三百七十六 三人と一匹、無茶を知り難題を抱える事
三十分も歩かぬ内に鼻を突く卵が腐った様な独特の臭い……
長靴の国は決して広く無いと言う事も有るが、閉鎖空間で逃げ場が無く臭いが篭っているのだろう。
「くっせぇ……オラ涙出て来ただよ……」
この臭いに比較的慣れていると言っても良い温泉大好き火元人の俺は兎も角、初体験の蕾にはかなりキツイ物に感じられる様だ。
「よくもまぁ、この臭気の中で暮らせるものだな……この辺りの住人は……」
当然、人間や鬼族よりもずっと鼻の効く獣人で有る吉八さんも辛そうに鼻を抑え、周辺の住居を見回しながらそう言った。
「臭いってのは結構慣れる物だぜ? 儂ゃ色んな世界の温泉を巡り歩いて散々っぱら入って来たからな、この程度ならどうって事ぁねぇぜ」
この中で最も鼻が良い筈の沙蘭は余裕綽々で言いながら煙管に火を入れ燻らせる。
「慣れると言うか……麻痺して来るんだよな。臭い所にずっと居ると……」
孤独死だの殺人現場だの吐き気を催す腐乱死体のエゲツない臭いですら、何度も嗅いでいると何時もの事……と眉を潜める程度の物に成っていくのだ。
この位ならば、まぁ温泉巡りを趣味としている者にとっては何時もの臭いの範疇だろう。
しかし……臭いは兎も角、この状況は結構不味いのではなかろうか?
臭いと言うのも十分に迷惑では有るが、俺の記憶が確かならばこの刺激臭は毒性の有る気体の物だった筈だ。
ソレが散る事無く充満し停滞しているので有れば、何時中毒者が出ても可怪しくは無い。
実際、温泉地でガス中毒を起こした者が救急搬送された、と言う事件は稀な話では有ったが、全く聞かない話では無かったし、所謂『温泉の素』を使っての自殺が多発した……なんて事も有ったと記憶している。
「……つかコレ本物の臭いっぽいぞ? 入浴剤の類でも入れて沸かしてる、なんちゃって温泉じゃねぇのかよ。どうなってんだコリャ」
自然地形では無く温泉が湧くはずが無い……そう言っていた沙蘭だったが、此処に来てその臭いが『作り物』では無いと判断したらしく本気で頭を捻って居た。
「本物って事は本気でガスが怖いんだが……」
その言葉に思わずそう呟いた、その時だった。
「換気にゃぁ気を付けてっから、臭い以上の事ぁにゃぁよ。その辺の事ぁ確り管理してっからにゃ」
と、明らかに火元国と縁も縁有りそうな濃紺の羽織を纏った猫が話しかけて来たのだ。
「おみゃぁさんが猪山の鬼斬童子さんだにゃ? 手前は猫屋別館を預かる番頭の小竜言います、おミヤ様から話は聞いとりますにゃ、長旅ご苦労さんで御座んした。お連れ様方も、取り敢えず荷物を下ろせる場所にご案内しますにゃ」
洋風の木造建築や煉瓦造りの建物が建ち並ぶ中で、異彩を放つ瓦屋根……その佇まいは明らかに純和風旅館のソレだ。
いや、まぁ火元国に本館が有る温泉旅館の別館なのだから、奇怪しな話では無いのだろうが、なんというかこう……浮いている。
完全に悪目立ちしているその建物では有ったが、旅館の経営その物は順調の様で、客と思わしき猫達が引切無しに出入りしてた。
「……猫って基本的に濡れるのが嫌いな生き物の筈ですが……なんだってまぁこんなに繁盛してるんでしょう?」
猫族の中では珍しく水に濡れる事を苦としない虎ならば兎も角……と、首を撚る吉八さん。
「硫黄泉は皮膚病に良く効きますからにゃぁ。此処の所、毛が抜ける流行病が広がってるらしくてお陰で大繁盛ですニャ」
原因はハッキリして居ないが、此処の風呂に入る事で症状が改善する……と言う口コミが広がっているのだと、小竜はそう答えた。
「……ソレにしたってどうやったら温泉なんて湧くんだよ。靴の下に火山が有る訳じゃあるめぇし」
未だ納得して居ない風に首を捻りながら沙蘭が疑問の声を上げる。
「流石に此処の下から湧いてるって訳じゃぁ無ーですにゃ。比較的近い世界の温泉からパイプで引っ張ってるんですにゃ」
あっさりと返って来たその言葉に、
「そりゃまた……世界間パイプラインとか無茶が過ぎるんじゃねぇの? しかも温泉だろ、詰まったらどーすんだよ?」
驚きと呆れが入り混じった感想が溢れ出る。
「元々は他所から水を引っ張ってくる為の物ですニャ。幾らにゃー達、猫は水を然程必要とはしにゃいっても限度が有りますからにゃ」
猫は元々砂漠等の乾燥地発祥で少ない水でも生きていけるのだそうだが、それでも完全に水無しと言う訳には行かない。
猫口が少なかった頃には、行商猫が担いで来る水と長靴の破れ目から流れ込む少量の雨水だけでも、何とか成っていたのだと言う。
しかし猫は鼠ほどでは無いにせよ多産の生き物で、ある程度安定した環境が有れば爆発的に増殖する。
その結果、運ばれてくるだけの水では需要を賄い切れず、水の値段が阿呆程に高騰した事が有るらしい。
ソレを改善する為に一人の猫妖精が多大な資金と労力を費やし、パイプラインを構築したのだと言う。
「なんでも祖国が崩壊した時に飼い主の財産をかなりの額面かっぱらって来たらしいですにゃ」
……かっぱらって来たって、自分で稼いだ金じゃぁ無いのか。
「他人の為に手前の財産を吐き出すとは……見上げた男ですな……」
領主として統治の為に散々資金繰りの苦労してきた筈の吉八さんからすれば、自分の為だけに金を使えば苦労する事も無いだろう莫大な財産を公共の為に差し出した、その行動は何よりも称賛に値する物だったようだ。
「んー、使用料は決して安い物でも無いですし、必ずしも人の為って訳でも無ぇですにゃ。まぁその技術を盗用した家がどうこう言うのもアレでしょうけどにゃ」
盗用……
「何方にせよ、無茶苦茶な事を考える物だぜ……自転やら公転やら考えりゃ何時ブチ切れても可怪しくねぇぞ?」
『長靴の国』は兎も角、他の世界は基本的には『星』で有り、沙蘭の言う通り自転も有れば公転も有る。
常に動き続けている世界間を常時接続し続けると言うのは、色々と無理が有るだろう。
「なんでも水源は世界樹の盆栽と同じで、動かない世界らしいですにゃ。此処の湯も似たような世界から引っ張ってきてるんで、珍しくは有るけれど決して無ー訳じゃぁ無ーって事なんでしょうにゃ」
言いながら案内された玄関口を潜り、草鞋を脱いで板の間へと上がる。
此処まで通って来た大半の世界は土足文化だったので、こうして素足で建物に入るのは本当に久々の事だ。
無数の世界を渡り歩き、日本で生活していた沙蘭は兎も角、蕾や吉八さんは靴を脱いで上がると言うのに少々驚いて居たが……まぁ火元国へ行けば日常となるのだから、慣れてもらうしか無いだろう。
「ささ、此方のお部屋でお寛ぎ下さい。お連れ様は只今入浴中ですので上がり次第此方に向かいます様お伝え致しますので……」
案内されたのは外の硫黄臭とは打って変わって、爽やかな畳の香りに満たされた部屋だった。
用意されていたお茶と茶菓子を口にしながら待つこと暫し……
「遅い! 年末までに戻らなアカンちゅーのに、今日何日や思ってんねん! しかも人数が増えとるってどない成ってるんや! 此処から江戸まで正味で一週間って無理難題もええ所やないか!」
襖を激しく音を立てて開け放ち、恰幅の良い三毛猫がそう吠えたのだった。




