三百四十六 志七郎、新技を学び魔神相対する事
「大分慣れてきたみてぇだな。ソイツを極めりゃ水の上だって歩ける様に成らぁ、足音を消す事も出来るし応用の効く技術だから、この機会に覚えておいて損はねぇやな」
氣を抜けば沈み込む様な柔らかな雪の上を歩き始めて数時間、何者にも侵されていない純白の新雪を跳ね上げながら進む俺に、沙蘭は声を潜めてそう言った。
足から氣を放ち跳ぶのは氣の運用でも基本中の基本で、それは猪山藩の指南役で有る伏虎からしっかりと学んできた事だ。
その技術を応用し、何もない空中を蹴り縦横無尽に宙を跳ぶ技も有るが、一度や二度ならば兎も角、自由自在に跳び続けると言うところまでは至っていない。
だが今回必要なのは己の肉体を弾き飛ばす程の強烈な力では無く、身体が雪に沈み込まぬ様にするだけの些細な放出である。
足元から放射状に氣を放つ事で、氣のかんじきとでも言うべき物を形成し、ソレによって雪の中へと沈む事無く歩いて行くのだが、一歩踏み出す毎に大きく雪が跳ねる辺り、まだまだ放出量が多すぎるのだろう。
沙蘭に言わせれば、大量の氣を必要とする空中移動に比べ、足元に氣を停滞させるだけの此方の方が難易度としては圧倒的に低いらしく、虎婆の試練を見た限りこの程度の事は出来る物と思い込んでいたのだそうだ。
それ故、俺が腰まで埋まると言う無様を晒した時には容赦無く笑われ、その上で新雪の上を歩く方法を教えられたのである。
「たぁ言え、まだまだ先は長げぇ。しかもそんなバカスカ氣をばら撒いてちゃぁ、下で寝てる連中を起こしちまう、もちっとで良いから抑えねぇと……な」
俺とは違い雪の上に足跡すら残さず此処まで来た沙蘭が前方を指し示しながら言う。
今まで歩いて来た場所はこの永遠の氷河の中でも端の方で有り、その下に封じられているのも木っ端悪魔で有り封印の氷に抗う事も出来ぬ者達なのだそうだが、此処から先は違う。
ほぼ中心部の最底辺に居ると言う悪魔王以下名立たる悪魔達は、自由に出ることこそ叶わずとも、身を捩り氷に多少の傷を入れる程度の事は容易に出来るのだそうだ。
そうして作られた氷の裂け目に落ちれば、此処までに居たと言う木っ端未満の俺達では永遠に氷漬け確定で有る。
更に厄介な事にそのクラスの悪魔は、全身は無理でも身体の一部――それこそ指の先程度でも良いから氷から露出したならば、その部分を切り離し分身を作る事で外界に干渉する事も可能なのだと言う。
なにせ気の遠くなる様な過去から永遠の果てまで、凍り付いたまま存在し続けなければ成らない彼らは、兎に角『暇』をして居る。
そんな奴らの上を通り抜け無ければ成らないこの状況で、余計な氣をばら撒き気を引くような事に成れば、先ず間違い無く碌な事には成らない。
足元に裂け目を量産され『リアルアクションゲーム』をやらされるならばまだマシな方で、正解するまで、無数の分身に絡まれ先に進ませてもらえない『なぞなぞ』や、『トランプや麻雀などなど』で勝つまで拘束され続ける様な事も有るのだそうだ。
とは言え悪魔達は直接生き物を害する様な事は禁じられているらしく、飽く迄も一時の暇潰しに供される程度で済むのは間違い無いのだと言う。
「つっても、糞長い連中の時間感覚に付き合ってちゃぁ制限時間が尽きちまう。兎角見つからねぇ様にそぅっと行くしかねぇ訳よ。まぁそれでも本気でヤバイ連中が居る中心部は迂回するしかねぇんだけどな」
心底嫌そうに溜息を吐く沙蘭。
実感の篭ったその姿を見れば、何度となく悪魔に絡まれたのだろう事は想像に難くなかった。
そしてそんな彼女の思いは、最悪の形で裏切られる事に成る。
「よー! ひっさし振りだなぁ! 俺とお前の仲だってのに、挨拶も無くスルーってのはちょっち薄情なんじゃねぇの? え? 旅猫ちゃんよぉ!」
と、そんな叫び声が俺達の足元から響き、雪を割り一匹の猫をぶら下げた青い腕が突き出される。
「あはは……師匠お久しぶりですー。捕まっちゃいましたー。たーすーけーてー」
首根っこ掴まれたまま妙に棒読みな口調で、そう言ったのは綺麗な茶虎の猫――二代目沙蘭――だった。
「久し振りだねぇ、青い太陽……見つかったのがアンタだったのは不幸中の幸いだったと喜ぶべきか、それとも最悪だと嘆くべきか……」
その複雑な心境を肩を竦める事で現した沙蘭がそう言う。
「いやー、とっ捕まえた弟子で暫く遊ぼうかと思ったら、殆ど直ぐにお前が通るんだもんなー」
牙の有る梟の頭を持つ青い肌の男――冥土長同様沙蘭の昔馴染みだと言うこの悪魔、チャラい口振りに似合わず、この氷河に封じられた者達の中でも上から数えた方が早い実力者だと言う。
「やっぱ俺とお前、切っても切れない縁が有ったとしか思えねぇよ……。遊ぼうぜー、取り敢えず五十億年くらい!」
二代目をぶら下げた右手とは反対の手を親指を立た所謂サムズアップで突き出し言い放ったその数字……、
「「「って、長いわ!!」」」
人の物差しで考えるならば、いや神々や妖怪の感覚で言っても長過ぎるソレに思わず一人と二匹が揃って裏手で突っ込みそう声を上げたの仕様が無い事の筈だ。
「お!? 猫の子弟は兎も角、人間の子供だろそれ! 俺っちを目の前にしてビビりもせずに突っ込みっていい度胸してんな! 面白ぇー! なぁなぁ俺っちと遊ぼうぜ! 人間なら一年位で開放してやるからさ!」
だがそれは彼の関心を買うには十分だったようで、無数の細かな牙の生えた嘴から長く尖った舌を覗かせて嬉しそうな声を上げた。
「いやいや、一年でも十分長過ぎだから。俺はあと三ヶ月足らずの間に元の世界へ帰らなけりゃ成らないんだから!」
慌てて拒否する俺の言葉は、
「え? 何? なんか面白そうじゃね!? おい、旅猫ちゃんよ、ちょっち詳しい話聞かせろよ! 楽しめそうな話なら、最短距離で此処抜けれる様に話通してやるぜ?」
ただ彼の好奇心を煽っただけの様で、更に嬉しそうに目を細めながら、ぶら下げた二代目沙蘭を揺らしながらそう問いかける。
「……馬鹿弟子はそのまま玩具にでもなんでもして貰ってかまやしないけど、迂回せずに済むってんならソレに越した事ぁ無いからなぁ。坊主、依頼人を売るようで悪いがこの暇神にアンタの事、話させてもらうぜ?」
その言葉を俺が首肯するのを待って、沙蘭は自分が知る俺の事を話し始めた。
すると彼はよほど退屈していたのだろう、沙蘭の言葉に一々大袈裟に相槌を打ち、時に驚き時に笑い、疑問が有ればソレを補足する様求め、俺が今此処に居る所以を丸で講談を楽しむかの様な調子で聞いていく。
「……てな訳で、あっしがくたばる前の最後の……最期の旅路として『世界樹の盆栽』を目指す事にしたって訳さね」
そしてその話をそう締めくくった時だった。
「いやー、事実は小説より奇なりとはよく言ったもんだ」
「面白かったぞ、久々に退屈を忘れたぜ」
「界渡りをする子供なんて、開闢以来初めてじゃない? しかもこんな可愛い子なんて……助けて上げても良いと思うの」
「そうよねぇ、オネェさんも協力しちゃうわ」
「いや、お前良い歳したオッサンやろ」
たった一人しか居なかった筈の観客は、いつの間に現れたのか数えるのも面倒な程に膨れ上がっていたのだった。




