三百五十 志七郎、界を離れ己が運を疑う事
思いがけない『お土産』で膨らんだ荷物を背負い直し、彼らに見送られ一歩足を踏み出すと、其処はもう『死者の世界』では無い事が一目で理解出来た。
墨汁を流した様な黒雲に覆われた空が、綺麗に線引された様に晴れ渡り前後左右何方を見ても満天の星空が広がっていたからだ。
たった一歩後ろに居た筈の悪魔達の姿も既に無く、有った筈の風景も消え去り、其処には巨大なガラスの浮き球の様な物が浮かんでいた。
いくら大きいとは言っても、ぱっと見る限り精々その大きさは直径二米程度の物に過ぎず、その中に地球が……それ以上に広大なあの世を含めた『世界』が詰まっているとは到底思えない。
だが今俺が立っている細長い雲の様な道が其処から伸びている以上は、そう言う事なのだろう。
そして上下左右どの方向を見ても輝いている数多の星々も、それぞれが単独の『星』なのでは無く『星』を内包した『世界』で有り、ソレが数えるのも馬鹿らしい程に……文字通り星の数程に存在しているのだ。
「落ちるんじゃねぇぞ、この道から落ちりゃ何処の『世界』に転がり込むか解かりゃしねぇ」
足元に伸びる細い細い雲の道、幅一米にも満たない細道は、猫が歩くのには十分な太さかも知れないが、幾ら未だ小さな俺の身体でも無造作に歩いて行くには少々心許ないそんな道で有る。
しかもその見た目通りの……柔らかで不確かな何時踏み抜いてしまっても可怪しくは無い、そんな感触は、沙蘭の言う通り気を抜けば何処へ転がり落ちても不思議は無い。
ゆっくりと足元を確かめる様に一歩、また一歩と前へと歩みだせば、進んだ距離は然程でも無い筈なのに、先程まで居た『世界』は遥か遠くへ消えて行く。
此処は『あの世』にも有った様に空間が歪んで居るのだろう……いや、そもそも『世界』と『世界』の狭間とでも言うべき場所なのだ、普通の物理法則が通用すると考える方が無理が有る。
「あんま遠くを見ようたぁすんな、この星界ではお前さんが見た通り空間が歪んでやがる。遠くの物は近くに見えるし、近くの物は遠くに見える。儂ら猫はソレが問題に成ら無ぇ目ン玉持ってっけど……お前さん達人間はそうじゃねぇ……」
猫の瞳は人間よりもずっと短い距離しか捉える事が出来無い所謂『近眼』なのだが、それ故に星界と呼ばれるこの歪んだ場所でも然したる問題も起こらないのだが、俺達人間は違う。
五感の中でも最も視覚に頼る人間は、ソレが歪むと多大なストレスを受ける事に成り、吐き気や目眩と言った酔いの症状を引き起こしたり、下手をすれば正気を失う事すら有るのだと言う。
「それに……此処等じゃぁ色々と厄介な連中が泳いでる事も有りやがるからな。お前ぇさんも小説の類が好きだったなら聞いた事位は有るだろ? 『外なる神々』とか呼ばれる連中の事をよ……」
『外なる神』と言う名前だけならば、前世の世界でもネット小説だけで無く、アニメや漫画ゲームと言ったサブカルチャーの題材として何度と無く見聞きした覚えが有る。
本来『神』と呼ばれる者達は『世界』の管理者で有り、属する『世界』と対の存在であるらしい。
悪魔達もまた対となる『世界』を失ったか、もしくは政争に破れ追放され封印された神々なのだと言う。
けれどもこの星界には元々対となる『世界』を持たず、他の『世界』を荒らし壊す……そしてその姿を垣間見ただけでも、圧倒的な力の差から魂を押し潰され廃人に至る……そんな危険な存在なのだそうだ。
「見るだけでアウトって……そんな物、どうしろってんだよ……」
空間の歪みも外なる神とやらも、只見るだけで正気を奪われると言うので有れば、目を閉じてこの不安定な道を歩いていけとでも言うのだろうか?
雲の道はどうやら不定形な物らしく、こうして歩みを止めて話している間も、歪み変わり……時折足の位置を動かさなければ滑り落ちて行きかねない。
其処を目を瞑って進まなければ成らないと言うのであれば、例え沙蘭が手を繋いで先導してくれたとしても、先へ進んで行くのはこれ以上無い程に困難だろう。
「まぁ……外なる神に関しちゃ儂が合図をしたら目を瞑る様にすりゃ何とか成るだろ」
曰く、猫は九つの魂を持つ存在で有り、そう簡単に押し潰される事は無いのだそうだ。
しかも近眼で有るが故に、その存在に気がつく程度に『見える』事は有っても、はっきりと『見る』事は無いのだと言う。
その辺は数少ない『界渡り』が許された生き物としての適応なのかもしれない。
「歪み酔いの方は……っと、取り敢えずコレ食って足元見て歩けや」」
と、そう言いながら、肩に担いだ棒の先に結ばれた風呂敷から、小さな壺を取り出しその栓を抜く。
差し出されたその中身は……梅干しだ。
車酔いの酔い止めとしては定番と言って良いかも知れない梅干しだが、ソレが空間の歪みに依る酔いにも効くのだろうか?
沙蘭の気遣いに感謝しつつ、偽薬効果を期待し俺はソレを口へと運ぶ。
「酸っ……!」
想像以上の酸味に閉口している俺の手に、長く伸びた沙蘭の尾が絡みつき引いてくれる。
それを頼りに雲の道から足を踏み外さぬ様、足元をしっかりと見ながらゆっくりと一歩ずつ進んでいく。
「正直な話、三ヶ月じゃぁあの世界を抜けるだけで時間切れ、もし抜けれたとしても、こんな悠長に歩いて行く訳にも行かず、危険覚悟で突っ走ってどっかの世界に落ちて終わり……って、そんな風に思ってたんだけどな」
沙蘭の当初計画していた予定は、地獄を抜けるのに二ヶ月、氷河を抜けるのに一ヶ月、其処を抜けた後『長靴の国』まで行くのは数日有るか無いかのロスタイムに賭ける……と言う、ほぼ間違い無く間に合わないと言う前提の物だったらしい。
ソレがたった数日で地獄も氷河も抜ける事が出来る等と言うのは、望外と言う他無いだろう。
青い太陽が自身の事を『持っている』と表現していたが、今思えば俺にこそ『持っている』と言えるだけの幸運が有るのでは無かろうか。
「本当に運が良かったとしか言いようが無い……のか?」
しかし……それは本当に偶然の産物だろうか?
そんな考えが脳裏を過り、思わず呟きを漏らす。
少なくとも地獄を突破した冥土長の協力は、界渡りの準備を整えた時点で俺が知らずとも約束された物だったと言えるかも知れない。
青い太陽や女公爵の協力とて、彼らが永遠の虜囚で有り娯楽に餓えていると言っても、そう都合良く俺達が通りかかった時に分身を出すなんて事が有るのだろうか。
誰かの手の上で踊らされている……そう感じてしまうのは、俺が撚ているからか……それとも順風満帆な人生を送る事が出来なかった前世の影響か。
いや……隠神剣十郎と言う男は、思い返して見れば決して運の悪い……恵まれていない人生では無かった。
最期こそ間抜けとしか言い様の無い死に様を晒したが、ソレは油断が招いた自業自得。
本吉や芝右衛門と言った友人にも恵まれ、アレだけサボり倒した高校時代だったと言うのに、浪人する様な事も無く進学し、警察官採用試験でも躓く事は無かった。
……任官後こそそれなりに努力したとは思うが、それでも運に見放され努力が実らず犯罪に手を染めざるを得なかった者達に比べればずっと恵まれていた人生だった、と今ならば思える。
そして今生だって……家族にも、運にも恵まれている……。
それら全てが誰かに用意された物とまでは言わないが、それでも偶然だけでは説明が付かぬ程に……色々な物が噛み合いすぎている様に思えたのだ。
「女公爵が言ってたろ? お前さんを見ている二千五百を越える超常の存在、ソイツ等が多けりゃ多い程にソイツの人生は劇的だって事さね。ほら劇場型投手ってのは走者出すけど、中々点は取られない物だろ?」
山あり谷あり、それでもそう簡単に終わらない、ソレが劇場型人生なのだと言う。
正直勘弁して欲しい、そう言うのは端から見るだけで、自分自身には要らない。
そう思うのは俺だけだろうか?




