三百六十三 志七郎、別れを見守り罠回避する事
世界と世界を繋ぐ細い細い『雲の道』
それは沙蘭の妖力で編まれた物で有り、幾ら大化け猫の彼女でも遠い遠い異世界まで無理なく繋ぐと成れば、妖力を節約し細く長く繋いで行かねば、万が一予定が狂った時に安全な場所まで避難する事が出来ない可能性が有る。
故に蕾王女は、旅立つに当たり己の愛馬を残して行かねば成らなかった。
その馬は生まれ落ちた時から、父王の厩番の手を借りながら彼女自ら面倒を見、体調を崩せば付きっ切りで看病し、馴致――人を背に乗せ手綱に従う事に慣らす教育――を施す際にも出来る事は全て自身で行った、末子で有る彼女に取って弟妹に等しい家族である。
草原の民が飼育する馬達は十歳を越え衰えが見え始めれば処分される、ソレは無限の旅路を生きる遊牧民である以上決して避けられない事だと言う。
だがただ殺され捨てられる事は無い、その肉は民の血肉となり、その骨や筋は弓や戟の材料となり、皮や毛は彼らの身を包む衣と成る。
彼らにとって馬は大切な家族であり其処に情が沸かない訳が無い、それでもその先旅路の足を引っ張り続ける老馬を連れて行き続けるのは、他の家族を危険に晒すが故に、涙を呑んで殺めそしてその身一切を無駄にしないのだ。
「オラが居ねぐなっでも元気でな。叔父ちゃんや兄ちゃんに可愛がって貰うんだぞ……。お前さの事たぁ絶対忘れねだ」
彼女が相応の歳で有り、その馬とも長い時間を連れ添い、残して行っても締めるだけ……と言うならば、多少その時を早める事もしただろう。
しかしその馬は、未だ衰える事等有ろう筈が無い馴致を終えたばかりの一歳馬、絞めて血肉や装身具に変える訳には行かない。
故に彼女は涙を流しその別れを惜しんで居た。
「俺や兄達にはきっぱりばっさりと別れを口にしたというのに……まぁ愛馬は夫婦よりも長くの時を共にするもの……仕方がないと言えば仕方がないのだろうが……」
その姿を複雑そうな表情で見つめる怒乱麻。
両親を失った今、顔を合わせれば厳しい顔付きで己を威圧する――実際には全く逆だったが――叔父とは比べるまでも無く掛け替えの無い存在だったのだろう。
頭では解っているが感情は別物だと、これから草原の覇者を目指す者の哀愁漂う後ろ姿を見て、俺はそう思うのだった。
このまま待っていては日が暮れてしまう、そんな事を誰かが言い出すよりも早く、蕾は涙を拭い俺達へと向き直る。
「んだば行くだよ。何処まで行くにせよ、暗くなる前に寝床さ見つけなな? オラは野宿慣れでっけど、やっぱりちゃんとした寝床の方が良いばさ」
空元気も元気の内、ソレが常となってしまっては心を病む事も有るが、落ち込んでいる余裕も無い状況では無理にでも笑った方が良い場合も有るだろう。
両親を喪ったばかりだと言うのに気丈にも己自身の足で、何処とも知らぬ場所へと行こうと言う彼女が、最期の拠り所とでも言うべき愛馬と別れるのだ。
それが辛く無い筈が無い。
にも変わらず自ら旅立ちを促し、多少引き攣っては居るものの笑みを浮かべ此方を見やるその姿は、流石は『王女』の称号持つ者だと俺の目には映った。
「……一度外へと踏み出せば、もう二度とこの世界には戻って来れないよ? 良いんだね?」
旅立ち前の一服を吸い終えた沙蘭が、煙管から吸い殻を落としつつ問い掛ける。
その言葉は蕾に、そして念を押す様に俺に向かって放たれた。
幼いとはいえ覚悟を決めた者の決定に否と返すのは、武士の……俺の矜持に反する。
良識有る大人の判断とは言い難いが、今の俺にはそちらの方が正しいのだとそう思えたのだ。
「まぁ……貰う物は貰ってるんだし……しゃぁ無いか……んじゃ行くぜ? 王女様の言う通り日が暮れる前に次の寝床に着きたいからなぁ」
無言で頷く俺達二人の子供を見やり、海外ドラマの様な仕草で肩を竦め溜息を吐き、そう言い放つ。
「あ……オラもう王女じゃ無ぇだ、怒族の娘でも無ぇ……。オラはもう只の蕾だでな。そだ! お前さの世界の言葉でオラに新しい名前さ付けるだよ! お前さ何ぞ妙な術で喋ってるだで? 口の形と言葉さ合ってねぇもんな!」
歩み出し適当な天幕の物陰を利用し猫の裏道へと踏み込むと、彼女がそんな事を言い出した。
超常の存在が居ない世界の住人で有る彼女だが、この裏道までは何度か入った事も有ってか驚いた様子は無い。
と言うか彼女が言った通り、幾つもの別世界でも会話が出来るのは、沙蘭が俺に掛け続けている『選文妖語』と呼ばれる妖術のお陰だ。
知恵ある種族が意思を持って放った言葉を、その意味する所や意図そしてその文字面さえも誤る事無く聞き取り、そして此方が放ったソレも同様に伝える……知恵を持つ妖怪の大半が使う事が出来ると言う物で有る。
肉体の構造的にどう頑張っても人間の言葉を発する事等出来ない筈の妖怪と、普通に意思疎通が叶うのはその妖術に依る物なのだ。
自身に掛けるので有ればその難易度は然程高い物では無いらしいが、ソレを他者に適用し続けるのは、かなりの高等技術だと言うのは、此処までの道中で聞いた話で有る。
「成る程ねぇ。術の効果は間違い無い筈なのに、妙に言葉が聞き取り辛いと思ったが……。真逆、儂の術を跳ね返す程とは……こりゃ良い拾い者だったかも知れねぇぜ?」
術の練度が低ければ、片言でしか伝わらなかったり、訛を伴って聞こえたりする事も有るのだが、沙蘭程の実力でソレは有り得ない。
にも関わらず蕾の言葉が俺に慣れ親しんだ物に聞こえなかったのは、術の効果が足りなかったのではなく、無意識の内に彼女が妖術に『抵抗』していた事に依る物だと言う。
そしてソレはこの神秘薄い世界に有りながら、妖術や魔法等の超常の力に対する高い潜在能力を持つ者だと言う事を示しているのだそうだ。
彼女の才能がどの様な術に適性が有るのかは解らないが、ソレは神秘が限りなく濃い『俺の世界』へと戻れば知る術は幾らでも有るだろう。
向こうでは今迄の術者締め出し政策とでも言うべき物が撤廃され、積極的に育成登用が行われている筈だ。
優れた術者に成る素養が有るというのであれば、彼女が進む事の出来る道は幾らでも有るだろう。
猪河家に連れて帰る以上、『自分の小遣い自分で稼げ』が彼女にも適用される可能性は極めて高い。
弓や剣と言った武器を扱う技術も有るようだが、氣を扱う技術に開眼しなければ何時かは頭打ちに成る。
だが術者と成れば氣を扱う事が出来ずとも、小遣い銭以上の稼ぎを得る事は決して難しい話では無い。
それに武家に嫁ぐならば、優れた武勇は立派な嫁入り道具なのだ。
まぁ……強すぎるが故に『己よりも強い嫁子は御免被る』等と言われるケースが無い訳では無いが、そんな腑抜けた事を公言すれば武士の名折れと後ろ指を刺される事も間違いない。
それに江戸の男余り女足らずは武士も市井も大差ない、余程の事が無ければ行き遅れは兎も角『行かず後家』と言うの極めて稀なケースで有る。
と……其処まで考えた時点で何故か智香子姉上の笑顔が脳裏を過ったのは何故だろう?
……この件はこれ以上深く考えるのは、色々と心臓に良く無さそうだ。
兎角、今は彼女の名前……と一瞬考えた所で、お花さんから受けた授業の内容を思い出した。
「って、一寸待てよ。魔法の素養が有るかも知れないなら俺が名前を付ける訳には行かない、魔法使いに取って名付けは一種の契約だからな」
魔法使いにとって約束や契約は絶対で有る、此処で俺が彼女にソレをすれば……彼女を嫁に取る以外の選択肢が全て消える事にも成り兼ねないのだ。
知らぬ事とは言え、片足を人生の墓場に突っ込みかけた事に、背筋の凍る様な寒気を感じながらも、ソレを回避出来た事に深い、深い安堵の溜息を吐くのだった。




