三百九十三 志七郎、家族見送り不味を拵える事
「皆、忘れ物は無いな? 元々大した物を持ってきて居らぬ若い衆は兎も角、信三郎や礼子は今一度荷物を確認して置くのじゃ、国元へ戻れば簡単に取りに戻る事は出来ぬ故な」
皆で揃って口にする最後の朝食を終えると、国元へと戻る者達がそれぞれの荷物を抱えて前庭へと集まっていた。
今回の帰国に同行するのは何時もと同じく家臣の約半分、そして元服の儀式を受ける信三郎兄上と、嫁入りする前に一度一郎翁の妻……即ち姑に挨拶をしたいと言う礼子姉上だ。
「霊薬……良し、予備の矢……良し、釣り具……良し、律令書八冊……全部間違い無し。麻呂の準備に間違いは無いでおじゃ」
信三郎兄上は父上の言葉通り一旦背負った荷物を下ろし、その中身を指差し確認してからそう言った。
「向こうで義母様にお目見えする時に着る着物は積んだし、お土産のお漬物に……向こうで育てるお野菜の種も良し……。あ、鍬は積んだけれども、薙刀ももしかしたら道中で使うかもしれないわね」
その身一つと言えば言い過ぎでは有るが、それでも自分で身に着ける範疇の荷物に収まっている男衆に対して、女性らしく礼子姉上の荷物は相応の量が有りソレを担ぐ為に態々専用の荷担ぎ人夫まで用意されている。
他所の娘で有ればその身を運ぶ為に輿も用意される物なのだが、自力で歩くつもりで居る辺りやはり彼女も猪山の娘なのだろう。
もっとも普段通りに野良着を身に纏っている辺り、大名の娘と言う意識が薄いだけかも知れないが……。
「もう……貴女の祝言に関わる品なのだから、礼子自身で把握しておかなくてどうするのですか。此度の帰国ですぐ祝言を上げる訳では無いとは言え、此等荷物の一部は貴女の嫁入り道具なのですよ……」
国元へ持っていく農具ばかりを気にかけて居る礼子姉上に、母上は頭痛を堪える様に眉間を抑え呆れた様な溜息を吐く。
相手が家臣家とは言え仮にも大名家の娘が嫁ぐのだ。
婚家への贈り物をケチる様な真似をすれば、内外に舐められる要因とも成りかねず、今回の帰国で祝言を上げる訳では無いにせよ、それなりに気張った荷物が用意されている。
ちなみに色んな所から俺宛に贈られた装飾品の内、比較的高価で有りながらぶっちゃけ邪魔でしか無い幾つかを俺からの祝の品として横流ししたので、ソレらも今回の荷物に含まれている筈だ。
「んー、農具と畑と旦那様さえ居れば、何処でもやっていける自信が有るから、そんなに仰々しい嫁入り道具は必要無いと思うんですけれど……」
口元に人差し指を当て、少し拗ねた様な表情でそう言いながら向ける視線の先には、今回持っていくのは諦めたらしい幾つかの苗箱が有る。
いや……苗箱って一つで八貫は有る、そんな物を他人に大量に持たせて過酷な山道を歩かせるのは拷問以外の何物でも無い。
出発の時は兎も角、国入りする時には大名の娘として恥ずかしく無い格好をしなければ成らない事を考えれば、ソレらを自分で担いでいく訳にも行かないのだから、そんな糞重たい物を雇った人足に背負わせる訳にも行かず、今回は諦めざるを得なかったのだ。
「どんな作物でも、その土地に有った物で無ければ良い物は育たないでしょ。国元の環境を知り貴方自身が慣れるのが先決でしょうに……この農筋娘を嫁に出して本当に良いのかしら……」
言っても聞かない礼子姉上の農業最優先主義っぷりに、母上は色々と諦めた様子で頭を振って深い深い溜息を吐くのだった。
父上や家臣達それに兄弟の約半数が家を出た事で、大分寂しく成った室内でかけ蕎麦を啜る。
「……うん、二十点って所かな?」
ぼそぼそとした舌触りの決して美味しいとは言い難いソレに、思わず辛い点が口を付く。
「流石に初めてで美味しく出来る筈がねーのにゃ。とは言えやってみなけりゃ上手く成る訳もにゃーし……コレから練習していけばその内ちゃんと出来る様に成るにゃ……うん、不味い!」
安倍家からの贈り物だった蕎麦打ちセットは俺の部屋に置いたままだが、屋敷の台所にも似たような道具があったので、今日の昼飯は食べる人数が少ない事も有って丁度よいと考え、睦姉上に教わりながら俺が蕎麦を打って見たのだ。
その結果は見るも無残な出来栄えで、正直前世に偶に食べていた安い乾麺の方が余程マシと言えるレベルだった。
ちなみに食べ方は所謂掛け蕎麦で、汁は睦姉上謹製なので麺の出来は酷い物で有りながら、トータルで見れば決して食えないとは言えないレベルに仕上がってるのが不思議な程で有る。
多分これを盛りとか笊で食えと言われても、まぁ無理だろう。
それでもまぁ手順や材料は理解出来たので、今後は自室で練習するのも良いだろう。
「……お蕎麦も良いけれど、どんな楽器を練習するのかも早めに決めないとね。私達が教えれる物なら何時でも良いけれど、物に依っては他所から先生を招かないと行けないしねぇ」
そんな出来の悪い蕎麦を文句一つ言わず食べてくれた母上は、箸に慣れていない蕾の面倒を見ながらそんな言葉を口にする。
「オ……ワダスも、馬頭琴なら教えラれるダァ~世」
『選文妖語』の術が解除され、火元語に慣れる努力中の蕾が片言ながら一生懸命な様子でそう言い放てば
「儂もギターとベース、ドラムにサックス辺りなら教えてやれるぜ? 昔、仲間連中とバンドの真似事をした事も有るしな」
沙蘭も追従するが、残念ながらそれらの楽器は俺の所には無い。
まぁ世界を探せば類似品は有るのだろうが、少なくともそれを取り寄せてから練習を始めるのでは少々遅いだろう。
「楽器の手習いと言う事でしたら、ピアノやオルガン、チェンバロ辺りなら儂でもお教え出来ますぞ……とこんな事なら、一台位持ってくれば宜しかったですな」
領主と言う立場上それなりの教養を持っている吉八さんは、鍵盤楽器が得意な様だが矢張その手の物は我が家には無い。
……『リコーダー』か『鍵盤ハーモニカ』辺りを買ってくれば良かった、と少しだけ後悔する。
小学生時代に授業で習ったし、最低限の演奏が出来る程度なら然程苦労しなかった筈だ。
ちなみに母上は武芸以外だと『琴』と『三味線』『茶道』と『華道』、その他賭博全般に付いては大藩の指南役を務められる腕前だと言う。
賭博関連を取り敢えず置いておけば、大藩出身の女性としては本当に最低限度の教養でしか無いと言うのは本人の弁では有るが……まぁ、それとて色々とぶっ飛んでいる我が家の基準での話だろう。
「取り敢えず、色々な所から色々な楽器を頂いてるし……一通り触って見て良さげな物を選ぶよ、あとは能……いや猿楽か、ソレも習わないと行けないんだよなぁ……最低限の教養って意味では」
武士にとって『舞』は『武』に通ずる物として、折々の儀式で舞う事が半ば義務付けられて居る。
流石に誰でも指南出来ると言う訳でも無く、やはり相応の実力者に習う必要が有るのだが、それだけ裾野の広い技術で有る以上、我が藩にも指導者が居ない訳でも無い。
「笹葉が引退して無ければ良かったんだけれどもねぇ……。当代は先代程、舞の才能は無いのよねぇ。武は相応なのに本当に残念よねぇ」
引退した江戸家老の役職自体は息子が跡目を継いだのだが、純粋に個人の才覚に依る所で有る『芸事』に付いては、残念ながら指南役を引き継げる程の腕前は無いらしい。
「腰が駄目なら舞は無理……だよなぁ。朝稽古も辛い位にはぎっくり腰が悪化してるらしいし……」
近いうちに智香子姉上に頼んで湿布でも差し入れよう、そんな事を考えながら未だ丼に残る不味い蕎麦を啜るのだった。




