三百四十九 『無題』
「奥様、只今戻りやした。今日も今日とて大猟、大猟だったのねん」
「目的の品の内一つも手に入ってまんねん。このままやったら思ったより早う火元国に戻れそうでんなぁ」
「今日もお疲れさん、晩飯の用意はしてあるから、ゆっくり休んでおくれ……って、家の人はどうしたんだい? 一緒だったんだろう?」
世界の中心を経由し北の大陸へとやって来たのは、暦が夏から秋に移り変わる頃だった。
同じ船に乗っていた者達の多くは西の大陸へと向かう為、此方に来たのはごく少数であったが、幸い望奴の師匠は此方へと来てくれた上に、大陸でも一、二を争う最高峰の『義肢師』と引き合わせてくれたのだ。
本来ならば向こう数年は予約で一杯で会う事すら難しい程の人物なのだが、ティーガー氏とその友人――角力大会で豚面と名勝負を繰り広げた組技の神様とまで称される大人物――カール氏の紹介を得た事で一足飛びに会って貰えたのは幸いだったとしか言い様が無い。
「ちゃんと此処に居るで御座る。ちと大猟が過ぎた故、ご近所にお裾分けをしてきたのだ、それがし等が居らぬ時にお主に何か有れば、ご近所の皆様方の協力は不可欠でござるからな。ほれコレは家で食う分でござる、台所に置いておく故お前もしっかりと食うのだぞ」
と、二人の家臣に少し遅れ、両の手で大きな枝肉を抱えた亭主が扉を潜り姿を現した。
「そうなのよ、おじょ……いや、奥方様。もう貴方一人の身体じゃねぇんですから、飯の支度だってあっしに任せてくれりゃ良いんですよ。唯でさえ豚面に御屋形様、二人も大食いを抱えてんですから」
「そ~でまんねん。奥方様はどっしり腰据えて休んでるのが仕事でんがな。力仕事はわてが、料理やらこまい仕事は望奴がしますさかいに」
幼い頃から兄妹同然に育ち、豹堂家が取り潰された後にも私を護り、苦労を共にし、そして復興が許されたと言っても未だ名目上に過ぎない現在も、忠義を示し続けてくれる。
そんな二人だからこそ、私の身体に起こっている不意の変化に心配を禁じ得ないのだろう。
「二人とも心配しすぎだよ、別に病気って訳でも無いんだ。それにお医者様の話じゃ、変に安静にし過ぎて身体が鈍り過ぎる方が余程悪いって話だったじゃないか、飯の支度位はアタシの仕事さね」
だが流石に心配も行き過ぎれば、色々と面倒に感じる事も有る。
「しかし二人の言う事も解らぬでは無い。お主は悪阻が軽い方だったが故に此方へ腰を落ち着けるまで気づく事すら無かったが、身重での海渡りは自殺行為だとも先生は言って居ったでござろう? 辛い時には手助けする故ちゃんと言うのだ、家族なのだからな」
そんなアタシの気持ちを見透かした彼の様に、微苦笑を浮かべもう一人の当事者がそんな言葉を掛けてくる。
「解ってるさね。とは言え、この子を無事産むのも大事だろうけど、それ以上にアンタが無事に良い腕を着けてもらって帰るのが大事だろ。万が一アンタが此方でくたばっちまえば、幾ら子供が産まれてもまた豹堂は取り潰されちまうんだから」
未だ服の上から見ただけでは膨らんでいるかどうかもはっきりしない、だが触ってみれば間違い無く膨らんでいる我が腹を撫でながらそう言えば、三人は揃って何かを諦めた様な表情で溜息を吐く。
旦那が婿入りした事で豹堂の名は復活を果たしたが、飽く迄それは名前だけ。
一応、志七郎が別の世界へと飛ばされたあの戦いでの功績は認められ、幕臣の末席に名を連ねる事は許されはしたが、無役・三十俵二人扶持と最下級の御家人扱いだ。
私が口にしたのとは違い、もしも旦那が志半ばで倒れたとしても、ソレだけで即座に取り潰される様な事は無いだろう。
だが正直な話、男衆の鬼斬りに依る稼ぎが無ければ、幕府からの扶持米だけでは子供が元服するまで育てる事も儘ならない。
碌に質草に出来る様な財産も無い状況では、最低限の家格に見合う見栄すら貼れずに恥を晒し、結果的に再び取り潰しを食らう可能性は決して低くは無い筈だ。
無論、旦那の実家から何の支援も無く……と言う事は無いだろうが、それとて旦那が生きていればこその話で有る。
「そんな事よりさ……豚面の言った通りなら、また一つ必要な素材が手に入ったんだろう? 思ったよりも随分と順調じゃないか、この分ならこの子が産まれるよりも先に『腕』が出来るんじゃないかい?」
自分で口にした事ながら少々縁起でもない話に成ってしまったと思い、慌てて話題の矛先を変える。
「うむ、今の『腕』も決して悪い物では無いが、やはり何時壊れるとも解らぬ状態では怖くて全力を出す様な事は出来ぬからの。早く完全な義腕が欲しい物だ。まぁ、今の腕でも子供を抱くのには不自由せんだろうがな」
と、旦那もアタシの思惑に乗って……という訳では無いだろうが、話に乗ってくれた。
流石に彼の名人が作った義腕を何の準備もせずにいきなり着けて貰える様な都合の良い話は無く、相応の材料と対価を用意する様言われ、取り敢えずの間に合わせという訳では無いが、今は彼の弟子が仕立てた義腕を着けている状態なのだ。
とは言え、今付けている義腕とて決して安い物では無い、此方へと持ち込んだ素材の多くを吐き出し代価とする事が出来たが、銭で支払ったのであれば千両はくだらない。
しかも今のソレは既に最初の一本を壊した後の二本目なので有る、そちらに関しても職人が求めている素材を狩り集める事で格安としてもらったのでなんとか成ったが、丁度その頃に私の懐妊が解り戦力外と成ってしまったのだ。
その時点で暫くこの街に落ち着く事を決め、家賃の一年分を前払いして借家住まいに移行していたのは幸か不幸か……。
当初は台所の勝手も違い、飯炊き一つでも難儀したが、西大陸まで留学生達を送っていったお花様が跳んできてくれたのと、虎先生の妹――キルシェさんにも助けてもらった事で何とか越えてこれた。
此方の竃を使って此方の食材で火元風の料理を作るのにも大分慣れたし、此方の郷土料理の類を自分達の舌に合う様に改変するのも中々に楽しい作業では有る。
まぁソレが出来るのも、お花様やキルシェさんを始め、ご近所の小母様方の力添え有っての事だ。
拙い北大陸語しか話せない私達を相手に、皆嫌な顔一つせず根気強く様々な事を教え、手助けてくれた。
普通に考えれば言葉も解らず、服装も顔立ちも自分達とは違う、そんな者が行き成り越してくれば警戒する物の筈だ。
だが虎先生の口添えが有ったにせよ、近所の小母様方が慣れぬ生活を送る私達を影に日向に気遣ってくれるのは、旦那が捕り過ぎた獲物を気前良くお裾分けして居るのも決して少なくない理由だろう。
今の所、日帰り乃至は数日程度の行程で帰る事の出来る戦場にしか行って居ないが、火元国よりも大きく深い森が多い様で、行く度に大物を仕留めて帰ってきて居り、御近所の食生活が豊かに成っているのは間違いない。
何せ此方の人々は米や麦を然程食う事無く、肉を主体とした食生活をしているのだ、其処に肉が更に一品加わるのだから、只貰うだけで無く、何かかしら手助けしてやろう……と考えるのが人情と言う物だろう。
「流石に今日捕れたこの火吹き大蜥蜴は明日以降に食うとして……今日の夕餉はなんでござる?」
話が長く成りすぎたか、派手に腹の虫を騒がせそう言う旦那に、アタシは吹き出しながら今日の献立を伝え、食堂へと招き入れるのだった。




