三百七十五 三人と一匹、新天地へと踏み込み先を決める事
薄暗い洞窟の様な『入口』を抜け、踏み込んだ其処は見渡す限り猫、ネコ、ねこ、Cat……兎角、人の姿など影も形も無くただ只管に猫達だけが犇めき合うそんな場所だった。
「おお! すんげーだな! 上が見えねぇだよ!」
と、そんな蕾の声に釣られ上を見上げれば、その先に空は無く何処までも続く高い高い壁と、壁面に築かれた無数の建物だけが目に入る。
前後左右どの方向を見ても、見えるのは何処に天辺が有るかも解らぬ高い、高い壁……。
どうやら此処は円柱の内側に広がる空間の、底面に当る場所の様だ。
「此処が噂に聞いた猫の聖地、巨人の長靴……」
感極まった様にはらはらと涙を流しながらそう呟いた吉八さんの言に拠れば、俺達が入って来た場所は『爪先』に当る部分で、この世界全体が『長靴』の形をした『猫の裏道』なのだそうだ。
遥か昔、ソレこそ数多の世界が未だ神話の時代だった頃、神々の伝令として休む事無く界渡りを繰り返して居た猫達はあまりのブラック労働っぷりに皆揃って逃げ場所を探していたと言う。
当時は神秘溢れる神話の時代……今とは比べ物に成らない程の優れた妖力を持っていた猫達だったが、それでも神々の通力には敵わない。
仕事をサボった猫達は罰せられ、更なるサービス残業を強要される悪循環に陥った。
そんな猫達が最後に逃げ込んだのは、神々の敵対者だった巨人が打ち倒された際に残った長靴の中だったと言う。
神々が創造した『世界』では無く管轄外の長靴へと逃げ込んだ猫達は、労働組合を立ち上げ三ヶ月もの間、激しい闘いを繰り広げ、ついには自由を勝ち取ったのだ。
「その戦の中で一揃い有った長靴の片方は失われ、残った片方が大事に、大事に使われてるって訳だ。つってもコッチだって色んな所が綻んでるんだけどな、爪先とか踵とか色々と……」
吉八さんから話を受取り、そう補足する沙蘭。
「まぁ、詳しい事が知りたけりゃ図書館にでも行けば幾らでも資料は有るが……大半は都合の良い風に捏造された本ばっかり何だよなぁ。その辺は猫も人間も変わりゃしねぇって事だわな……」
とは言え流石の沙蘭も年齢的にその闘いに参戦していた訳では無く、無数の世界を渡り歩き、それぞれの世界に残って居た話の断片を繋ぎ合わせた結果、比較的真実に近い所まで迫ったのではないか、と言う所らしい。
「……巨人が水虫じゃなかった事を幸運に思うべきかも知れませんね」
他人が履いていた長靴の中に居る……そう言われ思わず漏れたそんな感想に、その場に居た全く無関係の猫達までもが共感し頷き返すのだった。
「んで、迎えの連中は何処で待ってんだっけか?」
取り敢えず何処で合流するにせよ腹拵えは必要だと、近場で営業していた屋台で売っていたニシンバーガーを頬張りながら、沙蘭がそう問い掛ける。
この長靴の国では第一次産業は一切行われて居らず、全ては輸入に頼っているらしく、別段この料理が此処の名物と言う訳では無いらしいが、それでも店主が沙蘭を見知っていた辺り相当に老舗と呼んで差し支えは無いだろう。
「えーと……猫屋温泉別館って旅籠で合流、と出発前には言われてたけど……。此処温泉なんて有るのか?」
穴の空いた長靴の中なんて立地で温泉など湧く物なのだろうか?
自然地形では無い以上、何が有っても可怪しくは無いのだろうが、それでも靴の中に湧いた温泉に入ると言うのは少々抵抗が有る。
「……温泉なんか湧くわきゃねぇだろ。ってか、此処にまともな温泉旅館なんて有れば儂は六龍島みたいな僻地で隠居してねぇわさ」
革製の長靴で有る此処では水すらまともに湧く事は無く、基本的に破け目から漏れ出る雨水を溜めて使っているのだそうだ。
当然、それだけでこの地の膨大な人口を支えきる事など出来よう筈も無く、水もまた重要な輸入品目の一つらしい。
そんな所で『温泉宿』の看板を掲げると言うのは一体どう言う事なのだろうか?
「と言う事は、旅猫様でもその宿に付いてはご存知無いので?」
ニシンのオープンサンドを齧りながら吉八さんが疑問の言葉を口にすれば、
「少なくとも儂がこの辺のたくってた頃には無かったな。最近……つっても此処三十年位は御無沙汰だったが……まぁ出来たばっかりなんじゃねぇの?」
付け合せのマッシュポテトを口に運びながらそう答える。
「もしも温泉が湧いていたとしても、硫黄泉って事は無いだろうな。閉鎖空間であの臭いは人間でも厳しいんだ。人よりも鼻が効く猫達には拷問も良い所だろう」
あの卵の腐った様な臭いは硫黄の臭いその物では無いのだが、まぁ概ねセットで存在する物だ。
沙蘭が入っていた六龍島の温泉は、比較的臭いの薄い塩化物泉だったと記憶している。
「……温泉って臭ぇ物なんだか? 草原だらそったら物無がったからなぁ。オラちっと興味有るだよ。おっかぁが山の部族の所で入って肌さ綺麗に成っただ言うとったしな」
蕾は馬頼王の被征服地では無く、辛うじて交流がある程度の山岳部族の領土に存在していた物の話を聞いたことがある程度の様だ。
「にゃんだい……お前さん達あの温泉宿に用事が有るのかい? それならこの道をずっと真っ直ぐ行った先、踵の奥のどん詰りに有るよ。あんな臭い場所に好き好んで行くのは余程の変わり者なんだろうにゃ」
と俺達の話を聞きつけ、そう教えてくれたのはニシン料理を売る屋台を営むサバトラの猫だ。
曰く常に卵の腐った様な臭いを漂わせる奇妙な宿が、十年程前から踵に空いた穴の側で営業しているらしい。
「つまり少なくとも、狭い所で毒ガスを撒き散らす様な事はせず、換気出来る立地は抑えている……と」
「ついでに排水も穴から垂れ流しなんじゃねぇの? まぁ場所が解ったならさっさと行こうぜ? あ、オッサン此処に根付くつもりなら、顔役に面通し位はするけどどうするね?」
「いや、此処まで来たならば皆様と同じく世界樹の盆栽までお付き合いしますよ。此処でなら食い物は幾らでも売れそうですし、商売する程度の時間的余裕は欲しいですがね」
輸入品以外で食料が手に入らないと言う此処ならば、確かに俺や吉八さんが背負っている荷を換金するのに手間取る事は無いだろう。
「取り敢えず場所は解ったし……先に余計な荷物を処分するのも手かも知れないな。この手の商売が出来る場所の方は沙蘭なら知ってるんだろ?」
此処まで来れば後は余計なトラブルさえ起きなければ、先ず間に合わないと言う事は無い筈だ。
「ああ此処はタイガードラゴンランドみたいな閉鎖的な経済政策は取ってねぇからな、手間は掛かるが央広場の自由市で売っても良いし、ちと安くは成るが問屋に纏めて売りつけるって手も有らあな」
急ぐなら後者、稼ぐなら前者と言う事か……。
「……オラ、なんか嫌な予感がするだよ。時間掛けねぇでサクッと済ませて、さっさと合流した方が良えと思うだ」
一瞬考え込んだ俺に、普段の元気印な表情を曇らせそんな言葉を投げかけた。
「その根拠は?」
短くそう問い返せば、
「根拠とかそーいう難しい事は解んねぇだが……此処に長く居たらなんか色々不味い事が有りそうな気がするだよ……」
返って来たのは明確な根拠らしき物の無い、ただ何となく……と言う曖昧な答え。
「蕾がそ~言うなら、儂も賛成して置くかね。幾ら幼いつったって女は女だからな。女の感って奴は決して侮って良い物じゃねぇわさ」
そしてソレを是とする沙蘭の言葉に、俺達は多少買い叩かれても即金化する選択を取る事を決めたのだった。




