三百九十 志七郎、新たな既知を得旧交を心配する事
時間にすればほんの一瞬に過ぎない立ち会いであっても、圧倒的な強者に立ち向かうのは精神的にも肉体的にも大きな負担となる。
それ故、今俺は道場の端に座り込み休憩しながら皆の稽古を眺めていたのだが、
「流石は噂に名高い鬼斬童子、中々の使い手だな。拙者は小普請釥家嫡男、釥丸臣だ。その内機会が有ったら手合わせしてくれや」
手ぬぐいで汗を拭いながら、そんな言葉を掛けて来た者が居た。
それは先程、獲物を見る様な獣の視線を俺に投げかけていた内の一人だ。
身の丈は五尺三寸程で、よく鍛えられている事が着物の上からでも解る張り詰めた筋肉質の身体の体育会系な雰囲気を全身から放つ少年では有るが、丁寧に結われた本多髷からは身嗜みにも気を払っている事が見て取れる。
小普請というのは俸禄三千石以下の直臣家を指す言葉で、『勘定』なり『奉行』『同心』やらと言った役職を名乗らない辺り、釥家と言うのが旗本家では無く『無益無勤』の御家人だと想像が付く。
その階級の御家人は緊急時の戦力として身分を保証されて居り、無益無勤と言う言葉の通り何事も無ければ働かなくても、家格に定められた俸禄が与えられるのだがその額面は決して多くは無い。
しかも武士で有りながら馬や扉の付いた駕籠に乗る事も許されていないと言う、主君の居ない浪人者を除けば武家としては最下級の待遇だ。
その俸禄は『同心』と言う役職に付いていても三十俵二人扶持程度で、無益無勤となればその年収は三両一人扶持と、ソレだけで生計を立てるのはほぼ不可能な数字で有る。
けれどもぱっと見る限りでは、身嗜みも確りしているしその身体も栄養不足で作れる程軟弱な物には見えない。
武士で有る以上表立っての副業は禁止されている、半ば形骸化した法度とは言え表沙汰に成れば家名を傷付ける事は間違い無い。
同心程度でも役職持ちで有れば、随所から付届や賂の類が少なからず集まるので、額面以上の生活も出来るだろうが、無役の家ではそれすら儘ならないのだが、其処で出て来るのはこの世界特有の収入源『鬼斬り』で有る。
武人として己の強さを高める為、鬼や妖怪の被害から民草を守る為……等など様々な建前の下、その面子を傷付ける事無く大々的に稼ぐ大事な手段なのだ。
それ故、小普請組の子弟は幕府や大名家からの斡旋が無い限り、鬼斬りに精を出すのだと言う。
多くは生活を楽にする程度に稼げれば良しと言う程度で収まるのだそうだが、中には義二郎兄上程とは言わずとも、家格に見合わぬ実力を発揮する者が出る事が有り、釥殿もまた加護持ちでこそ無い物の齢十二歳にして格四十に至る実力が有るらしい。
稽古でも上がりはするが、やはり実戦経験を積み上げる方が圧倒手に速く上がるのだが、高く成ればなる程上がり辛くも成るので、その数字は『鍛錬』や『努力』そして『経験』の裏付けとしては間違いは無い。
ちなみに今の俺の格は彼より低く三十二。
義二郎兄上と清吾義兄上の戦いで格の差がそのまま実力の差では無い事は知っているが、それでもやはり甘く見て良い差では無い。
とは言え、その目を見れば名声や政争といった下心は無く、純粋に強い奴と手合わせしたいという闘志のみが見て取れた。
「ええ、近い内に機会が有りましたら」
義二郎兄上と同じ戦闘狂の気質が有るのは間違い無さそうだが、勝っても負けても余計な後腐れは無さそうなので、互いの更なる研鑽の為に手合わせすると言うので有れば、ソレを厭う必要も無いだろう。
むしろ問題はこうして二人列んで言葉を交わしている様子を遠巻きに見ている連中だ。
館長の立ち会いを詳細に見切る事も出来ず、俺の実力を測りかねた者達が探る様な目で此方を伺っているのである。
何処の世界にも実力が無い癖に口だけは一丁前の輩と言うのは居るもので、勝っても負けても彼等に余計な話題を提供する破目に成りかね無い様に思えたのだ。
「よっ、丸ちゃんに七、隣良いかい? いやー、流石先輩方はそう簡単に勝たせてくれないねぇ。折角の追い出し稽古だってのに、結局一本も取れなかったわ……」
手にした木鍬を肩に担ぎ吹き出した汗を拭い、そう言いながら此方へとやって来たのは従兄のぴんふで有る。
「おう、野火の、お疲れさん。そう言や、お前さん鬼斬童子と一緒に鬼斬小僧連なんて呼ばれてたっけかな。態々牽制しに来なくたって、今日この場で闘る様な真似はしねぇよ。そんな事すりゃ先輩方の面子をぶっ潰すなんて事ぁ幾ら拙者でも理解してるわ」
片手を上げて気安い様子で言葉を返す釥殿、聞けばぴんふと釥殿は双方共に十二歳の、同期生なのだと言う。
「……詳しい事は聞いてなかったけど、どうりで一部の人がずっと闘い続けてる訳だ。ソレに今日来たばかりの俺が混ざるのは不適切だわな」
二人の言葉を聞いて態々館長が出張って俺と立ち会った理由の一つが理解出来た。
追い出し稽古は、後輩は先輩に『俺達は此程強くなりました』と言い、先輩は『俺を乗り越えてみせろ』と言う、最後に交わす無言の対話で有る。
その道場に依って多少の差異は有るにせよ、概ね共通しているのは卒業生が後輩全員を相手にするまで休む事無く闘い続けると言う点ではないだろうか。
とは言え千人を超える道場生が居る練武館で、後輩全員を相手にすると言うのは流石に不可能で、卒業生が力尽きるか百人抜きを達成するまで闘うと言うのが取決めらしい。
「いや、七が挑むべき相手も居るだろ? ほら、あっちの射撃場、信兄さんも今年で元服だし……」
座り込んだぴんふが指し示した先では、クレー射撃の様に飛び出してくる的を弓で撃ち落とす信三郎兄上と、狙撃銃で撃ち落とすりーちの姿が有った。
どうやら打ち出された的を順番に撃ち落とし、先に外した方が負けと言うルールらしい。
……ん? 何か奇怪しいぞ?
兄上の弓は兎も角、なんでりーちの撃ってる銃声が聞こえないんだ?
多少離れた場所とは言え、間に音を遮る物等無いのだから発砲すればソレ気にづかぬ筈が無いのだ。
それにりーちの狙撃銃は後装式で俺の知っている物に近い構造だった筈だが、今は銃口から装填する前装式銃を使っている様に見える。
消音器でも使っているのかとも思ったが、俺の記憶が確かならば前装式と消音器の相性は決して良い物では無かった筈だ。
宙を舞う的を外す事無く撃ち落とし続ける二人、彼等の腕前を知る俺からすればりーちが外す事は考え辛く、信三郎兄上が撃ち落とし損ねる事で決着すると思っていたのだが、俺の予想はあっさり裏切られた。
硬い物が砕ける甲高い音と共に、銃身が弾け白い氣の輝きが辺りを染め上げたのだ。
「「りーち!?」」
それを目の当たりにした俺とぴんふは思わずその名を叫びながら射撃場へと駆け出していく。
俺の懐には此方に帰ってきてから智香子姉上が補充してくれた霊薬が入った印籠が有る、即死さえして居なければ助けに成る筈だ。
弾け飛んだ破片で怪我をした者は他にも居るかも知れないが、爆心地に居るりーち以上に危険な状態に陥ってる者は居ないだろう。
いやそんなのは後付の建前だろう、他の見知らぬ誰かよりも付き合いの深い者を心配するのは人間として当然の感情だ。
勿論、信三郎兄上を心配しない訳では無いが、危険の度合い的にりーちの方が優先度が高いと言うだけの事。
「いやー、やっぱり試作品では強度が低すぎですねぇ……。とは言え、軟な作りで助かったのも事実かな? もう一寸硬けりゃ大怪我してましたよ」
慌てて駆けつけた俺達が見たのは……怪我一つ負う事は無かった物の、煤汚れに塗れ髷が弾け飛びパーマを掛けた様な頭に成ったりーちの姿だった。




