三百五十六 志七郎、甘味を飲み動乱の種を知る事
濡れた着物を脱がせ、乾いたタオルで身体を拭き、予備のシャツを着せ、湯を飲ませ身体を温める。
前世でも迷子の保護をした事は有ったが、此処まで酷い状態では無かったし、その子は俺の顔を見るなりギャン泣きするので、結局母親が見つかるまで直接俺が面倒を見る様な事は無かった。
今回もソレら措置を施したのは俺では無く沙蘭で有る。
何せ絞らずとも水の滴る様な状態の、しかも触れれば凍りつきそうな程に冷え切ったその子供を担いで来たのだ、俺の服も随分と濡れ、そして体温を奪われ、さっさと着替え無ければ此方も風邪を引く、そんな状態だったのだ。
可能ならば暖かい風呂にでも入りたい所だが、野宿の場にそんな物が有る訳も無く、沙蘭が折り畳みケトルで沸かして置いてくれた湯が有るだけでも御の字で有る。
それでも乾いた服を着せられ、火に当たりながら温かい湯を口にした事で、多少は身体に温もりが戻ったらしく、先程までの真っ青な顔色とは違い少しでは有るが顔に血の気が戻っていた。
「……で、君は誰? どうしてあんな所でずぶ濡れで泣いてたんだい?」
まだ完全に落ち着いたとまでは言えないのは一目見れば解る。
話を聞くのは落ち着いてからでも良いのかも知れないが、こんな小さな子供がまだ日も昇りきらぬ早朝に、親と離れ離れに成っている時間は少しでも短いほうが良いのは間違いない。
そう考え俺は出来るだけ威圧感を与えぬ様、努めて優しく問いかける。
だがその子から明確な答えは返って来ずマグカップを握り締めたまま、一瞬の沈黙の後表情を歪め……声も無く泣き出した。
声を上げる事もせず頭を振りながら啜り泣くその様子を見る限り、どうやら俺の発言は間違いだった様だ。
「お前ぇさんは性急過ぎるんだよお馬鹿だねぇ……。慌てなくて良いさ、先ずはソレ飲んで甘い物でも食って落ち着きな……話なんてソレからで良いんだよ……」
と、そう言って焚き火の中から飯盒を引っ張り出す……当然ソレは俺の物で有る。
言わば今は緊急事態では有るし、勝手に使われたなんだ等と言うつもりは無い。
湯を沸かしていたケトルだって、俺とあの子供が湯を飲んでいるマグカップだって俺が持って来た物なのだし、必要なのに出し惜しみするのは阿呆のする事だろう。
「ほれ、お前さんも食いな。どうせこの子を元いた場所まで送ってくって言うんだろ? ならちっと早いけど朝飯にしちまおう」
言いながら、アルミの皿に盛られた料理はご飯では無く、何やらドス黒い汁物だった。
飯盒を使っているのだから、当然の様にご飯を炊いているのだとばかり思っていたが、考えてみれば俺の荷物に米は無かった筈だ。
ソレが何なのかは訝しみながら匂いを嗅げば、ほんのりと薫る小豆の甘い香り……小豆の粒が無い漉し餡の汁に餅や白玉では無く胡桃に似た木の実が入っていたソレは、どうやらお汁粉(もしくは善哉)の様で有る。
木の実はあの『夜市の世界』で買った覚えが有る、だが小豆の様な物も砂糖も荷物には無かった筈だが、どうやってこんな物を拵えたのか。
疑問に思いながらも、温かく甘い香りのするソレに口を付ける。
うん……甘いけれども、決して大甘過ぎると言う事も無く美味い、有り合わせの材料だけでしかも然程の時間も掛けずにコレだけの物が食べられれば十分過ぎるだろう。
俺が美味そうに食べているのを見て安心したのか、あの子もおっかなびっくりとした様子では有るが汁粉を一口食べ、その味が余程気に入ったのだろう、一心不乱に掻き込み始めた。
「おやおや……気に入ってくれたみたいだネ。けど、あんまり慌てると火傷するよ、もちっと落ち着いて食いな。まだ有るよ、おかわりは要るかい?」
優しい声でそう声を掛けると、あの子は無言で何度も頷き肯定の意を示す。
「ああ、お前ぇさんも遠慮無く食いなよ、これの材料はお前ぇさん物なんだから」
言いながら沙蘭が口に入れた物……ソレは俺の荷物の中に有った『羊羹』だった。
……いや、まぁ、土産兼非常食なんだから、別に良いんだけどね。
湯を飲み、汁粉を食べ、身体が温まったら大分落ち着いた様で、あの子は訥々と自分の事を話し始めた。
この子を拾った川の上流に広がる草原を支配する『馬族』の王『 馬頼王』の末娘で、名を『怒蕾王女』だと言う。
うん……女の子なら、俺が着替えさせたり拭いたりしなかったのは正解だったな、幼女趣味は無いし別段劣情を催す様な事も無いだろうが……うんそれは兎も角、話を戻そう……。
彼女達は一処に定住する事無く遊牧生活をしている騎馬民族で、幾つもの部族がこの辺りで生活しているのだそうだ。
その中で最も力を持つのが馬族で、王で有る馬頼王は支配下に有る民族の娘達を集め後宮を作り、そこで何人もの子供を設けているらしい。
彼女の母は怒族の長の娘で戦士達を率いる立場に有ったが、馬族との戦いの中で捕らわれ半強制的に妃とされた者で、彼女の存在自体が怒族が馬族に屈服した証なのだと、聞かされ育ったのだと言う。
子供に聞かせる話では無いな……と不快に思いながらも敢えて彼女の話を遮る事はせず、静かに話に耳を傾ける。
彼女が群れから離れ一人川に流されて居たのは恐らく事故では無いと言う。
馬族に屈したままで居る事に耐えられなかった怒族の若者達の手で拐かされ川に放り込まれたのだ、と彼女は推測している様だ。
とは言え仮にも王の娘で王女の名乗りを許される者だ、護衛の一人や二人当然居たのだが、彼女はそれらの隙を付いて拐われたと言う訳では無いらしい。
母の出身部族で有る怒族の若者達や、彼女の兄数人と共に遠乗りへと出掛け、その先で野営をする事と成ったのだ。
王女とは言っても遊牧民の生活はほぼ常に野営をしている様な物だそうで、彼女自身寒空の下で眠る事には慣れている。
それ故普段通りの事と熟睡していた彼女は、冷たい川に放り込まれて初めて目を覚ましたのだそうだ。
「寝てたオラを川に放り込んだのは、多分おっかぁの弟の 怒乱麻……」
『草原の虎』の渾名を持つ叔父はその異名の通り苛烈な性格をしており、きっと馬頼王の下風に立ち続ける事に我慢成らなかったのだろう……と、そう確信しきった様子で口にした。
だが彼女の話が全て真実だとするならば、色々と腑に落ちない点が有る。
彼女を殺める事が目的ならば、態々川に放り込んだりせず、その場で命を奪う方法など幾らでも有るだろう。
事実こうして生きているのだから殺害方法としては余りにも不確実、事故を装う為に……と言う線で考えてみても、火事なり落馬なり他にも方法は有るし、その場で死んだ事を確認できる分確実である。
事故だと見做されたとしても、主君の子を自身の管理下で失う様な事が有れば、その責任は率いる者が取らねば成らない。
遠乗りの一団の責任者は怒乱麻では無く、彼女の兄で有る王子の一人だそうで、面従腹背の計略を巡らせ、彼女を失った責任を王子に押し付ける……と言うのも一寸無理が有るのではなかろうか?
……そもそも子供が言う話だけを丸呑みにして、判断を下すと言う事自体が間違えている様に思える。
判断材料が足りない状況で無理に判断を下そうとすれば、その結果は絶対に正しい物に成る事は無い。
「何方にせよ先ずは、この子の仲間を探さないとな……」
色々と面倒な拾い物をしたもんだ……と思いながらそう呟く、
「……取り敢えず、一番大きな群れに合流すりゃ良いんだから、儂に任せておきな。直ぐに連れてったげるからさ」
と、沙蘭は自信満々の様子で、そう言って自らの胸を叩くのだった。




