三十五 志七郎、凱旋し、血の匂いを感じる事
「ぬぁ! 父上! 突然何をなさいます!」
怒気溢れる父上の拳を受けながらも、微塵も揺らぐ様子なく兄上はそう言い返した。
「やかましいわ! 年端も行かぬ童子にを殺し合いをさせるなど、言語道断じゃい!」
「何を仰いますか、それがしの初陣も五つでござる。それも志七郎の様な立派な出立ではなく簡単な胴丸と安い打刀だけでござった」
「ふぉ!?」
氣を纏って尚殴った手が痛かったらしく、手を振りながらも怒り冷めやらぬ様子の父上、だが次の兄上の言葉でその場が凍りついた。
どうやら父上達は酒盛りで全滅していた訳ではなく、俺達が屋敷を出るより早く出立し、万が一の事があった場合に備え待機しているつもりだったらしい。
父上の思惑としては今日はまだ俺自身が戦うのではなく、兄上が俺を守れる程度の場所で兄上が主体に戦い、何かイレギュラーがあれば直ぐに救出する、という事だった。
だが兄上は自分の時を基準に俺を戦わせる為、最下級の戦場『小鬼の森』へと行ってしまった。
当然そこでは小鬼を数匹狩れれば御の字、今日の所は山菜やら薬草やらを持って帰る事を想定していたと言う。
どちらもが自分の思惑こそが当たり前の対応だと、深い相談を怠っていたために起こったすれ違い……、そして当然小鬼の群れも大鬼の存在も、子供達を助ける為に俺が命を張る事も、双方に取って想定外であり今日の出来事は完全にイレギュラーな事態だった様だ。
言い分も聞かず怒りに任せて殴ってしまった事に、少々引け目を感じているような父上の様子だったが、正直兄上には全く応えた様子は無い。
しかし殆ど手加減をした様子のない父上渾身の一撃を受けても、多少のダメージを受けた程度にしか見えない兄上はどれほど化け物なのだろうか。
「父上は跡取りであり子弟時代も兄上同様騎手として稼いでおったので、鬼斬を生業とするそれがし程には格が高くないのだ。氣の力は概ね格に比例するからな、武具を用いたならば兎も角、素手であれば小突かれた程度のものでござる」
からからと笑いながらそう言う兄上の様子に、父上も毒気を抜かれた様に深いため息をついた。
半ば大名行列のような状況で屋敷へと戻る道中、俺は父上に問われるままに今日の出来事を話した。
最初は命を奪う事を躊躇し小鬼を斬れなかった事、山菜や薬草を取った事、子供達を助ける為に覚悟を決めた事、大鬼と一騎打ちをした事、父上はそれらを相槌を打ちながら静かに聞いてくれた。
一騎打ちの話をする段では再び怒りを見せるかとも思ったのだが、決して間違った判断という訳では無かったようで、一瞬考えるような仕草を見せたものの、
「よくその状況で志七郎に命を預けると言う判断が出来たものだ、荒事に関してはもはや一人前以上じゃな……ようやったわい」
と、いつもならばうつけ者扱いの兄上に褒め言葉とも取れる事を口にした。
「父上は志七郎に対し過保護過ぎでござる。此奴は大鬼を一人で討ち果たすほどの豪の者、もっと厳しく且つ自由にさせてやるのが将来の為、とそれがしは愚考致します」
だがそれに対し兄上は喜ぶような事は無く、寧ろ父上に対して不満を述べる物だった。
「……なんじゃ? わしがお主を甘やかさなんだ事が不満か?」
からかう様な口調で言う父上は、完全にいつもの調子を取り戻している様にみえる。
「何を馬鹿な事を……、志七郎は尋常な童子ではござらぬ。過去世の事を鑑みればそれがしより兄上よりも年長の心を持っているのです、己で判断し様々な事を好きにさせてやる方が此奴の為、本心よりそう思っただけでござる」
「相変わらずお主は見目に囚われず物事の本質だけをよく見過ぎておるな……、そんな事は解っておるがそれを理解せずただの賢しい小童と見る者が世の中の大半なのじゃ」
そう、子供に言い含めるような口調で言う父上の表情は、前世でも子育てをした事のない俺には理解できない苦悩に満ちた物だった。
屋敷へと帰り着く頃には既に日は暮れており、家族揃って俺達を迎えてくれ、皆が皆口々に無事に帰ったことを喜ぶ言葉を掛けてくれたが、誰一人として初陣の詳細を尋ねる者は居ない。
父上が事前に想定していたような鬼斬り見学ツアーではなく、俺自身が実戦を経験した事が甲冑に付いた無数の傷や汚れから気が付いたのだろう。
今でこそ豪傑そのものである義二郎兄上すら、初陣には苦い経験が有るというのだ、皆が俺に気を使うのも無理のない事と思える。
一番年下で当時を知らない睦姉上ですら触れないのは、事前に言い含められていたのか、それともそれだけ俺の様子が酷いものだったのか……。
多くの命をこの手で奪った事に後悔は無い……と思う、小鬼達を斬ったあの嫌な感触とは違い、大鬼の死に様は俺がそれを後悔する事が逆に侮辱的な事だとも思える。
だがそんな俺の考えとは裏腹に、夕食を前にしても食欲は湧かず、必死に込み上げるものを噛み殺し席を立った。
母上が心配そうに俺を追いかけようとしたが、それを父上が制止するのが見えた。
うちに居る男達では信三郎兄上以外は実戦経験が有るので、俺の状態は皆が理解しているようで、家臣達の誰もが自分も通った道だと追いかけようとする者は居なかった。
前世も含めて死に触れる事が無かった訳ではない、むしろ事件や事故の被害者など一般人よりも余程多くの死体を見て、ある程度は慣れているつもりだった。
……しかし、自分の手で殺めるのは、例え相手が人間では無い明確な敵であっても想像以上に重い物だ。
江戸に戻るまでや家路を辿る間は、色々と考えたりする事も有ったのであまり気にならなかったのだが、こうして此処が安全圏だと思うと、食事を出される前に風呂に入った筈なのに全身から返り血の錆臭さが漂っている気がする。
その臭いを消したくて、着物を脱ぎ褌1枚の姿になると庭の池に飛び込んだ。
深い所は大人ならば精々胸位の深さだが、俺にとっては全身が十分に沈む深さである。
息を止めたまま水中から水面を見上げると、その向こう側に月が随分と明るく輝いているように見えた。
水の中は濁って居らず月の光は殆ど素通しで湖底を照らしている。
ドブの臭いの方が血の臭いよりはマシと思い飛び込んだのだが、池の水は殆ど臭わず此処には全く淀みが無いのだろうと言う事が感じられた。
思った以上に水中は居心地が良かったのだがそろそろ苦しくなって来た、そう思い水を蹴り水面へと向かう。
「おょ? あややや、志七郎君。こんな所で何してるのー?」
水から顔を出すとそこは智香子姉上の住む離れの側だった、どうやら池の反対側へと泳ぎ着いてしまったらしい。
「智香子姉上……いえ、別に……」
そういえば、帰って来た時には居たが夕食の席には居なかったな……、たぶんいつも通り簡易的な物で食事を済ませ、何かを作って居たのだろう。
「丁度良かったの。志七郎君、今夜は辛いだろうと思って良い物を作ってたの」
「良いもの……ですか?」
「なの、初めて鬼と戦った子は大体酷く憔悴するの。そんな時に使うアイテムを用意したの、結構いろんな所から依頼されて作る物だから安心して使って欲しいの!」
誰もが通る道でありそれに対処する方法は自力で乗り越えるしか無い物だと、そう思っていたのだが姉上の言葉はそれに反するものだった。
色んな所から依頼される、その言葉は自分が特別弱い存在ではない、とも思え手招きする姉上に俺は大人しく付いて行くことにした。
離れのこの間見た作業場ではなく、ベッドが置かれた寝室と思われる部屋に通され、いつも使っているような手拭いではなくタオルを渡される。
「さぁ、志七郎君、姉様が付いていてあげるから此処に寝るの」
全身の水気をひと通り拭き取ると、姉上はベッドの横に置かれた椅子に座りそう言った。
「じゃぁ、お休みなの。いい夢見てね……」
言われた通り横になると、甘いなんとも言えない香りがして、俺の意識はそのまま深く落ちていった。




