三十三 志七郎、無礼討ちに慄き、因縁に決着を着ける事
「し、知ってるんだぞ! さ、侍が勝手に無礼討ちなんて出来ないって! 俺達を殺したりすれば、御家取り潰しになるぞ!」
刀を握りつぶされた男は腰を抜かしたように崩れ落ち、座り込みながらもそんな言葉を口にした。
無礼討ち――切捨御免とは武士が他者に無礼な振る舞いをされた時、それを理由にその相手を切り捨てても罪に問われる事は無いという制度だ。
だが、この制度も世間一般で言われるほどの強権という訳では無いらしく、彼らの言う通りそれを理由に人を斬っても、奉行所へ届けを出し、その上で証人探しやそれが本当に必要な事だったのかという取り調べを受ける。
証人が見つからなかったり武士のほうが悪いと証言されたりすれば、軽くても切腹悪くすれば斬首の上御家取り潰し等の厳しい沙汰が下ることも少なくないとか……。
更には相手を討ち損ね逃亡されたりすれば、それすらも不名誉という事で処罰の対象となる、かと言って放置すればそれは御家の沽券に関わる問題となる、そう簡単には抜けぬ伝家の宝刀の様なものだ。
前世の世界では手討や打捨と呼ばれていたようだが、此方の世界では無礼討ち、切捨御免どちらの表現も正式な法律上の用語である。
「ほぅ……よく知っておるな。其方の言う通り、江戸市中で斬らば奉行所に届け出を出しても処罰を受けることも有ろうな……江戸市中ならば……」
だが、と言葉を切ると同時に兄上の全身から爆発的な氣が溢れだす。
……ああ、この男を殺すつもりは無いんだな、俺はそう確信した。
達人と言う程の腕前もなく氣を使うことも出来無い、そんな連中をただ殺すだけならば兄上であれば見えるような氣を放つ必要などない。
腰の物を抜く必要すら無いだろう、日々の稽古を見ていれば、その拳を振り下ろすだけで彼らの命を刈り取ること等容易い事だと俺は知っている。
「戦場はたとえ侍であろうとも、その死を詮議される事なき場所。無礼討ち云々関係なく、其方らを殺す事など造作も無い事ぞ」
そしてあの大鬼との戦い……いや、闘いを経験したことで氣を纏うことの出来ない人間にとって、殺意すら篭もったソレがどれほどの重圧になるかも理解できた。
だが、それも俺自身に闘うと言う覚悟があった上に、決して格上とは言い難い相手であったからまだマシだったのだろう。
だが目の前の男は何を根拠にしてか兄上を完全に舐めていたらしく、思いも寄らないその対応に縮み上がりガタガタと震えている。
「大方、何処かの田舎侍にあやをかけ斬り捨てられ掛けたが上手く逃げ出した。そしてその侍が処罰された事で侍と言うものを侮ったか……」
そういう言い方をすると、地方のヤクザに喧嘩を売った挙句、追手を振り切るために東京へと逃げてきたチンピラの様だが、概ね間違った理解ではないだろう。
どうやら図星を射したらしく、男達の顔色が目に見えて悪くなる。
「だがそういう場合侍の遺族も一族郎党の面子に賭けて、相手を始末する事に血道を上げる……家中の者を勝手に江戸へと送ることは出来ぬが、浪人者や出奔者を追手と放つ事も力を持つ家ならば可能だろう」
それすらも考えが及ば無かった様で、江戸へとついたからもう安心……と、金を稼ぐために子供達の引率を引き受けたといった所だろうか?
だが、そんな流れ者に子供達を託す親というのはどうなのだろうか。
完全に役者が違う、兄上に見下され睨まれた男達はただ脂汗を流すだけで応えはない。
不意に兄上の足が跳ね上がった、へたり込んだ男の顔を蹴り飛ばしたのかと思ったがそうではなく、男の腰にぶら下がった鬼切り手形を蹴りあげた様だ。
高く舞い上がったそれを掴み取ると、自身の顔の高さへと掲げ繁々と見定めた。
「こりゃ町人手形ではなく、武士手形でござるな……。という事は討ち損じて出奔した田舎侍の方か。それもいい歳して氣の扱いも知らぬとは、余程弱小藩の出と見える」
武家の子供ならある程度の年齢になれば、多少の差はあれども氣を使えて当たり前だと以前聞いた記憶がある。
だが目の前の男は氣を使えず、また明らかな強者である兄上を前にして、彼我の実力差も測ることが出来ない程の馬鹿者だ。
恐らく親達もそんなこととは知らず、武士というだけである程度の実力がある物と信じて子供達を預けたのだろう。
「さて、貴様が町人出身ならば軽く小突く程度で済ませてやろうと思ったが……、侍とあらば話は違う。これは堂々たる果たし合い、たとえ貴様を殺そうとも誰も咎め立てすることはない。むしろ何の抵抗も無く斬られれば、一族郎党ただでは済むまいな」
……町人――堅気とやりあうのは色々手間がかかるが、侍同士ならばただの果たし合いという事で済んでしまう、ヤクザの抗争と変わらぬ図式が見えた気がする。
正直言って、前世でもヤクザ者同士が抗争なりなんなりで勝手に殺し合う事に忌避感はあまりなかった、むしろ一般人に余計な被害を出す者が減ったと喜んだ事すら有るくらいだ。
警察官としてはあまり褒められた思想ではない事は理解しているが、ごく少数の仁義をわきまえた例外を除きヤクザに憐憫を感じる事は無かったのだから仕方ない。
これは自業自得かな……、そう思ったのだが俺の視界に子供達が目に入った。
たとえ鬼斬り者で勇んで小鬼達を斬っていたとしても、年端も行かぬ子供達だ。
一時的なものとは言え、彼らを率いていた者を目の前で殺すのは酷ではないだろうか。
「兄上、子供達の前であまり血なまぐさい物は……」
俺がそう言うと男達は地獄で仏を見つけたような救いを求める表情を此方に向けた。
それは意気がって街を与太って居た不良少年が、間違ってヤクザに因縁を付けニッチもサッチも行かなくなった所に警察官が来た……そんな風情だ。
「とは言え侍とわかってアヤを付けてきたのだ、捨て置く訳には行かぬぞ。それに何処の家中かは知らぬが出奔者と解った以上は咎人でござる」
何処の家中か知らぬ……兄上はそう言ったが手形を見ればそれは簡単に分かる事の筈だ、だがわざわざそう言ったのはこいつらを兄上自身が手にかける必要が無いと言う明示なのだろう。
しかし余程テンパっているのかそれとも本当に馬鹿なのか、彼らにソレが通じた様子は無い。
しかしこれは落とし所が難しい問題だ……、御家の面子の事もあるし、兄上の推測通り国元で罪を犯し逃げてきた人物ならばそうと知りながら逃がす訳にも行かない。
それもさっきの言の通り、無礼討ちに絡むトラブルとあれば、捕まり詮議を受ければ死罪はほぼ確定だろう、そうなれば彼らとて抵抗……するのかな?
兄上が垣間見せた氣の強さに腰砕けになっている今ならば、余計な抵抗を受けずに捕らえられる様に思える。
そうしている間に俺の方も身体に力が戻ってきたのか立ち上がることが出来た。
「手形を兄上が手にしている以上、此処で討たれれば家族どころか主家にも類が及びます。ですがこのまま奉行所へと一緒に出頭するならば、此処では何も無かったと言う事にしませんか?」
あの子供達には口止めの必要があるし、それがどれほど効果が有るかは解らないが、兄上の恐ろしさはあの子供達にも十分に伝わっているらしく、此方に向ける視線は恐ろしい物を見るそれだ。
あの様子ならば問題ないだろう、そして問題なさそうなのは子供達だけでなく、目の前の男達もだった。
どうやら推測したほど馬鹿をやらかして江戸へと来たわけでは無いようだ。




