三百四十一 志七郎、悲しみの河原を知り元凶姿を表す事
「おいおい流石に一寸可怪しいぞ? 何だってまぁこんなにも警備が厳重なんだよ……」
沙蘭がそんな事を呟いたのは、比較的安全に渡河出来る筈の場所を十箇所以上回った頃だった。
あの世の……地獄の刑期は恐ろしく長い……いや永い。
最も軽い『等活地獄』ですら、その刑期は人間の時間に換算して『一兆六千六百五十三億千二百五十万年』などと言う気の遠く成る様な永さなのだ。
しかも現世に有る刑務所の様に模範囚だから刑期短縮仮釈放なんて事は無く、死んだらハイそれまでヨと言う事も無い。
そもそもの話、地獄の刑罰は概ね苦しめて死なせる様な拷問ばかりで、刑期を終えるまでは只管『死』と『復活』を繰り返す物なのだと言う。
と成れば当然ながら、地獄の囚人は只管延々と増え続けるばかりなのだが、ソレを管理する側である現場職員達は限られた人材の中で対応せざるを得ない。
なにせ彼らの『一日』は俺達人間の『五十年』に等しく十四歳で元服する考えても、一人前に成るまで人間換算で二十五万五千五百年と言う莫大な時間が掛かるのである。
「そんな訳であの世ってのは常に人手不足でな。神様のソレよりも圧倒的に深刻なんだわ。んだからこんな場所まで、態々切れ目無く警備を回す余裕なんざぁ無ぇ筈なんだがなぁ。色々と計算が狂っちまったわなこりゃ……」
参ったなぁ……と、笠の中に前足を突っ込み後頭部を掻きながら、そう言い放つ沙蘭。
何が有ったのか今の段階で情報は全く無いが、それでも俺達に取って決して良い状況とは言えない事位は容易に想像が付く。
とは言え、そんな状況でも見つかり追いかけられたのは先程の一回だけで有る。
なにせ見回りに当っている獄卒達の練度が余りにも低いのだ。
三人一組が徹底されている様なのは、まぁ評価に値すると言えるかも知れないが、ソレ以外は論外としか言い様が無い。
折角三人合わせて六つ以上の瞳が有るというのに、皆揃って同じ方向を見て行動し、時には互いの顔を見ながら談笑すらして居る。
長い時間ただ黙って巡回するのは、集中力を保つのも難しい為、多少の会話程度は仕様が無いと言えるが、話にのめり込み周囲への警戒が失われては本末顛倒だ。
人間と身体の構造が全く同じとは断言できないが、それでも今の所見た限りでは後頭部に目の有る者は居らず、少なくとも前を見たまま後方を警戒する様な真似は出来ないだろう。
と成れば、一人が右前方を警戒し、もう一人が左前方を、最後の一人が後方を、と三者でそれぞれ視界を重ねずに警戒しながら移動するのが警備の定石なのだが、ソレがしっかりと出来ている者は居なかった。
その様子はろくすっぽ訓練を受けていないド素人がいきなり現場に放り込まれ、上司の下では言われた通りにやっていたものの、その監視から外れた瞬間から気が抜けた……と言うような感じだろうか。
兎角、そんな素人集団に多少心得が有る者が上役に立ったとしか思えぬ様な、付け焼き刃の警備状況故に、俺達はこうして呑気に河を眺めていられる訳で有る。
とは言え、練度に付いては先方も解っている事なのだろう、その分巡回するチームを増やし、切れ目を作らない事で上手く対応して居る様に見えた。
「強引に突破するのは悪手。なら向こうが疲れを見せ、警戒が緩むのを待つしか無いかな?」
それら状況から察するに、何らかの理由で警戒レベルを引き上げ、訓練も終わっていなければ、当然経験も薄いそんな連中を強引に投入して居るのが今なのだ。
人手不足を人海戦術で補うと言う、余りにも矛盾したその方法がそうそう長く続けられる筈も無い。
制限時間に追われ、少しでも急がなければ成らない状況なのは間違いないが、『急いては事を仕損じる』『急がば回れ』だ。
……ん? 回れ?
「……そう言えば、何か意図的に避けてる場所が有りますよね? 警備が厳重な場所なら避けるのは当然ですけれども、様子を見る事すら無く避けるあの辺には何が?」
死者の列が連なる『渡し』や、遠目からでもあからさまに警備が厳重な『橋』を避けるのは、まぁ理解出来る。
だが此処に来るまで沙蘭が近寄ろうともしない一角が有った。
しかも俺がそちらへと視線を向けようとすれば、話を振ったり、視界に飛び込んだりと、何か見せては不味いモノが其処に有ると言わんばかりの対応で有る。
彼の先導でさっくり渡河出来れば、不満には思っただろうが、俺から触れる様な事では無いと流せただろう。
しかし明らかに彼の思惑通りに事が進まない以上、どうにか状況を動かす手立てが欲しい所で有る。
「……彼処は『賽の河原』だよ。逆縁の不幸を犯した子供が親の涙が尽きるまで、成仏する事すら許されず延々と石積みをさせられる場所さね」
対して沙蘭はそんな言葉を苦々し気に吐き捨てた。
「手前ぇの勝手で、手前ぇで死を選んだ奴が咎められるのは仕様が無ぇ……いや将来の有る子供が手前ぇで命を断つなんざぁ、よっぽどの事情が有るんだろうさ。病やら事故やらだって手前ぇの罪じゃぁ無ぇだろうよ……」
苛立たしげにそう言う沙蘭。
その言に拠れば『賽の河原』では理由如何を問わず、ただ親より先に死にその親が悲しみ続けている限り、それを『罪』として一律に裁きすら受ける事すら許されず、苦行を強いられる場所なのだと言う。
真っ当な親ならば早逝した子供の事を悲しまない筈が無い。
しかしその悲しみこそが子供を責め立てる『罪』で有り、石を積み上げる事で功徳を積み、それを以て親の悲しみを癒やさねば成らないのだそうだ。
「それでも昔はまだマシだった」
煙管に煙草を詰めながらそうぼやく。
幼い子供が病気やら何やらで死ぬのは当たり前の事で、親も割り切って次の子を作ったりと、そう長く一人の子供について嘆いたりはせず、子供を縛り付ける『悲しみ』が弱まれば子供を救う仏様――地蔵菩薩が迎えにやって来る。
だが夫婦の間に生まれる子供の数が減り、一人の子供に向けられる愛情が深く成れば成る程に、親の悲しみはそう簡単に癒える物では無くなった。
そうなると如何なお地蔵様でも子供を縛る力を断ち切る事は出来ず、今の河原には苦行を続ける子供が溢れかえっているらしい。
一番簡単に渡河出来る場所は其処に有り、旅猫又として幾度と無く界渡りを繰り返して来た沙蘭は何度もその光景を目にし、いい加減ウンザリとした気持ちに苛まれ……旅猫を引退したのだと言う。
……この場合の子供と言うのは文字通り『幼い者』と言う事では無く、親より先に死んだ『子供』と言う事だそうで、本来ならば俺自身が石積みを強いられる立場だったのだ。
その姿を……しかも積み上げた石を鬼が突き崩す様な所を目の当たりにすれば激発しない自信は無い。
……正直、聞かなければ良かった。
親の悲しみが罪だと言うならば、ソレをどうこうする様な事が俺に出来よう筈も無い……それでも何か出来る事が無いのかと思い悩み、顔をしかめたその時だった。
「やぁっと見つけたぞ……つか、その面はまた余計な事考えこんで阿呆見たいに思い悩んでやがるな。辞めとけ辞めとけ、人間にゃぁ人それぞれ分って物が有らあ。その手の余計な物を背負い込むのは神か仏か……百歩譲っても坊主の仕事だぜ?」
そんな台詞が耳に届くまで、俺達に気付かせる事も無く地獄の獄卒を引き連れた三十路絡みの……前世の俺に瓜二つとしか言いようの無い袴姿の男が姿を現したのだった。




