三百八十九 志七郎、悪意に晒され無謀を強要される事
畏怖、嫉妬、敵意、侮蔑、憐憫……巨大な道場に居並ぶ子供達から向けられる友好的とは言い難い視線の数々。
対して極めて少数ながら憧憬ないしは感服とも取れる、明らかに自分よりも優れた存在を見る目を向ける者も居る。
更に少数派なのは獲物を狙う野獣の目を向けている者だが、ソレは強者と戦う事に喜びを見出す戦闘狂の類か、若しくは俺を倒す事で俺の纏う『名声』をそっくりそのまま奪いたいと言った所だろう。
それら全てに共通しているのは、噂や武名が先に立ち『俺』では無く『猪山の怪物』『猪山の鬼斬童子』と言う『偶像』だけを見ている事である。
「……と言う訳で、無事に江戸へと帰還した英傑を我が双館へと迎え入れる事と相成った。音に聞こえし猪山の鬼斬童子だ。一武人として挑むも良し、武家の子弟として親交を結ぶも良し。されど互いの家名を傷付ける様な真似はするんじゃねぇぞ」
両館長が然程長くは無い新年の挨拶を終えると、続いて安藤先生が俺に壇上へと登る様促し、そんな言葉で紹介したのだ。
そうして向けられた視線の数々……正直な所決して愉快な物とは言えないが、ソレだけで激発する程子供では無い。
と言うか、寧ろ安藤先生は彼等を煽っている節すら感じられる物言いだった。
いや実際煽っているのだろう。
だがそれは『互いの家名』と態々明言する事で、不意打ちやら闇討ちやらを仕掛けてでも『俺を倒した』と言う結果だけを得ようとする輩を牽制したとも取る事が出来る発言でもあった。
今この場に居るのは、必ずしも嫡男では無いとは言え皆幕府直臣の子弟。
幾ら武名を得る為だとしても自家の対面を汚す様な真似をすれば、折檻では済まず身内に粛清される事すら有り得るのが武家という物だ。
だからと言って他所の家名を傷付ければ下手をすれば戦争が、ソレを回避しようと思えば主犯の首を持って謝罪に向かう位の事をしなければ成らない事も有り得る。
それ故に安藤先生はやるならば『正々堂々』と『後腐れを残さぬ様に』闘れ、と言外に言っているのだ。
「御紹介に預かりました、猪山藩主猪河四十郎が七子、猪河志七郎です。数奇な巡り合わせの結果、同年代の中では多くの修羅場を潜ってきたとの自負は有ります。故に正々堂々の勝負で有ればソレを厭うつもりは有りません」
先生の言葉を受け、俺は敢えて全身に纏う氣を押込めず寧ろ高めたソレを解き放ち、可能な限りの威圧感を演出し、挑発とも取れるであろう言葉を口にする。
……実戦経験の無い同期の子供達からは、これで恐れられるのは間違い無いだろうが、少なくとも余計な争い事で殺伐とした子供時代を過ごすよりは幾らかマシだろう。
一度瞳を閉じ、暫し貯めた後……
「俺は……いつ何時、誰の挑戦でも受ける。命がけで勝負します。誰でもかかって来い!その代わり……手前ぇも覚悟して来い!」
前世に見た、俺の知る中で最も有名で強い男の言葉を口にした。
氣を練り込んだ威嚇の声に、大多数の者達が尻込みし、極少数が好戦的な笑みを深める。
「よぅ吼えた若造……いや武士よ。なればその腕前、皆の前で披露してもらおうかの……其処らの雑魚では、御主の実力を見せ付ける事は出来ぬであろう。故に儂自ら相手をしてやろう……真逆、たった今吐いた唾を飲むような事はせぬよな?」
そんな俺の台詞に誰よりも早くそんな反応を返したのは、小山内館長その人だった。
「なぁに……手加減は要らんぞ、全力で掛かって来ると良い。ほれ道場を開けよ、巻き込まれたくなければ、疾くの……」
獲物を前に舌舐めずりをする猛獣の様な表情で館長がそう言うと、居並ぶ門下生たちは悲鳴を上げながら、我先にと道場から飛び出して行ったのだった。
生徒達は勿論、教師や師範すら逃げ去り伽藍堂と化した道場で、俺は投げ渡された木刀を八相に構え館長と相対する。
お祖父様や一郎翁程に若々しさを保っては居らず、相応に老いを感じさせはする物の、義二郎兄上より更に大きな六尺半程の筋骨隆々の体躯を誇るその体は、未だ衰えと言う言葉は無縁に見えた。
右手で木刀を持ち無造作に肩へと担ぎ上げ、左手は掌を開いたまま真っ直ぐ俺へと向けている。
見覚えの無い、不思議な構え……パッと見る限り、その突き出した左腕は切ってくれと言わんばかりに見えるが、ソレはどう考えても誘いの隙だろう。
今の所、双方共に踏み切らずに打ち込める間合いの外に居るのは間違い無いが、体格差が有る以上、先に優位に立つのは間違い無く相手の方だ。
手加減無用と言われたのだから、蹴り足に氣を乗せて踏み切れば、その間合いを潰す事は可能だがソレは相手も同じ事。
結局の所、剣と剣の戦いは間合いを制する者が勝負を制するのだ。
じりじりとすり足で一足一刀の間合いとなる様位置を調整するが……正直、どう仕掛けても一刀両断にされる未来しか浮かばない。
……此方に戻って来る直前に手合わせした前世の曾祖父さんよりも強いのは間違い無さそうだ。
と言うか、曾祖父さんは俺より上手では有ったが勝ち目が無いとまでは言えず、十本やれば一、二本は取れたと思う。
しかし此方は正直な所、その強さの天井が全く見えず、挑むこと事体が間違いなのではないかと思わざるを得ない。
「……どうした、怖気づいたか? 勝てぬまでも意地くらいは見せろや。殺さぬ程度にゃぁ手加減してやるからよ」
遠巻きに見守る者達には聞こえぬ様気を使ってか、囁く様な声でそう言った。
……実力差が有るのは理解出来るがソレがどれ程の物か解らぬレベルで有る以上、牽制だなんだと余計な事は考えるだけ無駄だろう。
「ちぇすとぉぉぉおおお!」
腹を括る為小さく一つ息を吐き、可能な限りの速さで突き出された左腕を掻い潜って踏み込むと、唯無心で振り下ろす。
雲耀と呼ぶには些か足りない自覚は有るが、今の俺に繰り出せる最速の一太刀。
当然、手加減なんて思い上がった事をする余裕は無い、体格差が有る故に頭を打つのは難しく、脇腹辺りを狙って袈裟懸けに振り抜いた……が、当然ながら手応えは無い。
半歩にも満たない、微かな身のこなしで触れるか触れないかのギリギリを見切って俺の一撃を躱したのだ。
とは言えこの程度は折込済み、即座に左から右へと水平に胴を薙ぐ。
続け様の二撃目は十分な踏み込みを以て繰り出され、コレを避けるには大きく動かざるを得ず、しかも相手の構えの都合上、刀で受けるのも難しい筈の一撃で有る。
けれどもソレすらもきっちり木刀一本分後ろへと下がる事で綺麗に身を躱す……が、この位の一撃を貰ってくれるならば、一郎翁と比するとまでは言えないだろう。
故に俺は薙ぎ払う切っ先を振り抜かず、途中で止めそのまま腹を突く……そして此処で勝負は付いた。
俺の勝ちでは無い、俺の突きが突き刺さるよりも速く、館長の木刀が俺の眼前に振り下ろされていたのだ。
「……参りました」
氣の運用をある程度以上、それこそ意識加速が可能な練度に至って居る者ならば、今のやり取りも見切る事が出来ただろうが、其処までの修練を積んでいない者には相打ちに見えたかも知れない。
だが此処で負けを認めないのは恥以外の何物でも無い。
「ふむ、まだまだ動きに無駄が多いな。技を繰り出すのに、踏み込み、捻り、振り下ろすと態々別々の工程を踏んで居る様じゃぁな。全てを一で打ち出す様に成らねば一定以上の相手には届かぬわ」
さらっと出て来る極まった世界の話……どうやら此方の世界では曾祖父さんが人生の全てを費やし至った秘奥の世界は、ある種のスタート地点とでも言うべき場所らしい。
「だが……その歳で其処まで技が出来てんなら、後は功夫を積み上げりゃ……そのうち至るだろ。精々精進して……儂が生きてる内に一太刀馳走してくれや」
言いながら遠巻きに見守る者達へと向き直る小山内館長は、一先ず満足したと言わんばかりの笑みを浮かべて、俺以外の者達に聞かせる様に声高にそう言い放つのだった。




