三十八 志七郎、喧嘩を見物し、怒りに怯える事
一合撃が交わされる度に金属が打ち合される甲高い音が空気を震わせる。
2度、3度と繰り返される度に音と衝撃はより強い物となり、その余波は衝撃波となり遠くから眺めている俺にもハッキリと感じられるほどだ。
以前に義二郎兄上が言っていたとおり、純粋なパワーでは礼子姉上が勝るようで、ぶつかり合う度に兄上のほうが大きく弾かれている。
それでもトータルで見て互角と見えるのは、弾かれることも織り込み済みであり、それすらも利用し次の動作へと繋げる予備動作としているためだろう。
「ああ! もう! いい加減、一発くらい殴らせなさい!」
見た目だけならば手弱女にしか見えない姉上も、武家の娘として恥ずかしくない程度には武芸の腕が必要である、と常々母上に言われている為こうして稽古に顔をだすのだが、誰かと打ち合っている姿は初めて見る。
しかもその様子には鬼気迫る物があり、普段のおっとりとした表情は何処へやら般若の形相で薙刀を振るっている。
「冗談ではござらぬ! いくら刃引きとは言えそれだけ氣を込れば下手をせずともあの世行きではござらぬか」
此方もいつもの飄々とした表情は無く、顔中から汗を吹き出しながら攻撃を捌いている、その様子は余裕の欠片も見られず、かなり一杯一杯に見える。
と、互角と見えた打ち合いだったが不意に均衡が崩れた。
姉上のパワーをいなし切れず、徐々に兄上の斬撃が遅れを取り始めたのだ。
そうして決定的に兄上の体勢が崩れた、その瞬間。
「もらったぁぁぁぁぁ!」
姉上が雄々しい叫びを上げながら必殺の氣が篭もった一撃を大上段から振り下ろす。
「なんのぉぉぉぉぉぉ!」
完全に仰け反ったその体勢からでは如何な兄上の打ち込み速度でも間に合わない、そう思ったのだが、なんと気合の叫びと共に殆ど予備動作無く身体が横へと大きく飛んだ。
パァン! っと何かが弾け飛ぶ音が聞こえた事で何をしたのかは理解できた。
兄上は脚力で飛んだのではなく先程俺がやらかしすっ飛んだのと同じ要領で、氣を放つその衝撃を利用して飛んだのだろう。
「うわっ!」
そんな二人の攻防に眼を奪われていた俺は、一瞬遅れてやって来た地震の様な振動にそう声を上げてしまった。
躱された姉上の一撃が大地を強かに打ち付け、その圧倒的な威力により地面が抉れ吹き飛んだのだ。
「さ、流石にそれはやり過ぎでござろう……、躱せなんだら往んでおったぞ……」
もはや稽古はもちろん兄妹喧嘩の範疇をも超えた攻撃に、青ざめた表情を浮かべ震える声でそう言うが、
「五月蝿い! 死ね、そのまま死ね!」
姉上は激昂冷めやらぬままそう叫び薙刀を振り回す。
間合いを詰めること無く繰り出だされた乱撃からは込められた氣が刃となり無数に撃ち出されたらしく、兄上だけでなく朝稽古に出ていた他の藩士達もが慌てて我が身に降りかかるそれを躱したり相殺する姿が見受けられた。
「志七郎様!」
十分に距離があるそう思っていたのだが、こちらにも見えざる氣の刃は飛んできたらしく、反応できなかった俺の眼の前に刀を抜いた鈴木が割り込んだ。
「殿も仁一郎様も居られぬ以上、これを止めるのは拙者の役目なのでしょうか……」
ため息一つ付きそう言う鈴木の顔は悲壮感に満ち溢れていたが、止めると決めれば後は早かった。
「「わぶっ!」」
どうやら兄上に劣ると言ってもそれは飽く迄も一対一の尋常な勝負での事であり、気を払っていない方向からの不意打ちには流石に二人共対応出来なかった。
鈴木は両の手それぞれから、十分に練り込み高まった氣の塊を撃ち出し、それは見事二人の顔面を捉えたのだ。
双方の勢いを止めるには十分ながらも、怪我をさせない加減の攻撃は見事の一言につきた。
そう感じたのは俺だけでは無かったようで、顔を抑え蹲る二人以外からは誰とともなく拍手が巻き起こっていた。
「お二人ともいい加減になさいませ! 嫡子ではないとは言え双方とも藩主の御子、皆の上に立ち示しを付けねばならぬ者が稽古の場を乱してどういたしますか!」
青筋立ててそう二人を叱る鈴木の様子は、決して親の七光りで地位を受け継いだ者には見えず、貫目が足りないと嘆いていた彼自身の評価が自虐に過ぎない物に見えた。
「バッカモーン! お主らが手加減抜きで暴れたらどうなると思っておる! 民の血税はお主らの癇癪の尻拭いの為にあるのではないわ!」
朝食の席は父上のそんな怒鳴り声で始まった。
罰として朝食抜き等という沙汰もあるのかと思えばそんなことも無く、ひと通りの説教が終わると二人は神妙な顔のまま己の膳に手を伸ばした。
これは、どうやら『己の欲しいものは己で稼いで手に入れろ』同様、家訓に則ったものらしく、我が藩には食事抜きと言う罰則は無いという。
空腹は何よりも人を悪に変える害悪であり、腹が膨れていれば早々悪いことはしない、と言う事らしい。
飽食の時代に有って尚悪人は決して絶えること無く、裕福な者ですらより多くの財貨を得るために悪を成す、そんな前世の世界を知る俺にとってはそれが的を射た事とはあまり思わなかったが、貧しいが故に罪を犯す事があるのも事実と知っている。
まぁ、その辺は末っ子である俺がどうこう言うべき事ではないだろう。
むしろ気になるのは、普段温厚な姉上がどうしてあそこまで荒ぶっていたか、というその理由の方だ。
「……どうせ断る縁談なのだ、そこまで怒らんでも良いでござろう」
……俺の表情を読んでと言う訳では無いだろうが、そんな呟きが兄上の口から漏れた。
「断るにしても、私の意思と断り方ってもんがあるでしょうが! アンタの所為で行き遅れたらどうしてくれるのよ!」
その呟きは姉上の耳にも届いていたようで、怒り心頭と言った体でそう叫ぶとともに手にした箸が投げ放たれる。
「おっと!」
兄上が身を縮めて身を躱すと、相応に氣が篭っていたのだろう、飛んでいった箸は壁に突き刺さった。
「仮にも兄に向かってアンタとは酷い言い草でござるな」
別に本人はなんと無しに言っている言葉なのだろうが、それは完全に煽り文句だろう……。
「アンタなんか、アンタで十分でしょう! この筋肉バカ!」
案の定、完全に頭に血を上らせ憤怒の表情で立ち上がる。
「ほー、その筋肉バカと互角、いやさそれ以上の怪力で打ち合える其方はなんでござろうな……、熊女?」
切り返す兄上のその様子は完全に子供のそれである、初陣がらみでは頼れる兄貴っぷりを見せて貰ったと、ただの脳筋馬鹿という評価から見直していたのにそれがどうだ……。
しかも、つい先程まで父上に説教を食らっていたかと思えばこれだ。
怒りにうち震える姉上に対して、嘲笑とも取れる笑みを浮かべながらそう言う姿は大人気ないを通り越して完全に子供のそれだ。
双方とも前世の基準で言うならば未だ高校生で子供の範疇だと言えるが、こと世界に置いては大人として扱われる年齢である。
詳しい事情も知らない自分が口を挟むのも角が立つと、黙っていたがコレはそろそろ割って入らねばならないか?
だが、それこそ父上や母上、もしは仁一郎兄上が言うべき事ではなかろうか、しかしその三人全てが、口を出す様子を見せないのは不自然である……。
そう思って様子を見ていたのだが声は意外な場所から上がった。
「飯位、静かに食えねぇか、この戯け者共めが」
我が藩の長老、猫耳老婆のおミヤが普段はシワの奥に隠れて見えないその目を剥いてそう言ったのだ。
決して大きな声では無い、だがそこに込められた迫力は双方を押し止めるには十分以上の物であり、殺気混じりの氣よりも恐ろしい何かが篭っている様にすら感じられた。
「「「「は、はい! 済みません!」」」」
二人以外の多くの場所からもそんな声が上がったのも無理は無い、と思いたい……。




