三百七十三『無題』
「おミヤ、志七郎は未だ戻らぬのか? もう師走に足を突っ込んでいると言うに……。以前聞いた話では、除夜が鳴り終わるまでに帰らねば、二度と戻る事は無いのだろう? 本当に間に合うのであろうな?」
火元国でも……いや、世界を見回しても比する者は殆ど居らぬ、そんな大妖怪で有りながら人に味方をする為に大傷を負い、その妖力の大半を使うことすら侭なら無い。
そんな彼女に詰め寄った所でどうにかなる物では無いと解りながらも、そんな言葉を掛けざるを得なかった。
本来であれば、義二郎が婿養子となり広い世界へ船出した時点で、儂は国元へと戻っているべき所だったのだ。
我が猪山藩は領民全てを合わせても1万人に少々届かぬ程度の小藩である。
流石に民草の一人ひとりの顔まで全て覚えているとは言えぬが、それでも住まう者全員多かれ少なかれ何処かで血の繋がりの有る巨大な家族だと言い切っても決して間違いでは無い筈だ。
とは言え人は三人も集まれば派閥が出来る物、一万も集まれば当然、皆が皆諸手を挙げて現在の統治状況に大賛成と言う訳では無い。
国家老の『兎佐野宗治』は穏やかでその腹に野心を抱く様な男ではないが、我が従兄弟に当る『猪牙王山』や『熊爪徹雄』辺りは何時簒奪に動いても驚きはしないだろう。
まぁ何の失策も無い状況でそう動いた所で大義は無く、領地を奪ったところでその正当性を幕府が認めねば逆賊として討伐されるのは目に見えている故、流石に軽挙妄動に走る事は無い筈だ……多分。
万が一儂が居らぬ間に蜂起したとしても兎佐野や親父殿、一郎が国元に居れば即座に鎮圧する事は容易いのだが、親父殿は上様の密命を受け飛び回っており、一郎も儂の依頼で国元に長く留まって居ないのだ。
可能で有れば早く国元へと帰るべきだとは思うのだが、可愛がっていた末の息子が不慮の事故で遥か遠くの世界へと飛ばされ、頼りになる次男が国を去り、妻を助け江戸屋敷を取り仕切っていた笹葉が持病のぎっくり腰を悪化させ引退せざるを得なくなり……
そんな状況で愛妻に負担を強いるのは躊躇われた故に、上様に無理を言ってもう一年国元へと帰らず江戸に残る事を許して貰ったのである。
兎角、志七郎が戻ればお清の気持ちも上向く筈だ……これ以上、落ち込む気を紛らす為と称して、他所の賭場を荒らし回ったり、馬比べ場で大穴打ち抜きまくったりと、要らん恨みと妬みを買い続けるのは勘弁して欲しい。
……既にお清が潰した無認可賭場は両手の指で数えられる数を越えているのだ。
博徒連中の御礼参りが儂等武士に向かう分には然程怖い物では無いが、中間部屋の者達や屋敷で働く下男それに取引先の商家等、手を出して欲しくは無い場所も有る。
幸い今の所、大きな問題には成っていないが、ソレも何時まで続くか解った物では無い。
何方にせよ年が明ければ、然程待たずに国元へは戻らねば成らないのだ、出来る事なら志七郎が無事戻り、安心してから帰りたい物だ。
「それが……志七郎様が彼の世界から旅立ったのは間違い無いのですがのぅ。同道していると言う猫又の連絡先が解らぬ故、今何処に居るのかも解らないのですじゃ……」
だが、おミヤの口から返って来た言葉は、安心とは程遠い物だった。
猫又達……無数の世界を越える『界渡り』を許された猫族達は、例え三千世界の彼方程に離れた場所に居ても、意思を通じ合う術を持つと言う。
しかしその術を用いるには何処の誰かを特定する為の個体認証情報――伝話番号が必要不可欠なのだそうだ。
志七郎が辿り着いた世界に居ると言う、おミヤの古い馴染みとは連絡が付くのだが、旅の先導をしてくれている猫又のソレが解らず連絡が取れないらしい。
無論おミヤとて、その知り合いに先導役の伝話番号を知っていそうな者の番号を聞き、其処から辿って……と言う風に何とか連絡を取ろうと試みては居るが、別の世界とでは時間の流れが違うらしく、次の相手に繋がるまで数日待たされる事も多々有るのだと言う。
「此方からの迎えはもう既に合流地点として伝えた場所に着いているのですが、志七郎様とその連れとは未だ合流出来ては居らぬ様子。『長靴の国』からこの江戸までは数日有れば着ける範疇です故、未だ間に合わぬと断言は出来ませぬ」
未だ希望を捨てるな……と、落ち着いた声でそう言うおミヤ。
彼女の長い生の中には、これ以上の絶望的な修羅場は何度も有ったと言う、その度に猪山の男達は決して諦める事無く戦い闘い多々買い続け、常に最小限の犠牲で最大限の成果を出し続けて来たのだ。
「……諦める事を知らぬが故の、武勇に優れし猪山の……か」
猪山……猪河家の歴史の生き証人であるおミヤの言を疑う様な余地は無い。
今こうして居る間にも、志七郎はどんな苦難にも諦める事無く帰還を目指し奮闘し続けている筈だ、当代当主である儂自身が何ら困難にぶち当たって居る訳でも無しに諦める様な無様を晒す訳には行かぬ。
「神頼みは人事を尽くした後の事……とは言え、この地に居て遠く離れた者に助力する方法等何一つ無し……。せめて天蓬大明神のお力添えが有らん事を願ってお百度を踏むとするか……」
この時期なら水垢離も付ければきっと神々とて多少位は人間風情にも目を止めてくれる事だろう。
「儂もお付き合いしたい所なのですが誠申し訳御座いませぬ……先程お花様が猫屋に着いたと連絡が有りました。先日のご命令通り儂は豹堂のお嬢様の様子を見て参りますじゃ」
儂の言葉に皺だらけの顔を顰めながら、済まなそうな声でそんな応えを返す。
「おお、そうだったな。儂にもとうとう初孫が出来たのだったの。お前が行けば滅多な事は無いとは思うが、宜しく頼むぞ」
海の向こう竜鳳大陸を越えた更に彼方から届けられた一通の手紙。
無沙汰は無事の便り也を地で行く義二郎自身が送って寄越したそれは、何らかの困難にぶち当たり、心配を掛けまいとする物でも、救援を求める様な物でも無く、ただただ一言『妻に子が出来た』とだけ書かれた物だった。
余りにも簡潔過ぎるその内容は無精者の奴らしくは有るが、京の都に本拠を構え世界中に手の者を配していると言う『奇天烈百貨店』を通して、態々高い銭を積んで送ってきたと言うのに勿体無いと言うか何と言うか……。
「態々手紙など送らずとも其処らの猫にでも伝言を頼めば、この世界の内ならば儂の耳に入らない事等無いと言うのに……義二郎様……いえ、豹堂殿も余程動揺していたのでしょうねぇ」
直接の連絡先が解らずとも、世界中に有る『猫の修行場』を通し、猫達の総本山の『根子ヶ岳』の猫王を経由して、おミヤの元には世界中殆どの秘密が集まるのだと言う。
とは言え、それを政治利用するつもりは無い。
高々一小藩の藩主が持つには余りにも凶悪過ぎる手札で有るが故に、猪河家の歴代はその手を常に封印してきたのだ。
もし、その禁断の果実とでも言うべき物に手を伸ばす様な事が有れば、その時はおミヤと言う当家の屋台骨の一つを永遠に失う事に成るのは目に見えている。
産婆としての彼女が居るだけで、出産の際の事故の可能性は限りなく低くなり、血脈を繋いでいく事の難度は数段下がる。
しかもそっちの道で有れば、他家との交渉材料と成る事をおミヤ自身が認めているのだ。
見える見えない関わらず無数の敵を作る最強の爆弾を手に周りを脅す様な事をするよりは、供与可能な利益を周りに示し続ける事で、友好関係を維持する方が先を見るならば余程賢い選択だろう。
「……御主のソレは飽く迄『占い』と言う事にして置かねば成らぬ事。年初のアレは飽く迄緊急だったが故の事にして置かねばな」
「解っておりますよ。儂の身体に刻まれた傷は深い深い物、あの時の術は寿命を削って行使した物ですじゃ」
幾ら深手とは言え猫又達に治癒の術が無い訳が無い、傷も老いさらばえた姿も、大妖怪の中の大妖怪で有ると言う事から目を逸らす為の擬態。
大猫又宮古前が健在だと言う事は、藩主のみが知る我が藩最大の秘事なのだった。




