三十六「無題」
一体どれ位の時間が経ったのだろう、疲労による物か全身が重く、腕を上げるのも億劫だ。
それでも中々言うことを聞かない足に鞭を打ち後方へと飛び退る。
一呼吸遅れて眼前を通り過ぎる切っ先を払いのけ、即座に踏み込み切り返しを狙う。
「踏み込みが足りん! そんなへっぴり腰で敵を斬れるか!」
だが、俺の一撃はあっさりと弾き飛ばされ、得物が宙を舞う。
「我らの剣は公僕の剣、その後ろには常に無辜の民が居ると心得ろ! 討つべき時に討たずば罪人の益となる、例えその結果誰かを傷付ける事となろうともな」
面を強かに打ち付けられ、尻もちを付いた俺の喉元に竹刀を突きつけながら曾祖父さんは強い口調でそう言った。
……ああ、これはよく覚えている、俺が警察官採用試験に受かり警察学校の寮へ移る前日の曾祖父さんとの最後の稽古、その時に言われた言葉だ。
あの時は曾祖父さんの言葉の持つ意味も重さも解ったつもりで居たが、それが本当の意味で理解していたわけではないのだろう。
いや、現場で多くの事件に遭遇し多くの犯罪者を捕らえて尚、多少の怪我をさせた事はあっても、その生命を奪うような事は幸いにして無かった。
だがそれも俺が幸運だったというだけの事だ。
後輩や同僚の中には、やむを得ないと判断して銃を抜き退職に追い込まれた者達もいる。
海外研修などで知り合った諸国の警察官は、逮捕よりも射殺の方がより日常だったという者もいた。
……それどころか、俺が生命を落としたあの日あの時には、俺自身の指示で部下に生命を奪う可能性のある命令すら下していたのだ。
しかし俺は子供達を守ることは出来たが、その為に成した殺しに苦しみすら感じている。
殺すという事の意味、そして重さ……相手が人間かどうかなど関係ない、例え鬼ではなく犬猫で有ったとしてもその重さは変わらなかっただろうか……?
「何を悩んでいるかは知らんが迷ったならば剣を取れ、稽古は決して裏切らない。わしは幾らでも相手をしてやる、思う存分掛かって来い」
俺が座り込んでいるうちに竹刀を拾ってきた曾祖父さんはそれを差し出しながらそう言った。
あの日の稽古では言われていない言葉だった……。
呆然としながらも竹刀を受け取り構えをとったのは、長年の稽古故に身体に、いや魂にすらその動きが染み付いていたからだろう。
「死して尚剣を捨てることは無かったか……、結局わしはお前が生きている内に何もしてやる事が出来なかったのかもしれん」
そう呟く曾祖父さんの構えは、一片の隙すら感じられなかったあの頃とは違い、記憶にある物よりもずっと小さく弱々しく感じられた。
それが曽祖父さんの老いによる物か、それとも立ち合う事の無かった十数年という時間は俺が思う以上に俺の腕前を押し上げていたのか。
それは解らないが、先ほどの一合撃とは違い、彼我の差は大きく無い気がする。
「……さぁ、打ち込んでこい。わしは剣を交える事しか出来ない不器用者だ、だがそれでもそれだけでも多少なりともお前の力に成れたと……わしは信じている」
言葉が出なかった……溢れ出そうになる涙を堪え、
「チェストォォォォォオオオ!」
気合一閃、竹刀を振り下ろした。
「久しぶりの稽古楽しめたッスか?」
打ち込み打ち込まれ思う存分に身体を酷使し力尽きた頃、不意にそんな声が聞こえてきた。
いつの間にやら曾祖父さんは姿を消し、大の字にのびた俺を見下ろしているのは死神さんだ。
「夢……だったのか?」
そう口にしながらも、それが語るに落ちた内容だという事は自分でわかっていた。
俺はあの世界に置いては既に故人であり曾祖父さんと再び剣を交える事など出来はしない。
「ただの夢って訳じゃぁねえッスよ、あんたにとってもあの人とっても次の一歩目を歩き出すのに必要な大切な夢ッス」
死神さんの言葉は気になるが、それ以上に気になる事がある。
「なんで死神さんが居るんだ! まさかまた俺は死にかけているのか!?」
「今日は本官が出張してきるッス、あんたが死にかけてるわけじゃねえッスよ。ここはあんたの夢の中ッス。さっきまでは、あんたとあの人の夢……だったッスけどね」
死神さんの言葉を信じるならば、夢の中とはいえ俺は曾祖父さんと剣を交えていたということだ。
此方の世界の剣は殺し殺されが前提と言う事も有ってか稽古でも常に殺気が漂っているように思えたが、曾祖父さんとの立会は久しぶりに無心になれた気がする。
「あんたがこの夢を見せてくれたのか?」
「半分はそうッス、けど本官を呼んだのはあんたを心配する家族の願いッス。前世、今世両方のね……愛されてるッスねぇ」
そう言ってひとしきり笑ったあと死神さんは表情を隠すように、制帽のつばを持ち深くかぶり直した。
「生命のやり取りが殆ど無い場所から来たあんたには、殺し殺されの世界ってのはちと辛かったッスか……。でも、この世界で生きてくならば避けられねぇ事ッス。あんたが望んだファンタジー世界ってのは切った張ったが基本ッスからね」
……考えてみれば、俺の生きていた現代日本が特殊なのだ、人どころか食うために生き物を殺す事すら経験しない人間が大半と言うのはある意味で異常なのかもしれない。
日常口にする肉や魚だって誰かが代わりに殺してくれるからこそなのだ。
生きるため、守るため、食うために殺す……それを躊躇し後悔するのは俺のエゴに過ぎないのかも知れない。
「肉や魚だけじゃねぇッス、野菜や穀物だって生きているッて言う事では同格ッス。例えベジタリアンだとしても生命を奪わず生きている動物は殆ど居ねえッス。間接的にせよ殺す事を意識しないで生きて行ける世界こそ、どこか歪なんッスよ」
先ほどまで前世の姿だったはずだが、気がつけば志七郎の姿へと戻っていたらしく、それに伴い考えが表情に出るようになっていたようだ。
「殺す事に簡単に慣れてそれに快楽を見出すよりはずっと健全だとは思うッス……」
快楽殺人者は流石に論外としても、殺す事に慣れるのが果たして健全と言えるのだろうか……。
「……言いたい事は解らなくもねぇッス。でも、生きるため食う為に殺す事すら否定するのは、生きると言う事すらも否定する事になるス。あの世界でも誰かにそれを押し付けているだけで……その方がずっと不健全だと思うッス」
「俺の……感覚は間違っている……って事か?」
「住む場所によって文化や倫理は違うから、一概に間違いとまでは言わないッスけどね」
ただ……と言葉をつなぐ死神さん。
「この世界で生きて行くならば乗り越えるしか無い事ッス、それでもあんたは生きて行く覚悟は……あるッスか?」
帽子の陰に隠れその表情は窺い知ることは出来ないが、それでも射抜くような視線は感じる。
それは今まで何度かあった飄々とした死神さんの態度とは違い、『死神』の名に相応しい底冷えするような威圧感をも纏ったものだった。
ゆっくりと息を吸い、腹の下……所謂丹田に力を込める……。
俺の後ろには常に無辜の民が居る、特権階級である侍は公僕とは言えないかもしれないが、それでもその事には変わり無いだろう。
ならば生きる事を諦めない、たとえ自身が返り血と罪に塗れようと……。
「……いい目に成ったッスね。これなら出張手当も出ないのに来た甲斐が有ったッス。あんたが生きるのを諦めるって事は、それまで間接的にも直接的にも、殺した全ての生命を犬死ににするって事っす……」
三一匹の小鬼、一匹の大鬼、そして食らった無数の生命、生きるのを辞めると言う事はそれら全てを侮辱することだと死神さんはそう言った。
その言葉に頷き、俺は強く強く生きる決意を固めた。




