三百八十六 志七郎、熟睡し学び舎を知る事
頬を這う湿った生暖かい感触に、俺の意識は深い眠りの底から急速に浮上する。
そして瞼越しに感じられた陽の光に目を瞬かせる。
「……ん、もう朝か? って、寝過ごした?」
年が明けてまた一週間と経っていない今の時期、朝稽古の前に四煌達の散歩を済ませようと思えば、日が昇るより大分早く起きなければ成らないのだ。
意図しない寝坊なんて、前にしたのは一体何時の話だっただろう。
とは言え今日のコレは寝るのが多少遅くなったから、と言うのが原因では無い。
「お前等のお腹、寝心地良すぎだろ……」
薄い毛布一枚では、下手をせずとも凍死し兼ねない寒空の下。
彼等の体温が有るから大丈夫だろうと決め打ちで行った行為だったが、コレは逆の意味で危ない。
よく手入れされた白い毛並みは極めて柔らかく、その手触りは高級ホテルで使われてた寝具と比べても遜色なく、無駄なく付いた筋肉と脂肪は程良い弾力で身体を支え、優しく包み込む温もりは暑すぎず寒すぎず心地よい眠りを与えてくれた。
と言うか、心地よすぎた……コレは人間を駄目にする奴だ。
ハマってしまえば、もう二度と普通の布団で眠る事は出来なく成る。
睡眠中でも何か有れば即応する事に慣れた俺ですら、全てを忘れて深淵の彼方へと誘われたのだ、常人ならばその虜と成る事は想像に難くない。
目が覚めた今でも気を強く持たなければ、意思に反して上瞼と下瞼が仲良くなろうとしているのだ。
「わふ?」
「くぅん」
「わお!」
無論、そんな事は彼等の知った事では無いだろう。
如何に自分の腹が人間にとって魔性としか言い様の無い寝心地を誇っていた所で、自身が其処に埋もれて眠る事は出来ないのだから。
さっさと起きろと言わんばかりに大きな舌で俺の顔を代わる代わる舐め、それから地響きの様な腹の虫を鳴かせたのだ。
「ああ、散歩は我慢するけれど……お腹が空いたんじゃぁ、起こすわなそりゃ……」
頭の下から轟音が響けば流石にもう一眠りとは行かず、そう言って身体を起こす。
「「「うぉん!」」」
嬉しそうに揃って一声吠えた彼等の温もりから離れると
「ふぃっくしょん!」
それまで感じる事の無かった寒風に身体震わせ、くしゃみ一発で完全に目を覚ましたのだった。
「随分と気持ちよさそうに寝てた故な……起こさず放って置いたが、起こした方が良かったか?」
散歩どころか朝稽古も既に終わって居り朝食の場へと顔を出した俺に、そんな言葉を投げ掛けたのは仁一郎兄上だ。
ちなみに四煌戌達の食事は俺達のソレが終わってからである。
可哀想だとは思うのだが、食事の順番は犬にとっての順位付けに関わる大問題で、ソレを適当にしてしまえば主従関係の逆転を招いたり、と躾の面で余り宜しい結果を招かないそうなので仕方が無い。
兄上は四煌戌を散歩に連れ出そうと寝ている俺の下を訪れたのだが、旅の疲れが未だに残っているのだろう、と考えそのまま寝かせて置いてくれたのだそうだ。
「いえ、お気遣い有難うございます」
「礼なら俺よりあの子達に言ってやると良い、主君に気遣い出来る良い家臣だ」
気遣いに礼を述べれば、兄上は味噌汁を一口啜り、そう言ってから、家臣達の末席に座る四馬鹿を見やり小さく溜息を吐く。
その時点で四煌戌達は起きていたらしいが、深い眠りの中に有った俺を気遣ってか、声を上げる事すら無かったらしい。
「今日は特に予定も無いですし、あの子達と遊んで上げる事にしますよ」
彼等の食費やら自分の小遣いやらを稼ぐ必要は有るが、上様から『免状』の副賞として報奨金も少なからず出ているし、直ちに大金を稼がねば成らないと言う程には切羽詰まっては居ない。
「……何を言うておる志七郎、御主今日は練武館と志学館へ連れて行くぞ。卯月を待って新人と一緒に入るのも良かろうが……年下と同輩に成るのは避けたかろう?」
だがその言葉は即座に父上に否定される。
『練武館』『志学館』とは幕府が運営する直臣の子弟が通う事を義務付けられている学校の様な物だ。
小普請非役の御家人だろうと、大藩を収める大大名だろうと、皆七歳の卯月には通い始め無ければ成らないのだが、今回の俺は流石に特例が認められており、来年度からの入学でも構わないらしい。
とは言え、『練武館』も『志学館』も其処で学ぶ事の大半は大身の家の子であれば、態々毎日通わなければ成らない様な水準では無く、どちらかと言えば家中に指南役を用意出来ない様な家の子に幕臣として最低限恥ずかしく無い教育を施すのが目的なのだそうだ。
故に練武館は武芸を教える場所と言うよりはその腕を競い合う事で社交の経験を積む為に通う者が大半なのである。
志学館も進級や卒業には試験を突破しなければ成らないが、十分な成績を出せるのであれば飛び級は自由らしい。
ソレならば別段、年齢を気にする必要も無い様に思えるのだが、義二郎兄上と桂殿の様にやはり同期同士だと仲良く成る機会も増えるし、実力如何に関わらず先輩後輩と言う柵は追々まで残っていく物だという。
「同期会の団結は決して侮れぬ物が有る、仁一郎や義二郎の様に『我が道を行く』事を否定はせんが……有って困る繋がりと言う訳でも無いからの」
人間との関わりを基本的に好まぬボッチ気質な仁一郎兄上や、売られた喧嘩は美味しくいただきやり過ぎて禍根を残すタイプの義二郎兄上は、個人的な交友は兎も角、同期会とは疎遠なのだと言う。
「もしも二人が同期の物達ともっと交友を深めて居れば、何時ぞやの妖刀狩りの際には助太刀しようと言う者は幾らでも集まっておっただろう。実力が伴うかどうかは別としてな。この先どの様な道を歩むにせよ、人脈が武器に成らぬ事は無い」
非難する様な視線を仁一郎兄上に向けながら、そう言い切る父上。
その話を聞いて卯月から通い同期との付き合いを密にすると言うのも選択の一つかとも思うが、年功序列にも似た先輩後輩関係が生まれるのであれば、一歳とはいえ年齢差が有るのは面倒を産むかも知れない。
大学まで行けばその辺は緩くとも思うが、やはり小中高辺りだと同じクラスに年上が居ると言うだけでも、腫れ物扱いを受ける可能性は捨てきれないし、逆に同じ年の子供に先輩面されるのも普通ならば腹が立つだろう。
俺の入学が遅れる事情は知らぬ者は居ない話では有るが、物事を正しく忖度出来る子供ばかりと言う事も無い。
大体皆、一般的な元服年齢で有る十四歳までの約七年通うのだから、その内一年が短縮された位であれば、まぁ許容範囲と言えるかも知れない。
だがだからと言って何の準備もして居ない今日これからと言われても困るのも事実では有る。
「話は上様から通っては居る筈では有るが、それでも特例を通すとならば、それぞれの館長に挨拶せぬ訳にも行かぬ。儂は明日には国元へ向けて出立せねばならぬからの、今日を外せば卯月まで待つ事になるぞ」
本来ならば昨年を国元で過ごし今年再び江戸に戻る筈の父上が、俺が戻った時点で此方に居たと言う事は、国元へ戻らず俺を待っていたと言う事だろう。
国元に火種が有ると言う様な話は聞いては居ないが、大名としての本分は領地の統治で有る、丸二年も国元を開けていたのだから早々に帰らねば成らないのは仕様が無い。
「必要な物はお母さんが全部準備しておいて上げたから……ちゃんといってらっしゃい。それに……春から家で預かる予定の子は貴方の一つ下ですからね、その子と同期では義兄としての面子が立たないわよ?」
俺が了承の言葉を口にするより先に、俺を説得するつもりなのだろう母上がそんな言葉を口にする。
家で預かる子とか、義兄とか……色々と初耳なのだが……まぁ、色々と有ったのだろう色々と……
17-18日は早朝から少々仕事が入る予定、16日は早く書き上がれば予約投稿としますが、万が一就寝時間に間に合わない様ならば、誠に申し訳有りませんが18日深夜更新と相成ります
予めご容赦頂けますようお願い致します。




