三百六十八 一人と一匹、発見し追跡する事
部屋の鍵が掛かって無かった事、靴が無い事、寝床が冷めきっている事、沙蘭達が居た一階の食堂を通らねば厠には行けず、外との出入りも出来ない事。
今の段階で解っている事はたったのコレだけだ。
沙蘭は蕾が間違えて他の部屋に迷い込んでいる様な事が無いか、親父さんと共に確認して貰っている。
夜中に催し厠へ行ったのを酔った沙蘭達が見逃し、寝惚けた蕾が部屋を間違えただけ……と言うので有れば何ら問題は無い。
だが部屋に荷物を下ろしに来た時にはこの部屋には鍵が掛かっていた事を考えると、恐らくは泊り客の居ない部屋には全て鍵が掛けられていると考えるのが普通だろう。
つまり蕾が他の部屋に迷い込む可能性は極めて低い。
「せめてもう少し掃除の手を抜いていてくれれば、足跡の一つも残ってるだろうに……」
今は綺麗に掃き清められた床の綺麗さが憎い、土足文化で有るからこそなのか普段から随分と丁寧な掃除が行われている様で、部屋も廊下も板張りの床に汚れらしい汚れは見当たらない。
石畳で舗装された場所を歩いてきた事も有り、俺達の足元も然程汚れていなかった事も、足跡が残らなかった原因と言えるだろう。
いや多分痕跡の様な物は有るのだ、きっと鑑識官なり忍術使いなりの捜索特化の技能持ちが調べたのであれば何か見つける事も出来た筈だ。
だが少なくとも俺の目にはソレらしい痕跡は映って居ない。
部屋を一通り見回し、廊下へと出てそれでも何も見つけられない。
己の無力さに苛立ち歯ぎしりしたその時だ。
視界の端で、カーテンが微かに揺れたのに気が付いたのだ。
板硝子が一般に浸透しているらしいこの世界では、硝子窓とその外に付けられた鎧戸の二重構造が基本の様で、内側に付けられたカーテンは殆ど飾りに過ぎず、どれも閉じられては居ない。
鎧戸を閉じてしまえば外から内側を見たりする事は出来ないからだ。
とは言え木の建具では然程気密性が高いとは言えず、隙間風が吹き込む事位は有るだろう。
それでも何か引っかかる物を感じその窓へと歩み寄る……と、硝子の内窓の向こう側で閉じている筈の鎧戸が開いてた。
「……掛金も外れている!? 真逆此処から!?」
慌てて窓へと駆け寄り内開の硝子戸を引き開け下を見る。
此方は店の入り口が有る通り側から見て丁度裏手に当たる場所で、外には街灯の様な物は無い。
いや有ったとしても薄暗いガス灯なので、その明かりが届く範囲は電灯に比べて驚く程狭く、何方にせよハッキリとは見えやしないだろう。
けれども氣を纏う事に慣れた俺は、意識を集中すれば今夜の様な薄曇りの微かな月明かりでも闇を見通す事は出来る。
そうして見た窓の下は、昼間見た表通りと同様の石畳……けれども明らかに薄汚れた印象を与える裏通りで、幾つもの店の裏口とゴミ箱が並んでいた。
そんな中に不自然な物は……有った!
「雨も降って無いのに水溜り? 外を歩いて居た時そんな物は他に見かけ無かった……沙蘭! 痕跡らしい物が有った、裏通りだ!」
勿論何らかの排水でも捨てたと言う可能性も有るだろうが、排水口も見当たらない様な場所に態々ソレをぶち撒ける様な事は常識的に考えれば先ず有り得ない。
そう考え、窓から身を宙に踊らせる。
此処は二階、この程度の高さなら氣を纏わぬ者でも飛び降りる事は難しくは無い。
例の水溜りを避け着地した俺の鼻には想像通りの物が届いていた……そうアンモニア臭――ぶっちゃけて言ってしまえば小便の臭いだ。
便所まで我慢が出来ないからと蕾自身が窓から粗相した、と言うのは先ず有り得無い。
側付きの者達に疎んじられて居たとは言え王の血を引く姫君、幼いながら彼女は恥じらいと言う物を知っている。
その彼女が、幾ら暗いからと言って誰に見られるかも解らない場所で自らそんな真似をするとは考えられない。
……と成れば、当然この状況を作った第三者が居ると言う事に成る。
「おうおう、こりゃ盛大にやらかしてるねぇ……あのお嬢ちゃん随分と思い切った手を打ったもんだ」
少し遅れて窓から跳んで来た沙蘭も俺と同じ結論に至った様だ。
……これは何者かに拐かされた彼女が俺達に追って来れる様に残したメッセージだった。
「……足跡はもう残ってねぇが、臭いはしっかり残ってら。もっと汚ぇ歓楽街の裏でも通りゃ誤魔化せるってのに、態々こんな綺麗な道を選んでる辺り、手慣れた犯行って訳じゃぁ無さそうだねこりゃ」
石畳の上に残された濡れた足跡を追い掛けていく内に沙蘭の酒も抜けてきた様で、その痕跡が俺の目には解らなく成った後でも、自慢の鼻で追跡を続けていく。
流石に濡れたままで本拠地まで逃げる程、頭が回らない様な者では無い様で、無理矢理引剥して丸めたらしい蕾の服がゴミ箱に突っ込まれているのも見つけたが、下半身ぐっしょりでは湯浴みでもしなければ獣の鼻を誤魔化せる物では無い。
「通報もせずに走り出したけど、警備隊の人達に協力を求めても良かったんじゃないか?」
走りながら、ふと思った事を投げ掛けてみると
「ああ、無駄無駄。連中、天下往来での現行犯なら兎も角、明確な証拠が無けりゃ動けないのさ。お前さんが知ってる警察よりもずっとお役所仕事なんだよ虎連中は……」
うんざりとした様子でそんな言葉が返ってきた。
その話に拠れば『タイガードラゴンランド』等と銘打ってはいるが、此処は本来様々な種の獣人達が暮らす小さな村だったと言う。
大した売り物も無い何処にでも有る小さな小さな農村、大きな騒動も無ければ噂になる様な話題も無い。
しかも気候は温暖で、天気も比較的安定している所為も有り、常に口減らしの危険が有る訳でも無く、常に手が足りないと言う程でも無い。
そんな小さな村では、当然一旗上げたいと望む若者達の受け皿に成る筈も無く、どんどん若者が流出していった。
親世代がまだ若い頃は兎も角、農作業が苦しく感じる年頃に成ってから、後継者と成る若者達の大半が村には残っていない事に気が付いた――所謂『限界集落』の完成である。
そんな村でとある一人の虎人が世界を渡る『猫』族を相手にした商売で村おこしをする事を思いついた。
当然ソレを村の皆が是とした訳では無い、結局賛同したのは村の中で商売をしていた竜人の一族と、無数の世界を見た事でこのままでは先が無いと理解していた『虎』人だったらしい。
虎と竜何方も素で強い力を持つ肉食系獣人であるが故に、反対意見を力で押さえ込み、出来上がったのが今の『安心』と『安全』のタイガードラゴンランド……その原型で有る。
そして他の獣人達は此処を去るか、西の農業区画と南の工業区画に押し込められているのだと言う。
「昔はもうちっと色々と融通も効いたし、温かったからこその『安心』と『安全』だったんだけどね。竜人と違って虎人は世代交代が早い種なんだ、警備隊の連中を含めこの街の上の方を占める者達は生まれながらの特権階級なんだよ」
幼い頃から定められた仕事を継ぐ事だけを求められ、それ以上の事をしても全く評価を受ける事は無い、しかも余程の失態を演じなければ処罰される事すら無い……それでは腐るのは当然の事で、そこに外敵と成る様な者が居ないならば自浄作用が働く事も無い。
「……これだけの規模の街を構えるまでに、外敵が全く居なかったと言うのは流石に奇怪しいんじゃないか?」
この街を囲む巨大な城壁は、美味しい果実で有るこの街を狙う外敵が居る事を示しているのだと、そう思っていたのだが、どうやら違うらしい。
「そりゃ追い出された連中とか、押し込められてる連中とか、この街を潰したいって思ってる者達が全く居ないって事は無いだろうさ。けどね……」
と、其処で言葉を切り一つ溜息を吐き……
「虎は鍛えなくても虎なんだよ……生まれつきの兵揃いじゃぁ表立って喧嘩を売る様な者は居なくならぁね。だからこうやってセコい真似で連中の誇る安心と安全に傷を付けたいんだろうさ……、ほらどうやら此処みたいだよ」
声を潜めそう言い、沙蘭が指し示した倉庫の様な建物には『Bar 鼠の穴』とそう書かれて居たのだった。




