三百九十五 志七郎、後悔し思い悩む事
「さて……やる事先にちゃっちゃと終わらせないと……。真逆、完結したと思った作品が書籍化を機に連載再開とか……嬉しい誤算って奴だな」
雪振り荒ぶ北の大地に生きる武人達と、愛らしい動物へと転生した少女の不器用ながらも心温まる交流の物語。
可愛らしいモフモフと言う意味では、子供の頃の四煌戌達も決して負けては居なかったが、残念ながら既に過去形だ。
いや、まぁ今の彼等が決して可愛く無いと言う訳では無いが、牛馬程の大きさまで育ってしまえば『可愛い』の意味が大きく違う。
とは言っても、今日はもうそんな物語をじっくり読む事は出来ないのだが……。
電源インフラが無いこの江戸では、何時でも自由にノートパソコンに充電する事は出来ず、ソレをしようと思えば日の出ている時間帯に太陽電池付きケースを使うか、手回し発電機を只管回し続けるしか無い。
飯を食いに外へと出た時点で、残り電力は二割を切っていたのだから、充電しなければ良い所で電池切れ……なんて事にも成り兼ねない。
手回し発電機を回しながら読むと言うのも多分物語に集中出来なく成るだけなので、今日の所は諦めて明日のお日様に期待した方が良いだろう。
と成れば、今夜はさっさと寝てしまう……と言う訳にも行かない。
本当ならば晩飯前に済ませて置くべき事を放置したままで、長々と小説を読み耽ってしまったからだ。
今日やるべき事は今日の内に終わらせて置くべきだ、物事を先送りにして後手に回った結果、犯人が海外に高飛びしたなんて事に成れば責任問題どころの騒ぎでは無く、結局余計な労力を支払う破目に成る。
『明日やろうは馬鹿野郎』なんて言葉も何処かで聞いた事が有るし、やはり今日出来る事は今日の内に終わらせて置くべきだ。
それに日が落ちた後の暗い部屋でパソコンを使い続けて、目を悪くするのも出来れば避けたい。
此方の世界にも眼鏡は有るが安い物では無く、しかもその精度は極めて低い物だ。
幸いな事に前世も今生も、眼鏡が必要な程視力を落とした事は無いし、出来れば維持していきたい物で有る。
変装に伊達眼鏡や色眼鏡を掛けた事は有るが、どうも鼻が痛くなる感じがして苦手だったのだ。
氣を目に集めれば暗闇を見通す事も可能だが、身体が持つ力を無理矢理強化しているだけなので、使い過ぎると矢張目を悪くする原因に成るので、日が落ちたらさっさと寝てしまうのが最良だろう。
……ずっと掛けていれば慣れる物なのかもしれないが、そうならずに済むならばその方が良い筈だ。
「今日はもう仕様が無いとしても、あんまり夜更かしする癖は付けない様にしないとな。行灯の油も蝋燭も無料じゃ無いんだし」
ついでに言えば火の不始末で火事を出すのも怖い……今思えば懐中電灯の一つ位、自分用に貰ってきても良かったのではないかと一寸だけ後悔する。
『光』属性の魔法が自由に使える様に成ればそんな苦労も無いのだが、『火』+『風』+『土』の三属性複合のソレは、残念ながら今の俺にはまだ扱えない。
『火』属性の基本の一つに『灯火』と言う魔法も有るが、燃え種成しでその光を維持するには術者の集中が必須で有り、魔法の灯りを灯したままでは他の事は片手間程度にしか行え無いのだ。
故に尋常な灯りを用意する必要が有るのだが、
「……取り敢えず、部屋に戻る前に母屋に寄って行灯と油を分けて貰って来ないとな」
……まだソレを成し得る道具は俺の部屋には無かったのだった。
借りてきた灯明皿に火を入れて、昨日志学館で受け取った冊子を手に取る。
これは教科書の類では無くどの様な事柄を何年目で学ぶのかと言った教育課程を纏めた物だ。
志学館では試験に合格さえすれば必ずしも授業に出る必要は無く、寧ろ授業は教育に費用や労力を割く事が出来ない下級武士の為に有ると言っても良い。
石高一万石少々の我が家は大名家としては最下級では有るが、武家と言う括りで言うならば上から数えた方が早い家格で、少なくとも初年度に学ぶ内容くらいは自前で身に付けていて当然の範疇だと父上は言っていた。
実際この冊子を見る限り、初年度に学ぶのは読み書き算盤の基礎の基礎と言った感じで、確かに殊更力を入れて勉強しなければ成らない程の事では無い。
寧ろどれだけ前倒しで試験を受けるのかが問題で、試験に落ちたからと言って何らかの罰が待っている訳では無いが、余り落とし過ぎると『己の実力を弁える事も出来ない』と陰口を叩かれる原因に成り兼ねないらしい。
取り敢えず安全策で、初年度分だけ試験を受けると言う手も有りと言えば有りだが、ソレはソレで『脳筋』扱いされそうで嫌だ。
幸い書庫に有った教科書は以前一通り読んで居るので、ある程度の前倒しは可能な筈だが、卒業まで全て完璧だとまでは言い切れない。
まぁ……完全放置すれば家の恥とも成り兼ねない事柄なので、今の段階で俺自身が全て決めなければ成らないと言う訳でも無いが……。
「信三郎兄上が未だ居る内に相談しておけば良かったな」
後悔先に立たずとは言うが、どうも今夜は色々と悔いる事が立て続けに起こっている気がする。
今家に残っている仁一郎兄上だって、志学館は卒業済みなのだから相談相手に成らないと言う事は無い……素面ならば……。
兄上は翌日の馬比べに騎乗予定が無い限り、夕食後は只管酒を飲むのだ。
『練火業』と呼ばれる酒精を氣に変換する技術を修めている兄上にとっては酒を呑む事も、武士としての強さを得る為の修行なのだが、ぶっちゃけ彼はソレに託けて好きな酒をしこたま呑みたいだけだと思う。
事実、以前やらかした一件の罰として『禁美酒』を言い渡され、馬の小便とすら揶揄される激不味酒しか呑む事を許されなかった時期には、修行として必要最低限度以上の飲酒はしていなかった筈だ。
呑みすぎると『先祖返り』を起こす体質なので、理性が吹っ飛ぶ程呑む事は無いし、絡み酒と言う訳でも無いが、酔っ払いの相手をするのは色々と面倒臭いのも間違い無い。
「……今回の所は初年度の範囲だけにしておいて、近いうちにまた申請書を出せば良いか」
そもそも昨日の今日で全部完璧に決めろと言う方が土台無理な話なのだ。
尤も提出期限が切られている訳ではないので、必ずしも明日出す必要も無いのでは有るが……。
決めてしまえば後は早い、と言うか試験を受ける科目に印をつけるだけなんだから、大した手間でも無い。
うん、これで良し。
後は近いうちにりーちやぴんふに相談しよう。
その時一緒にりーちが作っていると言う『氣孔銃』の開発に資金なり素材なりの援助を申し出てみるのも良いかも知れない。
界渡りの最中に手に入れた色々な素材の中には、此方の世界では中々手に入らない様な物も有るし……無料で供出すると言えばきっと反発するだろうが、相応の貸しと言う事にすれば受け取らないと言う事は無いと思う。
将来は商人に成ると公言している辺り、りーちは個人の武勇や誇りより、損得勘定に付いてはかなり渋い感覚の持ち主だ。
一時の恥を飲み込んで、長期的な利益を得る度量は有る。
……問題は手に入れた素材の多くが、今の俺ではその価値をはっきりと理解していない事だろう。
「相談する時は智香子姉上や、沙蘭辺りも巻き込んだ方が良いんだろうな……ふぁぁぁ……ん、寝るかぁ」
今夜決めるべき事は決まったと、そう思った瞬間氣が抜けたのだろう、思わず欠伸が漏れる。
灯火を吹き消し、向こうから持ってきた歯ブラシを手に取ると、寝支度の為に部屋を出るのだった。




