三百三十九 志七郎、逃げ隠れしあの世の闇を知る事
「探せ! そっちはどうだ!」
筋肉質な赤鬼がそう叫ぶ。
「いや、此方にゃぁ影も形もねぇ!」
それを受け、ひょろ長のっぽの青い鬼がそう返す。
「畜生! 何処に行きやがった!」
苛立たしげに手にした金棒で近場の草むらを薙ぎ払いながら、丸々と太った黄色の鬼がそう吠えた。
「見つけて生きたまま捉えりゃ、金一封と臨時休暇が貰えるんだ! 絶対捕らえて新婚旅行に行くんだ!」
余程気合が入っているのか赤鬼は握りしめた拳を震わせながら、力強くそんな事を曰う。
「一寸待て、鬼十郎! お前何時の間に嫁さんなんぞ貰ったぁ!?」
振り抜いた金棒を戻す事無く、彫像の様に全身を強張らせた黄鬼は、首だけをゆっくりと赤鬼の方へと、比喩ではなく錆び付いた扉が軋む様な音を立てながら向き直り怒声を張り上げた。
「何ぃ! 鬼十郎が裏切っただぁ! 儂ら三匹生まれし時は違えども、何時如何なる時も決して抜け駆けせぬと誓っただろ! 真逆! 真逆貴様ぁ! 彼女が居たとでも言うのかぁ!」
正に鬼の様な――いや、鬼その者なのだが――形相で、目からは滝の様な涙を零しながら、憤怒と慟哭の入り混じった複雑な声色で追求すれば、
「あ!? しもた!? い、いやまだ結婚はしてない! 式にはちゃんとお前等を呼ぶ積りだったんだ」
慌てて弁解の声を上げる鬼十郎。
「やかましい! 仕事なんぞしてる場合じゃねぇ!」
しかし嫉妬に狂った男がその程度の言葉で落ち着きを取り戻す筈も無く、
「おう! 鬼十郎を吊るすぞ! 皆を呼んで晒し上げじゃ!」
二匹の鬼は揃って職務よりも己の感情を振りかざす事を優先する。
「ばっか野郎! 猫の一匹だけなら兎も角、生きた人間をあの世に入れたら、上から大目玉を食らう程度じゃ済まねぇぞ! ちゃんと式の二次会じゃぁ、女房の友達を紹介する様に頼んでおくから、先ずは仕事を優先だ!」
だが、赤鬼が次に放った言葉を耳にした瞬間、
「ッチ! 情状酌量の余地有りか……」
「仕様がねぇ、サボり扱いされて無給残業の刑なんざぁ確かに御免だ……」
二匹は揃って苦虫を噛み潰した様な顔で一旦矛を収め、
「「だから! 絶対! 可愛い子の紹介を頼むぞ!!」」
持てない男の悲哀がこれ以上無い程に篭められた雄叫びを響かせてその場を後にする。
それから暫くの後……
「……行った、みたいだの」
彼らの姿が見えなくなったのを確認し、沙蘭が草むらから立ち上がりそう呟く。
「……安全なルートが有るんじゃ無かったのか?」
が、渋く決めた積りに成っているその態度が気に入らず、俺は冷めた目で彼を見ながら冷たくそう言い放つのだった。
『あの世』と一口に言っても河の向こうは場所に拠って管轄が違い、複数の領域を跨いで権限を持つ上級職員ならば兎も角、其処らを警備して居る下級職員達は、管轄外の場所に立ち入る事は許されていない。
その為境界近くを斜めに越境する様な形で浅瀬を渡っていけば、万が一此方側で見つかったとしても、追手は其処までしか居ってこれず、一度河を渡ってしまえば向こうの者に見つかったとしても追い返されると言う事だけは無いのだと言う。
そんな沙蘭の言葉に従って俺達が来た場所から比較的近い位置に有ると言う、該当の場所へとやって来たのだが、普段ならば数時間に一回程度しか来ない筈の巡回警備が、何故か今日に限っては途切れる事無く何度も往復していたのだ。
その姿を遠目に確認し、場所を変えようかとそう言っていた時だった。
不意に腰から下げた鬼切手形が、丸で消音状態にした携帯電話の様に震えたのだ。
「うわっ!?」
そして俺は思わずそんな声を上げてしまった。
ソレがもっと死者の行列に近い所であれば、その喧騒に紛れ問題には成らなかったかも知れない。
だが俺達は正規の『渡し』から大きく離れた場所の浅瀬を目指していたのだ、俺の声は遮る物無く辺りに響き渡る。
「ぬ!?」
「何奴!?」
「御用だ! 御用ぅだぁ!」
どんな理由に依るものかは解らないが強い警戒状態で巡回していた鬼達がソレを聞き咎め、此方を追って来たのはある意味当然の事だった。
どれ程の距離を逃げたかはハッキリとは解らないが、それでも結構な距離を逃げた筈だ。
河の此方側には明確な区域分けは無いらしく、俺達を見付けた三匹の鬼は只管俺達を追いかけて来た。
この手の遁走には慣れているらしい沙蘭の先導は確かな物で、他の鬼達に出会わなかったのは、彼の実力の程を示していると言えるだろう。
ついでに追い掛けて来た鬼達が比較的『馬鹿』だったのも幸いだった、応援を呼ばれれば完全にアウトな状況だったにも関わらず、彼らは自分達の手柄を優先してソレをしなかったのだから。
そうして大人の背丈程も有る葦が生い茂る草むらへと逃げ込んだ俺達は、草の深い所で身を屈めて彼らが通り過ぎるのを待っていたのが冒頭の状況だったという訳だ。
「……儂らの他にも橋破りでもしようとした馬鹿が居ったんかねぇ? ちょっち尋常じゃぁ無い警戒具合だわ。それに見つかったんは儂じゃぁ無くてお前さんの責だろう? んで、何が有ったんだぃ?」
然程疲れたと言う様子では無いが、それでも結構な距離を逃げた上で、追手から隠れ通したのだ、一息入れても罰は当たらんだろう……と、沙蘭は煙管に煙草を詰め込みながらそう問いかけて来た。
小休憩自体に否は無い、俺は一つ息を吐いて腰を下ろしつつ腰の鬼切手形へと手を伸ばす。
『此方は世界樹運営委員会です、長期間に渡る大規模な保守点検作業大変お疲れ様でした。今回の修正作業により、外部からの不正な入界を阻止する結界の適用対象に変更が有りました、詳細は昨日配布した仕様変更資料でご覧下さい』
と、そんな連絡事項が表示され、その下には俺があの世界へと帰らねば成らない制限時間が『七七七,四四,十五……十四……十三』とハッキリと浮かんでいた。
そしてソレを見て気が付いた事が有る、下の二桁――恐らく秒を表していると思われるソレが、あちらの世界に居る時の様に速く成ったり遅くなったりする事無く、間違い無く一定速度でカウントダウンがなされているのだ。
残り七百七十七時間……大凡三十二日と言った所か……想定していたよりも大分短い残り時間に、少しだけ不安が胸を過る。
「大凡一月……かぁ……まぁ行って遣れないたぁ言わねぇが、思ったよりも、厳しい旅路に成りそうだの。あの厳重な警備網を突破して、可能な限り最短ルートを押し通って……ギリギリ間に合う……と良いなぁ」
制限時間に付いて話すと、沙蘭は煙管の吸い殻を肉球の上に落としながら、何処を見ているかも解らぬ遠い目で河を見やりそう呟く。
その表情を見れば、彼ですら今まで経験した事の無い高難易度な状況を匂わせるには十分な物だった。
「おっと、まだ他にも何か有るみたいだ」
手形の一部に、如何にもココを押せと言わんばかりに点滅する羊皮紙に何やら書かれたそんなマークが写って居たのだ。
ソレをスマホの要領でタッチしてみると、俺個人に宛てた物という訳では無さそうな件名の、メールなのか掲示板なのか判然としない物が表示される。
『大規模保守点検作業に伴う、振替休暇の取得について』
その中の一番上に気になる一文が目に入り、ソレをタップしてみる。
『突発突貫作業お疲れ様でした。このメールが配信された時点を持って、特務体制は解除されます。当直担当を除き、最大三十六時間の臨時休暇取得が認められました。七百六十八時間ぶりの休暇をお楽しみ下さい。当直の皆様はご愁傷様でした』
……此方の世界でも、向こうの世界でも、神様の仕事というのは随分とブラック労働が蔓延して居る様だった。




