三百四十四 志七郎、櫓音を聞き慈愛を知る事
錆び付いた金具をこすり合わせる様な櫓漕ぎの音を響かせて、小舟はゆったりと河を下って行く。
この辺りは幾つもの支流が交わり河幅も広がって、現世側もあの世側も何方の河岸も見えない程で有る。
現世とあの世を隔てる無数の支流を持つこの大河、俺達日本人にとって馴染み深い『三途の川』もその支流の一つに過ぎないのだそうだ。
当然ながら下流に向かえば向かう程、多くの支流が交わり水量も河幅も増して行き、死神の操る舟に乗らず渡る事は不可能に成っていく。
それは同時により苛烈で陰惨な刑罰を受ける『地獄』が広がっていると言う事でもある。
この舟が目指しているのは、最下層の地獄の一歩手前、無数の世界が漂う『虚無の海』とでも言うべき場所に繋がる河口側の船着き場だそうだ。
当初の沙蘭が計画した旅程では、三途の川の更に支流の浅瀬を徒歩で渡河し、そこから百三十六もの地獄を二ヶ月掛けて突破し、その末に行き着く予定の場所だった。
「本に無理無茶無謀としか言い様の無い計画よの。何の騒動が無かったとして、神の足でも半年は掛かる道程だと言うに」
櫓を操る手は止めていないのだろう、漕ぎ音を響かせたままで、冥土長が誂う様な調子で言い放つ。
何故、疑問形なのか? それは簡単な事、俺は努めて彼女が居る舟尾を見ない様、舳先側に座り前方に視線を固定しているからだ。
あの最低限度しか身を覆わぬ衣装のままで櫓漕ぎ等すれば色々と見えてしまい兼ねないのだが、幾らピクリとも反応しない幼い我が身とは言え、アレほど暴力的な色を見せつけられては、中の人の方が色々と収まりが悪く成る。
首を擡げる本能を理性で抑え込んでいるのと言うのであればまだしも、全く反応し無いと言うのは、それはそれで自身が不能で有るかの様で居た堪れないのだ。
「そりゃ仕様が無ぇだろうよ。生まれ変わった経緯を聞きゃ黙認程度なら有り得なくも無ぇたぁ思ったが、真逆公認で積極的に舟まで出してもらえるなんざぁ御釈迦様でも思わ無ぇよ」
兎角、真っ直ぐ前を見据える俺の背で、取り交わされる二人の会話。
「そりゃ、あちきも3776も仏教系じゃぁ有りゃせんから、御釈迦様があちき等の動きを把握してる筈も無かろうよ」
化猫と死神が話すそれは、人間の目線からすれば余りにもシュールな物だった。
「んで、そんな頭の湧いた様な格好で出て来たんはどう言う了見だい? お前さんの事だから何の意味も無くって事ぁ無ぇんだろ?」
と、ソレまでの益体もない様な雑談からの流れで、聞き流そうとしていた俺だった
「そりゃ、そっちの坊やの反応を試す為に決まってるじゃない。幼くして欲に堕ちる程、中身が腐ってるなら……ねぇ?」
が、沙蘭のそんな問いに対する、次の応えで俺はその会話に意識を傾けざるを得なく成る。
耳に入るその言葉の口調こそ冗談めかしては居るものの、其処には凍り付く様な冷たさが篭っている様に感じられた。
「……相変わらず怖い女神だねぇ。で? お眼鏡には適ったのかい?」
一拍置いて更に問いかける沙蘭、漂ってくる煙の臭いから察するに、煙管で一服したのだろう。
「……未だ幼いが故に色欲自体が薄いのか、それともよほど自制心が強いのか。何方にせよ舟に乗ってから、一度も此方に視線を向けようとしないんだから、まぁ合格……かしらねぇ」
多少悩んだ結果……と言う風に一瞬漕ぎ音が止まり、それから改めて彼女はそう返答する。
「なにせ、あの世界にその坊やを送る事を承認したのはあちきだからねぇ。今までの流れ者の様に向こうで適当に生きてるならどうでも良かったけど、態々此方に戻ってきた以上、どんな影響が有るかは確認して置くのがあちきの仕事さね」
曰く、この世界の――あの世の神々は、一時期確かに仕事に押し潰されそうに成って居たのは事実だが、他の世界の神々の様に世界樹を手に入れる様な事は考えず、人間を含め能力有る者を取り立てる事で仕事の分散化する選択をしたのだそうだ。
それでも中にはやはり労働力不足を軽減する為、世界樹を欲する神が居ない訳では無いが、それは飽く迄も少数派だと言う。
だがその少数派が勝手に『世界樹の盆栽』へと手勢を送り込む様な事が起こり世界間での争いに成っても困る為、間諜を送り込んで居るから暫し待て……と少数派を押さえ込む言い訳として定期的に転生者や転移者を送っているのだそうだ。
とは言え、向こうからの連絡が無ければ『草の芽は摘まれた』と言って状況を先送りする事も出来たが……こうして俺は戻ってきてしまった。
千里眼を持つ神ですら見通す事が出来ぬと言われる程に――本当は見えているが、その手の神は少数派に与していないそうだ――遠い世界の事、そこから戻ってきた俺はそのままならば、全ての情報を力尽くでも引き出される様な目に合いかねない状況だったらしい。
名目上とは言え自分の手駒で有る俺を、少数派連中の好きにされるのは業腹だと言う事も有るが、それ以上に自らの権限を冒されるのは後々の為に成らない。
「だから、あちきが態々こうして直接顔を会わせて護るに値する者かどうかを確かめに来た……てぇ話だわいな。取り敢えず『欲』をぶら下げられて転ぶ様な者じゃぁ無さそうで安心したよ……」
と、そこまで言ってから一度言葉を切り、
「それに……3776が世界樹の盆栽出身だって話は、上層部しか知らない秘事だからね。万が一此奴を消さにゃ成らないにせよ、少数派には渡さずあちきがやらないと……ねぇ」
先程よりもずっと冷たい……明確な殺気の篭った声でそう言った。
「つまり俺はあの世の神に狙われてる……訳ですか」
その殺気に一瞬息が詰まりそうに成るが氣を張って受け流し、それを誤魔化す様に溜息と共に問い返す。
「まぁ……ね。たぁ言えそりゃ飽く迄も木っ端死神に過ぎないけどね。けれど、お前さんが向こうへと帰るまでに通る場所の神々も同じ理由で狙ってくる可能性は高いわいなぁ」
返って来た答えは俺が想像していた以上に悪い物だった。
俺を狙う可能性の有るこの世界の神は、冥土長や死神さんが直接動けば押さえ込める範疇らしいが、世界樹を本気で狙っている世界の神々からすれば格好の獲物と言えるらしい。
俺を捕らえ情報を吐かせるだけで無く、世界樹に登録された俺の情報を乗っ取る事で、世界樹に異物として認識させず世界樹の盆栽へ侵攻する足掛かりに成る可能性も有るのだそうだ。
司る権能を剥奪され流れ神として消滅する筈だった死神さんが、死神として掬い上げられ新たな権能を与えたのは彼女自身で、その際にあの世界に付いて様々な情報を得たのだと言う。
「何処の馬鹿に喰われるにしても、あちきの管轄領域で手を出されちゃぁ……あちき等の面子が立たねぇやね……消しちまうのが一番手っ取り早いたぁ言え新人の身内の上、汚れてない魂を……子供の守護者で有るあちきが子供を手に掛ける訳にも行かねぇやさ」
と、そう言うなり舟が大きく傾ぎ、舳先の向きが変わる。
「あちきが明確に護ってやれるのは此処までさね。権能の及ぶ限りの加護はあげるけど……他所の神々相手にゃぁ屁の突張り程度にしか成りゃしない。下手な地獄に落ちるよりも厳しい道中だからね……気張って行くんだよ」
それまでの冷徹な指揮官としての雰囲気は鳴りを潜め、そう言う彼女の声色は慈母神と言うに相応しい、慈愛に満ちた物だった。




