁ四十四回は『解術』の聖歌を使わねば成らんの……無論施術には相応の御布施を頂く事に成っておる。『解術』の場合は被術者の『格』掛ける二百五十文じゃよ」
さも面倒臭いと言いたげな口ぶりでそう言い放つと、老婆は親指と人差指で輪を作りニヤリと笑った。
もし俺が解術の世話に成る事に成れば、格三十二の今だと八千文=二両が一回毎に支払わねば成らない訳だ……
この子の格が幾つかは解らないが、ソレでも四十四の施術とも成れば決して安い額では済まないだろう。
「もしかして……ソレ俺が払うんですか?」
この子が何処の誰かも解らない現状では、保護者に出してもらう事は出来ず、身元がはっきりしたとしても、ソレが裕福な家庭の子で無ければ請求した所で無い袖は振れない。
命の値段が前世の日本と比べて圧倒的に安いのだ。
とは言えソレは平成日本が特殊なだけで世界を見渡せば、人の命よりも金銭の方が圧倒的に重い場所の方が大半で有る。
「んー出た出た……えーと? 名は根津見 忠、格は十六。父親は甚八……確か多江八忍衆の……何処かは忘れたがその内の一派を束ねる頭領の名前じゃなかったか?」
銭の重さに打ち拉がれそうに成った俺にそんな救いの言葉を掛けたのは勿論桂殿だ。
彼が手にした水晶球は奉行所の備品で、世界樹の端末で有る鬼斬手形を翳す事で様々な情報を引き出す事が出来る、江戸の行政には無くては成らない道具の一つで有る。
手形が無ければ使えない物なのだとばかり思っていたが、どうやらそう言う訳でも無いらしく、慣れた手付きでソレを件の子供に向け、其処に表示された内容を読み上げていた。
格十六って事は解術一回一両だから最低でも四十四両……それなりに腕の立つ鬼斬者ならば出して出せない額では無いし、俺個人で出すとすれば即金は無理でも蔵の素材を幾つか売れば賄えなくも無い。
多江八忍衆と言うのがどれ程の規模を持つ組織かは知らないが、それでも名の知れた一団の頭領ならば、取りっぱぐれる心配は無さそうだ。
「コレが町人階級の子供だったなら、拾ってきた責任って事でお前さんに何とかしてもらう所だが、相手は相応の家格を持つ家だからな。この子の身柄は奉行所で預かって、先方には桂家から知らせを出して置くから安心しな」
俺はその言葉を受け、自身に面倒が降りかからなかった事に安堵の溜息を付く。
……だがソレが糠喜びに過ぎず、此処から地獄が始まると言う事を、今はまだ誰一人として気がついて居ないのだった。
「一寸、志ちゃん。貴方宛に請求書が届いているんだけれども、なぁに? コレ?」
あれから暫くが経ちそろそろ如月も半ばを回った頃だった。
四煌達の食事を調達し帰って来た俺を、引き攣った笑みを浮かべた母上がそんな言葉で呼び止めたのだ。
「請求書……ですか? 何か買うならきっちり現金払いで、ツケなんて真似はした事有りませんけれど……何処からです?」
その内容に心当たりが無かった俺は、小首を傾げながら問い返す。
無言のまま差し出された書面を見ればその差出人は勘定奉行と成っている。
色々と装飾過多な文面を何とか読み解けば、俺が出した損害を幕府が建て替えたので、早急にそれを返済しろ……と言う様な内容で、架空請求詐欺の葉書を受け取った彼の様な心境だ。
其処に記載されている額面は五十両、しかもこの文が我が家に届いた翌日から十日に一割の利子を付けるとすら書かれている。
コレは……幕府の名を騙る詐欺か、若しくは公的な手続きを利用した詐欺か……。
前世でも架空請求の通知はソレを無視するという一般的な対応方法を逆手に取って、無視される事を前提に訴訟手続きを行い結果として裁判所から公的に差し押さえを食らわせる、と言う詐欺の手口が有った。
恐らくはソレに類する様な手口で俺から――その額面を考えれば俺の様な小僧からでは無く、猪山藩から銭を引き出そうと言う魂胆だろう。
と成れば無視するのは当然悪手、取るべき対応は奉行所へと直接赴ききっちりと申開きをしてくれば良い。
「全く心当たりは無いのね? それでも幕府からの正式な書状ですから、捨て置いて良い話では無いわ。高々五十両ぽっちの話で面倒だとは思うけれども、明日にでも笹葉と確認に行ってきて頂戴」
思考の前提は違うのだろうが……結果として俺と同じ結論に至ったらしい母上は、面倒臭そうに溜息を吐きながらそう言った。
ちなみに今名前が上がった笹葉と言うのは我が藩の江戸家老だが、ぎっくり腰を悪化させ引退した父親の方では無く、俺が居ない間にその跡目を継いだ息子の方で有る。
晩婚だった上に中々子宝に恵まれなかったが故にお祖父様と同年代の先代に対して、当代は仁一郎兄上より一つ年下と、家老の重責を担うには少々若すぎる気もするが、先代が亡くなったと言う訳でも無いので何とかなるのだろう。
それに武に於いて先代程優れた技量は持ち合わせては居ない物の、比較的激高し易い父親とは違って、柔和な性格は他所との折衝に於いては父親以上の手腕に育つものと目されていた。
なお重度の猫好きで何時ぞやの蝙蝠猫の子猫を一匹引き取り己の乗騎として育て、更にその妻は元猫又女中の一人『おトラ』だったりする。
「本当に我が家はなんでこう……無駄な騒動にばかり恵まれるのかしらねぇ……」
諦め混じりの表情で遠くを見つめそう言い放つ母上、その様子から察するに俺が居なかった一年の間にも、数えるのが面倒に成る程に様々な騒動が有ったのだろう。
父上が江戸に居る間で有れば全ての責任は彼が負うのだが、国元へと戻ってしまった今、ソレらは仁一郎兄上と笹葉(息子)の双肩に掛かっている事になる。
しかしその二人共が今だ二十代を半ばも過ぎぬ若者で有る以上、彼等の後見を務めねば成らない母上への負担は決して軽い物では無い筈だ。
……にしても、五十両を『高々』『ぽっち』と言い切れる母上の金銭感覚は、幾ら桁の違う行政の世界に生きているとは言えぶっ飛び過ぎでは無かろうか?




