三百六十七 二人と一匹、管を巻き姿消える事
「ったく! だーれが女衒か人買いか……だよ! 儂ゃお天道様に顔向け出来ねぇ様な真似なんぞ一度もした事ぁねぇっつーの! おう! 親父! もう一杯!」
余程腹に据えかねたのか、憤懣遣る方無いと言った様子で怒声を上げ、飲み干したジョッキをカウンターテーブルに叩き付ける様に置いた。
この旅の道中、旺盛な食欲を見せ様々な物を一緒に食べてきたが、沙蘭が酒を呑んでいるのを見るのは初めてだ。
「……あんまり無茶な飲み方は良くねぇなぁ『旅猫』の。嫌な事が有ったなぁ解るがツレの子供達がドン引いてるじゃねぇの」
言われた通りお代わりのジョッキを差し出しながら、諌める様な言葉を口にしたのは、やはり沙蘭の顔馴染みだと言うこの宿兼酒場の店主をしている老竜人で有る。
その場で散々否定の言葉を重ねた俺達だったが、結局あの虎人はその場で信用し解放する様な事はせず、縄こそ打たれ無かった物の完全に容疑者の連行と被害者保護と言った体で、詰め所まで連れて行かれる事に成った。
そして無駄に長い取り調べの後ようやっと納得してもらい無罪放免と釈放されたのは、日もとっぷりと暮れた後の事で有る。
幸いと言って良いのか悪いのか、この店は昔は繁盛していたが、今では閑古鳥が鳴く事も多く成ったとの事で、俺達が泊まる部屋も確保出来たし、食事をする席にも空きが有った。
ハッキリとは言わなかったが沙蘭に行われた取り調べは中々に苛烈な物だったらしく、合流しこの店へとやって来た時点でかなり疲れた様子を見せていたので、荷物は俺達で部屋へと運ぶ事にした所……ご覧の有様で有る。
店主の言葉を気にした様子も無く一気に煽り、
「てやんでぇ! 馬郎! 畜生! てやんでぇ……馬郎……畜生……」
等と此処には居ない誰かを罵る言葉を只管に繰り返して居た。
「おっ母も酒さ呑むと荒ぶる質だったけんども、沙蘭さもえらい荒れてるだぁなぁ……。酒ってのは本におっかねぇ物だぁなぁ……オラは絶対呑まねぇだよ」
普段の沙蘭とはあまりにも違うその姿に……と言うかそんな変化をもたらした酒に恐れを抱いたらしい蕾は、俺の背に隠れる様にしてそんな言葉を口にする。
「いや、アレは酒の所為だけじゃぁないよ。余程酷い事を言われたんじゃないかな?」
俺達は被害者と言うような扱いで別室だったので直接目にしては居ないが、他の目や耳の無い隔離された取調室では、時に罵倒や罵声を浴びせかけられ、下手をすれば拷問にも近い様な事が行われても不思議では無い。
俺自身、物証の乏しい事件で散々苦労した挙句やっと浮かび上がった容疑者から、真犯人で有ると言う供述が欲しくて声を荒げた事位は一度と無く有る。
けれども『意思に反する供述を強要してはならない』と法で明確に定められている前世の世界では、怒声一つで懲戒処分を受け無いとも限らない。
故に刑事部に配属されたばかりの若手の頃ならば兎も角、ある程度経験を積んでからは激情を飲み込み、理性的な取調べを心掛けて来たのだ。
だが此処ではどうなのかは知らないが、少なくとも『江戸』では拷問が当たり前の様に行われていると言う話は聞いている。
直接会ったのはほんの数人では有るが、この街の警備隊だと言う虎人達は完全な善人とは思えない。
裏が有る……とまでは断言出来ないが、色々と胡散臭い物を感じない訳では無いのだ。
そんな連中が幼児誘拐等と言う凶悪事件の被疑者に対して、口にする事も憚れる様な暴言の一つや二つぶつけて居ても何ら不思議は無いだろう。
「ったく! 誰が雄か雌かも分からねぇ皺々の梅干しだってんだい! 儂等化物にゃぁ歳なんざぁ関係ねぇ! 寿命も老化も何にも無ぇってぇの! 儂ゃコレでも旅猫小町なんて言われた事も有ったんだよ!」
……性別なんてもう忘れたなんて前に言ってたけれど、それでも梅干し婆ぁ扱いは腹に据え兼ねた様だった。
大分遅めの夕食――ヴルスト多めのミルクコンソメスープに、クリームソースのパスタと葡萄酒にも麦酒にも合いそうな品だった――を済ませた俺と蕾は早々に部屋へと引っ込んだ。
明日も早い内に出立し少しでも先の世界へと進む為、さっさと寝る事にしたのだ。
ちなみに沙蘭は他に客の居ない店内で、店主と酒を酌み交わしもう暫く呑む、と言う事だったので下に置いて来た。
子供二人と猫一匹ならば寝台一つで事足りるので、旅費を節約する意味も有って普段はシングルを取る事が多いのだが、久し振りに顔を出した沙蘭に対する歓迎と俺達しか泊り客が居ない事も相俟って、同じ料金でツインに止まらせて貰える事に成ったのだ。
しかし……ソレがこんな面倒を産むとは全く思っていなかった……。
「おい! 坊主、起きろ。嬢ちゃんは何処行ったんだ?!」
久方振りに一人布団だった事も有ってか、人の動く気配にすら気づかぬ程に熟睡していた俺を、部屋へ戻ってきた沙蘭が叩き起こしたのだ。
「ん……? 隣のベッドで寝てるんじゃないのか? 俺が寝付くよりは早く寝息を立てて居たと思うけど……」
眠い目を擦りながら身体を起こすと、沙蘭の言葉通り蕾が寝ていた筈のベッドは蛻の殻だった。
「居ねぇから聞いてんじゃねぇか……温もりが無ぇ。こりゃ居なく成ってから大分経ってるぞ」
彼女が寝ていた場所に手を当て、既に冷たく成っている事を指摘する。
その様子を見る限り、既に酔は冷めている様に見えた。
「……便所にしては遅すぎるって事か」
蕾が夜中に催して起きるのは比較的よく有る事では有るが、ソレに気が付いたとしても態々俺が付き添ったりする事は無い。
とは言え、戻って来るまでは起きて待つ様にしているのだが……今日は気が付く事すら出来なかった。
野宿が常の遊牧民では有るが、用足しは定められた場所でする様躾られているらしく、其処らで野○○をする様な事は無い。
彼女自身、夜中に行く事が多い自覚は有る為か、宿泊先では先ず便所の場所を確認する習慣が身に付いて居たはずだ。
「一階の便所まで下りて来てりゃ下で呑んでた儂等が気が付かねぇ筈がねぇ……っち! 親父に聞いた話……マジか!?」
焦った様子で吠える沙蘭、その言に拠れば今このタイガードラゴンランドでは、その『安心』と『安全』と言う売り物を揺るがす一つの大事件が大きな噂と成っているらしい。
だからこそ沙蘭は警備隊に拘束され、苛烈な取調べを受ける事と成ったのだ。
それは……子供に対する誘拐……。
「話じゃぁ、居なく成った子供の保護者なんかが騒いだりしてる様子も無く、噂の域を出ねぇ……って事だが、真逆マジ何じゃねぇだろうな?」
まぁ並の警察犬より余程鼻の効く沙蘭なので追跡は難しくは無い、そう思っていたのだが、二度三度と鼻をヒク付かせ……
「……っち! 飲み過ぎた……鼻が効きやがらねぇ……」
と吐き捨てた。
「……探しに行かないと不味いな……何か他に手掛かりは無いか?」
緊急事態と呼んで間違い無いだろうその状況に、俺はベッドから降り草履を突っ掛け襦袢を羽織る……流石にトランクス一丁で探しに行く訳には行かない。
「靴は無いな……まぁ当たり前か……」
ベッドに上がる時は兎も角、室内でも靴を脱ぐ文化は取り敢えずこの世界には無いらしいく、一応備え付けのスリッパも有ったが彼女がソレを使った様子は無い。
「ドアの鍵は? 俺達が寝る時には掛けてた筈だけど……」
鍵が無くても部屋の中からで有れば普通に掛けれる様に成っていたので、鍵は沙蘭に持たせて居た筈だ。
「いや儂が上がって来た時には掛かって無かったぜ。お前さんがそんな不用心な真似する訳ゃ無ぇし……何か有ったと思ったから酔いを覚ましたんだしな」
と言う事は、彼女が部屋を出る為に中から開けたのは間違い無いだろう。
「これは……面倒な捜査に成りそうだな……」
ぱっと見る限り碌な痕跡も見当たらないこの状況に、俺は何故起きる事が出来なかったのかと唇を噛むのだった。




