三百五十一 志七郎、安宿を経験し束の間の安らぎに寝過ごす事
鎧戸の隙間から差し込む柔らかな日差しが顔に当たるのを感じ、ソレをきっかけにした訳では無いのだろうが、急速に意識が浮上していく。
窓の外からは小鳥の囀りと、それよりも遥かに小さく聞こえる街の喧騒が、此処が『あの世』では無く、人の営みが息衝く場所で有る事を思い出させる。
暖かく柔らかな寝台の上で目を覚ました俺は、自分が思った以上に深く安らかな眠りを得た事に驚きすら感じていた。
こうして『宿』で一夜を明かすのは、別に今回が初めてという訳では無い。
地獄に包まれる様な形で存在していた前世の世界が特殊なだけで、他の大半の世界は星界から『猫の裏道』を通って人里に降りる事が出来る為、星界に出てからは毎夜――俺達の体感時間上での話だが――宿を取り野宿はして来なかった。
無論、ソレら世界に共通する『通貨』が有る訳で無く、宿賃も食事も場所に依っては水すらも『物々交換』に近い形で手に入れていたのだが、俺の背負う大荷物を見て色気を出す馬鹿が全く居ない筈が無い。
初めて宿泊した『水と大地が汚染された荒野の世界』では、そう言う危険な寝床を何度も通る事に成ると俺に教える為、沙蘭は敢えて顔馴染みの宿を避けたのだそうだ。
その結果……なんともまぁ最悪な事に、宿の亭主自身が俺達の寝込みを襲い『そんな客は居なかった』を決め込もうとしたのである。
幸い亭主もその手下達も、手慣れた手合では無かった事と、安普請故に大きな足音を響かせてくれた事で、さしたる苦労も無く叩きのめし事無きを得た。
その次にトラブルが有ったのは『骨と鋼と狩猟の世界』と呼ばれる場所で、沙蘭の顔馴染みだと言う黒猫が営む宿に泊まったのだが、荷物を部屋に下ろして食事へと向かった隙に空き巣狙いを仕掛けた他の泊り客が居たのだ。
運良くと言うか……当人に取っては運悪くとなるのだろうが、お子様が背負う荷物がそんな重い筈が無いと決め込んで持ち逃げしようとした犯人は、腰をやってそのままお縄と相成った。
「やっと目を覚ましたかぃ。もう昼は回ってるぜ? 疲れが溜まってるだろうと思って寝かしといたが、流石に寝すぎだろうよ」
今一つ冴えない頭をゆっくり巡らせながら、そんな事を思い出していた俺に、開け放たれた別の窓の下で煙管を燻らせていた沙蘭がそう声を掛けてきた。
猫一匹を連れた大荷物を背負った子供なんてのは、何処から見てもカモにしか見えない事は容易に想像は付く。
それ故、沙蘭が馴染みの宿だと言っても、気を張って警戒していたつもりなのだが、流石に連日とも成れば無理が来たのだろう。
これまでに比べ明らかに高額な対価を要求するその宿――とは言え別段高級ホテルの類ではなく、今までが安すぎる所謂『ドヤ』の類だったのだが――は、部屋その物が数室しか無い上に全ての入り口が一階から見える位置に有り、下手な真似は出来そうに無かった。
しかも此処の寝具はしっかりと洗濯されて居る様でほのかに石鹸の香りが鼻を擽り、何時洗ったのかも解らず、ノミやシラミが跳ねているのが見て解る、すえた臭いのしたソレまでの物とは比べるのが申し訳無く成るレベルだったのだ。
……結局の所、安全で快適な眠りは相応の金を出さなければ手に入らないと言う事なのだろう。
「……余裕が有ると言う程じゃぁ無いですが、俺も相応に代価と成り得る物は持ってますから、貴方基準で宿を選ぶのは辞めよう」
俺は決して貧乏旅行に慣れたバックパッカーの類では無い、金銭で余裕が買えるなら、まぁ安い物と言える筈だ。
「そんな荷物一つで随分と悪目立ちする物なんだなぁ……。本当、人間って奴は随分と欲深い物だぁねぇ……」
その日の飯と塒が有れば文句など無く、時折木天蓼なり酒なりで酔えればそれ以上に幸せは無い。
そう言い切る沙蘭の目で見れば、財貨を蓄え、ソレを奪う為に他者を容易に傷付ける人間と言う生き物は業深い物と写っても仕様が無い事だっただろう。
「ま、今日これから出立するってのも微妙な時間だしな、もう一泊してきっちり身体を休めて置こうぜ? 此処は飯も美味かったしな」
灰皿に吸い殻を落としながら言う沙蘭の目の前のテーブルには、空に成った二人前の食器が置かれて居る。
……俺を起こさなかったのは、朝飯を独り占めする為だったのでは無かろうか?
「ごめんねぇ、ランチ売り切れちゃったんだわぁ。その代わり夕食には一品サービス付けるから外で食べてきてくれるかい?」
身支度を整え取り敢えず腹拵えをと一階の食堂へと降りると、白と黒の毛皮が特徴的な女将さんが申し訳無さそうにそんな言葉を掛けてきた。
一泊二食付きのこの宿、一階部分の食堂は宿泊客だけで無く近隣住民も、他の宿の客も利用できる様に成っている様で開いている座席は無く、仕込んでいた食材も概ね出尽くした後だったらしい。
ぱっと見る限り、ランチのメニューは日替わり一択の様で、皆美味しそうに同じ物を口に運んでいる。
今日の日替わりランチは鶏の唐揚げに温野菜の盛り合わせ、白濁色のスープに白い飯……、と比較的アジアな雰囲気香る、俺にとっても慣れ親しんだ感じのメニューだった。
「だから寝すぎだって言っただろう? まぁ、この世界……つーかこの町は比較的大きな宿場だからな、此処以外にも美味い物は幾らでも有るさ。言う通り外で屋台飯を楽しもうぜ? 此処なら荷物を預けたままでもまず問題にゃぁ成らねぇしな」
図らずも朝飯を抜いた形に成った俺の胃袋が悲鳴を上げたのを聞きつけ、沙蘭は嫌らしい笑みを浮かべてそう言い放つ。
聞けばこの店の店主夫婦は何方も、若い頃には名の知られた武術家だったそうで、大きな隊商の護衛として世界を旅し、幾つもの盗賊団を壊滅させ、そうして得た資金を元手にこの店を持つに至ったのだと言う。
武術家としての生活を引退したのは、とある盗賊団との戦いの際、矢を射掛けられた女将さんを庇った亭主が矢を膝に受け種族特有の巨体を支え戦うのが困難に成ったかららしい。
その傷は完治したとは言い難い物の日常生活に不自由は無く、また無傷の女将さんは今でもこの町全体で上から数えた方が早い実力者なのだそうだ。
しかも彼女に鍛えられた子供達がこの店の警備を担当していると言うのだから、その安全度は下手な両替商よりも数段上なのだ……と、沙蘭が訳知り顔で教えてくれた。
その台詞に押されてと言うか……何方かと言えば胃袋に促され、入り口に取り付けられた小さな西部劇風のドアを押し開き外へと出る。
その言に拠れば、此処は幾つかの大きな街道が交わる交易の要所で有り、東西南北から様々な食材や食文化が持ち込まれる『食の都』らしい。
あの女将さんを見ても解る通りこの世界には獣人の類も多々暮らしているとの事で、界渡りをする猫達にとっても、その正体を隠さずに宿を取り食を楽しむ事が出来る、この近辺世界では稀有な場所なのだそうだ。
当然ながら此処にだって沙蘭の行き付けと言える様な安宿は有るのだが……
「あっちは人間お断りの店だからな。まぁこの世界にゃぁ手癖の悪い猿人も居るし、逆に此方の店で正解だったかも知れねぇな。飯も美味かったし」
と、そういう事の様だ。
「屋台の方は何処か行き付け有るんで?」
「いや……屋台は入れ替わりが激しいのが相場だからなぁ……。とは言え、この『旅猫』沙蘭、鼻と名前に賭けて美味い店の一つや二つ見つけてやるから安心しな!」
胸を張り、いざ承ったと言わんばかりに己の肉球を其処に叩き付け、鼻を鳴らしながら歩きだした沙蘭は、
「っと、その前に両替屋を探さねぇとな。流石に屋台じゃぁ他所の通貨で物々交換モドキってのは難しいからな」
数歩進んだ所で、急に立ち止まりそう言い放ち、くるりと百八十度方向転換を決めたのだった。




