三百四十七 志七郎、悪魔の助力を得て人生売り渡す様迫られる事
……どうしてこうなった。
遠近感が可怪しく成りそうな程に何も無い、ただ真っ平らな地平の果てを眺めながら、俺はそう自らに問う。
氣を張って己の足で歩かずとも、前後にゆったりと揺れながら……だが自分で歩くより圧倒的に速く進んで行る。
「もう少し強く掴まっても良いのよ? この子結構揺れるでしょう?」
そう言いながら優雅な手綱捌きで騎獣を操るのは青い太陽の仲魔で他の者達からは女公爵と呼ばれた女悪魔だ。
黒の天鵞絨を金糸と白いレースで彩られたドレスを身に纏い、夕日のような鮮やかな緋色の髪の毛を靡かせた中東美人で、頭に冠らず腰に吊るした金色の冠が印象的に見えた。
そんな彼女の駆る大きな駱駝に乗せられた俺は、後ろから抱きかかえられる様に同乗させてもらっている状態で有る。
砂漠では無く立てば埋まる様な粉雪に覆われた大雪原を、冥土長から貰った御守だけで無く氣を纏って居なければあっと言う間に凍えてしまう様な冷気の中を、駱駝が駆け抜けているのは、端から見ればシュールとしか言い様の無い光景だろう。
沙蘭が語った俺の物語は彼等の無聊を慰めるには十分な物だったようで、青い太陽が約束した通り最短距離での氷河踏破に協力して貰える事になったのだ。
悪魔の力を借りるとなると、その代償は魂と相場は決まっている物と思ったりもしたのだが、俺以上に彼等の事を良く知る沙蘭がその力添えに賛同したのだから、ソレを拒否すると言う選択肢は無かった。
そして道すがら、女公爵に問われるままに現世の事や向こうの世界の事を話したり、逆に悪魔と呼ばれる存在に付いて教えられたりしながら、此処まで進んできたと言う状況な訳だ。
その彼女の話では『悪魔』と呼ばれる者達は、意外にも『約束を破る』事は絶対にしないのだと言う。
いや悪魔だけでは無い、物理的な肉体を持たず、魂と概念だけが全てと言える神や妖怪を含めた超常の者達にとって『契約』は絶対の物で有り、口約束だとしてもソレを破る様な事をすれば、その存在自体が危うく成り兼ねない危険な行為なのだそうだ。
故に一度協力を約束したからには、彼女達を必要以上に疑う必要は無い。
むしろ注意しなければ成らないのは、悪魔と呼ばれる存在がもたらす『利』に溺れ堕落しない様にする事なのだ、と女公爵は幼い子供を諭す様な口調で語ってくれた。
かく言う彼女は『目当ての女性を口説き落とすのに必要な知恵を与える』と言う権能を持ち、その能力を借りる事が出来れば一生『女』に困らない様に成るが、当然の様に落とし穴も有る。
彼女の入れ知恵は飽く迄も『口説き落とす』までの事で有り、落とした女の心を繋ぎ止めて置くにはその後の努力が必要なのだ。
だが『利』に溺れた者は次々と新しい女に手を出し続ける様な愚を犯し、最期にはヤリ捨てられた女性達の手で素敵な舟に乗せられる末路を遂げると言う訳で有る。
悪魔は約束を破る事は無いし、嘘を吐く事も無い、ただ自分達の能力を都合良く使おうとする人間が己の欲に溺れて溺死するのを眺めているだけなのだ。
何故、そんな事を彼女が俺に語ったのか? その言葉事体が俺を堕落させようと言う罠なのか? そんな風にも思えたのだが……
「三十路を回っても清い身体のままで、生まれ変わってからも女性に縁遠い……貴方このままじゃぁ大賢者の道を辿る事に成るもの……」
と、予言の能力も持つと言う彼女に不憫そうな目で見下され言われては、何処かで一度自制心をかなぐり捨てて欲望のままに振る舞うのも手では無いか? そう思ってしまうのも無理ない事だったと思いたい。
「そろそろ真ん中を過ぎるわ。ほら、見てご覧なさい、あのちょこんと突き出してるのが悪魔王の角よ」
手綱を緩め、少しだけ速度を落としながら女公爵が指し示した先には、純白の雪原に血潮を垂らした様な真紅の『角』らしき物が突き出て居るのが見えた。
見渡す限りの大雪原の中で、それなりの距離が有るからこそ『ちょこん』等という可愛らしい形容詞が良く似合うが、近づけば相応に……それこそ東京タワーの様な威容を誇っているのは恐らく間違いの無い事実だろう。
悪魔王を中心にこの氷河は広がっているのだそうで、本当に最短距離で行くならばあの角の脇を抜けるのが最適解なのだが、あの回りには無数の裂け目が有り、彼女の駱駝の足を持ってしても跳び超えて行くのは現実的では無いとの事。
故に迂回ルートを取った上での最短ルートを駆けて行く……と言う訳である。
ちなみに青い太陽を含めた他の悪魔の皆さんは、俺達がこの辺の最上ランクの虜囚達に目を付けられない様、少し離れた場所で囮を兼ねた雪合戦をして居る筈だ。
二代目はそちらに強制参加で、此処まで一言も発する事も出来ずに居る沙蘭は、自力でこの駱駝の疾走に着いてくるのは無理だそうで、必死の形相で尻尾に引っ掴まっていたりする。
「本当に悪魔王は良いわよねぇ。眠る事が出来るんだから……」
『角』を通り過ぎ、少し走った辺りで女公爵は心底羨ましいと言わんばかりの溜息を吐く。
他の悪魔達は文字通り身の凍る冷気の中で眠る事すら許されず、永遠の退屈とも言える時間を過ごしているのに対し、悪魔王はその大半の時間を眠り過ごしているのだと言う。
そんな悪魔王の回りには、他の大悪魔が凍っている場所よりも、深く大きな裂け目が有るのだが、ソレは彼奴が巨大な力を持っているからと言う訳では無く、単純に寝相が悪いからだそうだ。
氷の下で時折――と言っても数百年単位だが――大きく寝返りを打っては、氷河全体に大きな罅を入れ、再びソレが凍り付いていくまでの間に、運の良い木っ端悪魔は脱出したり、彼女の様な大悪魔は分身を外に出すらしい。
彼女の本体とでも言うべき存在は当然ながらこの氷の下に封じられており、今此処でこうして俺を運んでいるのは分身の内の一体な訳だ。
丁度俺達がこの氷河へとやって来た辺りで悪魔王が寝返りを打ち、久方振りに束の間の暇潰しをしようとしたタイミングだったと言う話である。
「……暇潰しと言うならば、分身を他の世界に送り込んだりすると言うのも手なのでは?」
悪魔が人間に干渉すると言うのは創作物では比較的よく有る話で、大きな戦争の陰に悪魔の陰謀が……なんてのも以前何処かで読んだ事が有る気がする。
「直接繋がった分身を送り込む事は出来ないのよねぇ……。喚ばれたならその限りじゃないんだけど、最近はさっぱり御無沙汰なのよ」
人間が己の欲望を満たす為に、正しい手続きを行い召喚したならば、界を超えて世界に干渉する事も不可能では無いが、基本的に自分からどうこうという事は出来ないらしい。
一応、リアルタイムに繋がっている形で無ければ、分身を人間に成るよう加工して現世に放り込み、死後ソレを回収する事でその一生を追体験する……と言う事は出来るのだが、労力の割に合うレベルの娯楽には成らないのだと言う。
そうして送り出された者達は所詮自分の分身であり、状況に対して返す行動が読めてしまうので、ネタバレした映画を見る程度の楽しみにしか成らないのだ。
だから……
「君は堕落する事無く、長生きし続けて頂戴ね。そうすれば向こうに着いてからも色々と手助けしてあげるから……」
以降も俺に助力する代わりに人生を覗き見る権利を提供する様、求められるのも当然の事だったのだろう。




