三百四十三 志七郎、目の毒に苦しみ毒婦腹筋崩壊する事
飾り気の無い、何時沈んでも可怪しく無さそうな、古びた木舟の上で小揺るぎもせずに佇む老婆。
その立ち姿に隙は無く、かと言って武人のそれとも違う、一種の優美さや気品すら感じさせる物に見える……筈だった。
ただしその服装が下品なメイド服で無ければ……。
「ひゃっひゃっひゃ……、あちきのナウな魅力に皆メロメロのようじゃのぅ。態々万魔殿の淫魔から買うた甲斐が有ったわいな」
しゃなりとその筋張った肢体を捻り、科を作るような仕草でそんな言葉を曰うが、其処には色気の『い』の字も感じられず、むしろ視界の暴力と言うか……破壊力と言うかそう言うものが増した様にしか見えなかった。
そしてそう感じて居たのは俺だけでは無い……
「ぐぁぁ! きっつっ!!」
「目が! めがぁぁああ!」
「歳を考えろ婆ぁぁああ!」
この場に居た下位職員達の多くがその目を覆い、身分立場からすれば絶対に口にしてはいけないだろう叫びを上げる。
その様は正に阿鼻叫喚の地獄絵図と称するに相応しい物であった。
「……お前等、良い度胸してるね? 特に最後の婆ぁって言った奴、次の賞与査定を楽しみにしておくんだね」
とは言え、幾らお歳を召しても女性は女性……その手の言葉が禁句なのは、一緒だったらしく、のたうち回る獄卒達に対して極寒地獄もかくやとばかりの冷え冷えとした口調で言い放つ。
……内心は兎も角、俺自身はあまりに衝撃的な絵面に閉口せざるを得なかったのが功を奏したと言っても良いかも知れない。
「つっても、此奴等の言う事も仕様が無ぇ話だぜ? 幾らなんでも干物が着る様な服じゃねぇだろうよ?」
だが、だがしかしである、この状況でそんな挑戦的過ぎる台詞を吐いた者が居た。
「おや……干物とはご挨拶だねぇ旅猫の。暫く見ないからどっかで死に損なっているのかと思ってたら案の定、性懲りも無く根無し草の股旅生活かい?」
けれどもそれに対して返って来たのは、獄卒達に向けられたのとは違う、昔馴染みの無事を知ってほっとした……と言った風情の言葉だった。
古い友人だと言うのは、お互い軽々しい口調で憎まれ口を叩き合うその姿を見れば、誰の目からも明らかで有る。
「只人ならば兎も角、お前さんだって神の端くれだろ? 人間出身の新任死神ですら若返ってんだ、何百……何千? やってるかは知らねぇが、古株も古株のお前さんが手前ぇの姿一つ自由に出来ねぇ筈がねぇだろう? 見苦しいからさっさと姿を変えやがれ」
暫し軽口を交わした後、沙蘭が曾祖父さんを指し示しながらそう言えば、
「あちきが生きた人間の前で本性を表せば、そいつは衆合地獄行きがほぼ確定に成っちまうんだけど……。まぁ界渡りを為せる様なお子様ならまだ大丈夫……かねぇ? んじゃ、そっちの獄卒どもと新人は散りな、お前さん達にゃぁ目に毒だからね」
意味有りげに笑いながら、回りの者達を手で追い払う。
「……別れは済ませた、儂は儂の仕事に戻る。次に此方へ来るのは、ちゃんと天寿を真っ当してからにしろよ」
慌てた様子で走り去る獄卒達と、そう言いながら振り返る事も無く背中越しに手を振り去りゆく曾祖父さん。
その姿が見えなく成るまで見送った俺が振り返ると、其処に干物の姿は無く……噎せ返る様な色気を纏った、ボン! キュ! ボン! と擬音が見えそうな程の……布地から零れ落ちそうな胸元が特徴的な美人が居たのだった。
艶無く白く色落ち振り乱したかの様なボサボサ髪は、流れ落ちる漆黒に星の輝きを散りばめた様な夜空の如き美しさを取り戻し、皺に埋もれて見る事も叶わなかったその瞳は、鋭く切れ長で有りながら母親の様な優しさを湛えている。
顔立ちは日本的なソレと言うよりは東南アジア系の美人と言った風情で、左目の下の泣き黒子が印象的に見えた。
そして……何よりも目を引くのは、たわわに実った米級の巨大な母性の象徴だ。
前世と今生を通して思い返しても、圧巻としか言いようの無いこの大きさは記憶に無い。
しかもそこから下、急速に窄まった腰のくびれも俺の記憶には無いほどに細く、更に下へと視線をやれば見えてはイケない部分をギリギリ隠す程度の……極めて短いスカートから伸びる白く細い脚。
確かにコレを目にして情欲を感じないのは、男として間違っている。
俺がもう少し性長していたならば、きっと彼女の言う通り、邪淫の罪を犯した者が落ちると言う衆合地獄へ行く様な事に成り兼ね無かったかも知れない。
隠神剣十郎と言う大人の男としての意識が有るからそう言う視線を彼女に向けてしまうが、猪河志七郎としての俺は未だそう言う事に対する興味は無い……筈だ。
「変な目で見られたくないってんなら、もちっと遠慮した姿に成りゃ良いのに……。どうしてそう、無駄に肉付きの良い身体にするのかねぇ」
呑気そうに煙管を燻らせながら同族にしか興味は無い、と言わんばかりの態度で呆れ混じりの声を沙蘭が上げる。
「別に大きくしようと、態々思い描いて化けてる訳じゃぁ無いさね。あちきは『死』だけじゃぁ無く、子供の守り神だったり、出産の守護神だったりと、そっち系の権能も有るからね。まぁ母性が溢れちまって仕様が無いんだろ?」
寄せて上げる様な仕草で腕を組み、悪戯っぽい笑みを浮かべそう言い放つ。
「……前に会った時にはもちっと慎ましやかだったと思うんだけどな。腹回りを見る限り太ったって訳でもねぇだろうし」
自身の記憶との差が何処から来た物なのか、と悩み顔でそう言う沙蘭。
「幾ら古馴染みとは言え、その物言いは流石に失礼では?」
苦笑しつつ二人の会話に俺が口を挟む、
「全くだよ。太った痩せたなんてのは話題にするもんじゃないよ。幾ら同じ女同士だって言ってもね」
と、冥土長が同意する。
……ん? 一寸待て? 今、何にかとんでも無い事を口にしなかったか?
「っえ!? 沙蘭! あんた……女だったのか!?」
その言葉を今一度咀嚼し、結果上がる驚愕の声。
「ん……? 儂等位の古い化物にゃぁ性別なんてのはどうでも良い話だぜ? どっちに化けるかなんてのはその時の都合次第だしな」
ソレに対して返って来たのはそんな言葉だったが、
「何言ってんだよ。お前さん産まれた時には間違い無く雌だっただろ。ほれこの通り点鬼簿にはちゃんとそう書いてあるよ」
胸の谷間から取り出された警察手帳の様な物を捲り、その一頁を指し示す。
「んな何百年も前の事なんざぁ覚えちゃ居らんわ。さっきも言ったが古い変化は手前ぇがどっちだったかなんて忘れてらぁ。そーいうお前さんこそ男神だった時代も有るだろ? 神様なんて混ざったり離れたりでちょいちょい姿が変わるんだしよ」
動かぬ証拠を突き付けられてムキに成った様子で沙蘭が言い返せば、
「はん! 生憎あちきは産まれて此の方男だった事なんざぁ一度も無いね。なにせ根幹神格は飽く迄も『母神』だからね。アンタみたいにコロコロコロコロ、好き勝手に化けたり……化けたり……? アレ? 娘に化けた姿を見た記憶は有るんだけど……?」
何か腑に落ちないと言う様な表情で軽く首をひねり……、それから一つ手を打ち。
「そーだよ! アンタ、女に化けた時にも殆ど胸がぺったんこで男に化けてるといっつも勘違いされてたんだ! それで最初っから男に化ける様に成ったんだ!」
その身に纏った気品と色気は、指を指して涙すら流しながら大爆笑としか表現のしようが無い下品な笑い声の前にあっさりと砕け散ったのだった。




