三百八十八 志七郎、師と出会い気苦労を労う事
「あー、先ず君に言っとかねぇと成らんのは……此処に通う者の大半武家の子とは言え普通の子供だ。変人梁山泊とまで揶揄される猪山の基準や常識を他所の子に押し付けるんじゃねぇぞ……最悪人死が出るからな……」
これ以上無い程に濃ゆい両館長と父上は、別途話が有るからと別の部屋へと移動し、その場に残された俺にそんな言葉を掛けたのは、同期達の担任に当る教師で『安藤 昼摩』と言う人物だった。
極めて灰汁の強い両館長と比べるのは相手が悪すぎるのだろうが、それを差し引いても印象に残り辛い何処にでも居そうな中年男性、恐らくは前世の俺と同年代……三十代半ばと言った年頃だろう。
第一印象は、書籍化作品ならばきっと挿絵にも口絵にも描かれる事の無い、『その他』とか『端役』とか『モブ』等など……その手の言葉しか浮かばない人物で有る。
しかしソレは普通の目線で見た時の話……俺の中に残っている三十路半ばの刑事としての経験は、彼が只者では無いと告げていた。
実際、帯刀している俺に対して、刀掛けに置いたまま丸腰の先生は、僅かに間合いを外しそれ以上に踏み込もうとしない。
それは俺がどうこうする事を想定していると言うより『床下からの不意打ちを避ける為、畳の縁は踏まない』と言う作法と同じ様に、武士として当たり前の立ち振舞いの内なのだろう。
けれども俺が踏み切らずに抜刀してギリギリ届かない位置まで近づいているのを見れば、此方の間合いを見切っていると言う事実は理解出来る。
「館長達の言う事ぁ話半分で頼まぁ……。幾ら神職が居るっつっても流石に限界は有るからな。向こう見ずな馬鹿ガキが突っ掛かって来ても、余程じゃねぇ限り堪えてくれや……」
月代を剃らず無造作に纏めただけの総髪の髷下をボリボリと掻きそう言いながら、さも面倒臭そうに深い深い溜息を吐く。
曰く、未だ初陣すら済ませて居ない同期の子供達や、其れなりに物が見える様に成っている元服間近の者達は良いとして、中途半端に自身の能力に自信を持ってしまっている様な三~四つ上位の連中が危ないのだそうだ。
とは言え、俺に前途の有る若者の未来を潰して廻る様な趣味が有る訳でも無く、彼の言葉を拒否する理由は無い。
「少なくとも『家名』云々の揉め事にさえ成らなければ、此方から手出しはしませんよ」
だがそれでも譲れないラインという物は有る。
幾ら俺が気にせずスルーし続けたとしても、ソレが理由で『猪山藩猪河家』が舐められる様な事が有っては成らないのだ。
唯でさえ我が家は一万石少々と大名家としては最下層で有りながら、武名や実際の経済状況はその範疇に無く、色々と妬みや嫉みを買い易いのだ。
幾ら幕府が強い権力を握っているとは言っても、現将軍様の治世に限ったとしても頻度こそ高くは無いが大名家同士の合戦が全く無い訳では無い。
舐められる事で猪山の経済基盤を奪いたいと思う者が出てこないとは限らず、そうでなくても政治的に敵対している家が余計なちょっかいを掛けて来る可能性は決して零では無いのだ。
そうなったからと簡単に負ける様な家では無いだろうが、敵味方双方被害無しと言う事は有り得ない。
と成れば、喧嘩を売ってきた本人を適度に叩きのめす程度は、許容範囲では無いだろうか?
「全く闘るなとまでは言わねぇが……本当に頼むぜ? 間違っても鬼二郎みたいに片っ端から再起不能……なんて真似はしてくれるなよ? 身体の怪我は術で癒せても、心が圧し折られちまえばどうする事ぁ出来ねぇからなぁ」
改めて苦悩に満ちた溜息を吐きそう言う安藤先生の姿に、義二郎兄上は一体どれ程若者の将来を摘み取ったのか……ソレを思い俺は『自重』と言う言葉の重要性を噛みしめるのだった。
流石に『名物先生』とでも言うべき者が何人も居れば、胃がもたれるだろうな……。
そんな俺の思いに答えたと言う訳でも無いだろうが、その後会った方々は皆相応の実力者では有る物の、特に印象深いと言える程の者は居なかった。
敢えてそうした人物を此処に配属して居ないのか、それともまた何か別の理由が有るのかは解らないが、少なくとも前世に見た某炭酸飲料の広告の様な濃ゆい先生は揃って居ないらしい。
それにしてもコレだけ自己主張の薄い人達ばかりで、良くもまぁ見栄と面子に凝り固まった武家の子弟を指導出来るものだ。
子供というのは、例え幼い頃合いだとしても大人をよく見ており、『信頼』『尊敬』に値しないと判断すれば、その言葉など『右の耳から左の耳』で有る。
しかも心身ともに大きく成長する思春期は心と身体の均衡を失いその負担から周囲にやたらと攻撃的になる反抗期で、それらは初陣を済ませ自信が過信に変わると概ね時期を同じくし、其処で教育を誤れば非行の原因と成り兼ねない。
文武どちらに秀でるにせよ、高い能力を持つ人というのは何処か奇矯な所が有る物だが、今日会った先生方からはそう言った雰囲気は感じ無かったし、深く話して居ないのでその人格云々まで評する事は出来ないが、極めて常識的な人物ばかりだった様に思う。
前世とは違い体罰で抑えつけるのが当たり前の世の中では有るが、それにしたって馬鹿親の類が居ない訳では無く、親がしゃしゃり出て来ずともウチの兄上の様に師範よりも強い場合も有り下手を打てば返り討ちと言う事も有り得る。
にも関わらず両館が取り潰される事も無く今日まで存続しているのは、ソレに萎縮する事無く強い指導が出来るのか、それとも事なかれを貫き通しているのか……。
まぁ多くの親にとっても両館長は恩師と言える立場で有り、幕府でも有数の実力者でも有る、親がしゃしゃり出て来たとしても、余程の事で無ければ問題には出来ないだろう。
それ万が一館長達でも揉み消せない事体が発生したとしても、上司が責任を取る事に躊躇もしないであろう事は明白なのだから、優秀なだけの先生陣でも対応をする事は可能だと思える。
……と言うか、其処まで考えて思い至ったのだが、父上をして大軍師とまで言わしめる諸田館長ならば、道を外れようとする子供の思考を読んで先手を打つ事も可能なのではなかろうか?
そしてそれでも止まらぬ馬鹿が居れば、小山内館長が出張れば叩きのめせぬ子供は居ない。
彼我の実力差を理解出来ない入門直後の子供でも、多少なりとも相手に力量を測る力が身に付いて居れば、あの化物に喧嘩を売る無謀さは理解出来るだろう……出来るよね?
「さて……そろそろ良いか? 今日は新年初稽古って事で在籍生は皆出てきてる筈だからな、紹介するにゃぁ丁度良い道場に向かうぞ」
俺の思考が一段落したのを見計らい、安藤先生がそう声を掛けてきた。
言われて周りを見回して見れば、他の先生方は既に道場へと向かったらしい。
「あ、はい。おまたせして済みません」
慌ててそう返せば、先生は引き攣った笑いを浮かべそれから無言で溜息を吐き、後頭部をボリボリと掻きながら踵を返す。
他人の表情から内心を読む所謂『読心』の心得は無いが、それでも彼が『やり辛いガキ』と思っている事は、流石に俺でも読み取れた。
「……これから長らくご苦労お掛けします」
歩き出したその背中に、そう声を掛けると……幾分かその歩みが早く成った気がしたのだった。




